薄暗い室内で、小柄な少年はため息をついた。

「何度来ても、辛気臭い部屋ですね」

 小さな窓が一つしかないこの部屋は、日中でも光が入らない。

「まるで、牢獄……おっと、言いすぎました」

 せめてもと、少年は黄色く小さな花を飾る。少年の名は、垣(えん)。
若くして珪南砦の武将に任命された儀凱(ぎがい)の世話役だ。
虫の居所が悪そうな態度に苦笑しつつ、儀凱は垣に話しかける。

「お姉さんは元気でしたか?」
「はい、男の子でした」
「それはめでたいですね」

 垣の姉は昨年に近くの村に嫁いだが、無事に出産も終え、元気でやっ
ているようだ。

「私の予定では、儀凱様と姉が一緒になる予定だったんですが……」
「ご縁がなかったと思って諦めてください」

 何度も繰り返したこのやり取りは、冗談半分だと分かっている。
部屋の掃除を始めた垣の横を、邪魔にならないように通り過ぎる。

「儀凱様、どちらに?」
「散歩に行ってきます」

 垣は儀凱を上から下まで眺めた。愛用の剣のみを腰にさげ、質素な普
段着の儀凱に眉を潜める。

「それが有能な武将様の格好ですか?」

 聞こえない振りをしてそのまま部屋を出た。
閉めた扉の向こうか垣の声が聞こえる。

「暗くなる前に帰って来てくださいよー!」

(それが“有能”な“武将様”に言う言葉だろうか…)

 薄暗い廊下はひやりと冷気を持っている。窓から見える景色は光に満
ちていた。外の世界が〈陽〉ならば、砦の内部は〈陰〉だ。

 この珪南砦は、珪州と光州の境目にあり、今一番、重要視されている砦
だった。

 光州とは光一族が納める広大な土地だ。
豪胆な武将の光領殿と才知溢れる息子の光凌殿といえば、身分の低い
儀凱でもその名を知っている。
もちろんこんな辺境の地で生まれ育った儀凱が知るのは名のみで、まさ
に雲の上の人達だ。

 その彼らが今となっては、白皇に楯突く反逆者だった。彼らは青皇の子
息を名乗る男を〈赤皇〉と称し〈白皇〉の世を覆そうとしている。

「父上、世も末ですよ。貴方が今の世を見たら何とおっしゃるか」

 無意識に左腰に下げる剣を握りしめる。

 とたんに儀凱は、眩しい光に目を細めた。砦を一歩外に出ると、透き通
るような青空が広がっている。爽やかな初夏の空気を胸いっぱいに吸い
込むと、気持ちが晴れ晴れとする。

 垣には散歩と行ったが、実は人と会う予定があった。

 町をぐるりと囲む灰色の壁にそって歩いて行くと、程なくして砦の入り口
にたどり着く。そこに一目で旅人と分かる男が立っていた。

 腰に剣は無かった。代わりに背中に大きな荷物を担いでいる。
男は儀凱に気がつくと、人馴れした笑顔を浮かべる。

「儀凱様ですか?」

 頷くと、男は気さくに儀凱の手を握る。

「荷厳です。しばらくの間、よろしくお願いします」

 短い黒髪に日に焼けた肌が健康的な男だった。

 「亡き父の書庫を拝見したい」という者は今までもいたが、どれも彼も青
白く、文官や研究者といった雰囲気が漂っていた。

 それだけに、今回の荷厳は珍しい。王都から来たと言っているが、儀凱
相手に偉ぶる様子も無い。

 荷厳は、儀凱に案内されるままに、珪南の町を物珍しそうに眺め歩いて
いる。

 珪南の町は砦にも係わらず、なかなか広く美しい景観だ。運河から水を
引き、街中に川が流れている。川で女達は洗濯をし、子ども達はずぶ濡
れになって遊んでいる。家は質素なものが立ち並ぶが、緑が多く、広場で
は定期的に市が開かる。
 こののんびりとした景色を眺めていると、戦場はもちろんのこと、ここが
砦内であることも忘れそうだ。

「最前線とは思えないな……」

 ふと洩れ聞こえた荷厳の呟きに、彼は軍人かもしれないと思う。

「こちらです」

 父の生家ではなく、少し離れた場所にある書院へと案内する。主を失く
して使われることのなくなった書院だが、垣が時々掃除をしてくれている。

 鍵を開け、荷厳を招き入れる。

「どうぞ、ご自由にお使いください」
「ありがとうございます」
「私も時々、顔を出しますので、御用があればその際におっしゃってくださ
い」

「そんな、将軍のご子息にそのような……」

 恐縮する荷厳に、儀凱は苦笑する。

「息子と言っても私はただの養子ですから。お気遣いなく」

 荷厳は驚いた顔をした後に、人懐こい笑みを浮かべる。

「私も王都からのただの使いっ走りですから、お気遣いなく」

 荷厳につられて笑みが浮かぶ。この日から、ふらりと書院を覗いて、荷
厳と話をするのが儀凱の日課になった。




 荷厳の話は面白い。あちらこちらを旅しているようで、話題も豊富だっ
た。

 研究の邪魔をしてはいけないと思いつつ、つい長居をしてしまう。
今日も朝から書院を訪れていたが、昼になって昼食を運んできた垣に見
つかり追い出されてしまった。

 砦に戻る気にもなれず、川べりに寝転ぶと、遠くに子ども特有の甲高い
声が聞こえこの場を和ませる。誰かが近づいて来た。殺意も敵意も感じ
ないので、儀凱はゆっくりと目を閉じる。

「なにしてるのさ!!」

 元気な声が頭上から降って来た。

 垣の家の近所に住んでいるふくよかな女性だった。手には空の籠も持
っている。今から市に行くのかもしれない。

「あんた、仮にも偉い武将様がこんな所にねっころがって、ボーとしている
んじゃないよ!!」

 本当に偉いと思っているのか、その親しみに満ちた態度に笑みがもれ
る。

「武将なんてそんなに偉いものじゃありませんよ。一般兵と何も変わりま
せん」

 今までは軍の中の一人として戦っていたが、これからは一部隊の指揮
をとって戦う。それだけの違いだ。
 おばさんはお腹を揺らして豪快に笑う。

「あんたのそういう飾らないところがいいねぇ。砦のお偉いさんはいけ好か
ない奴が多いけど、あんたは大好きだよ」
「そう言ってくれるのはおばさんだけですよ」

 おばさんはニヤリと笑う。

「あんた良い男なのにねぇ。その綺麗な顔。優しい物腰!
 私があと、20歳若ければほっとかないよ! いい人はいないのかい? 
なんなら紹介してあげるよ!」
「じゃあ、20年前のおばさんを紹介してください」

 儀凱がにっこりと微笑むとおばさんは「いやだよ、この子は!!」と、激
しく背中を叩いた後、照れながら行ってしまった。背中が予想以上に痛く、
軽率な発言を少し後悔してしまう。

 まだまだ日は高い。砦に帰るのはもっと先でいいだろう。

「市に行こうかな」

 儀凱は鼻歌まじりにふらふらと市への道を辿った。

 市はいつも通り、物と人であふれていた。道の左右にぎっしりと並ぶ店。
食料・果物・花ここではほとんどの物が手に入る。しかし、そこにはいつも
の活気がなかった。
 
 店をのぞいてもいつもの半分も商品がないのだ。珪南は、光州と珪州
の境目にあるため、物は光州から流れてくることが多い。光州と敵対して
いる今、その流れが滞ってしまうことは当たり前のことだった。
 穏やかなこの町にも確実に、戦の影は忍び寄ってる。

「よっ! そこの男前な兄さん! この果物美味しいよ、食わなきゃ一生
後悔するよ!」

 明るい声に気が抜ける。果物売りのおじさんを笑顔で交わしつつ思案す
る。

(光州は、今、この砦を落とさないともう後がない。必ず、王都軍が到着す
る前に攻めてくるに違いない。戦は免れない、それは確実だ)

 考えに夢中になり、前の人にぶつかる。

 「すみません」と顔を上げて初めて異常な雰囲気に気がついた。
市の真ん中で人だかりが出来、流れが止まっている。

「可哀想に……」
「誰か助けてあげられないかしら……」

 小声で呟く人だかりの間を抜けて、円の中心に向かう。
そして近づくにつれて、儀凱は頭が痛くなった。

 嫌に見覚えある鎧。その肩には珪南軍の象徴である緑の蛇がはっきり
と見える。そして、現状は、どう見ても嫌がる女性を無理やり誘っているよ
うにしか見えない。

「困ります」

 女性は頭に布を巻いているのでこの角度からは顔が見えないが、何か
を必死に兵士に返そうとしている。

「何故だ! その籠のものを全部買おうと言っているのだ!」
「金額が多すぎます。こんなにもいただけません」
「だからお前も来いと言っている!!」

 兵士は一目を気にせず、女性に迫る。あまりの情けなさに涙出そうにな
る。儀凱は、溜息をつくと一気に人ごみを分け入り、男の左腕をつかみ上
げる。

「な、なんだお前は!!?」
「あなたこそ、どこの軍のものですか?」

 殴りかかって来た右手を強く弾き、つかんでいた腕をねじり上げた。

「いでてててでっっ」
「これくらいで痛いと言ってほしくないですね」

 肩の紋章は珪南全軍とも緑の蛇だが、軍によって僅かに違いがある。
よく見ると、残念なことにこの砦の総指揮をする徴郭(ちょうかく)の兵士
だった。

「放せっっ!!」

 言われるままに放すと男は無様に倒れた。

「くっ、舐めやがって! この小僧がっっ!!!」
「小僧? 若いことは認めますが、せめて若造と言ってほしいですね」

 実際、目の前の男は、自分より一回りは年上だろう。

「若……造……」

 男はぴたりと止まると、食い入るように儀凱を見た。そして、さぁっと青く
なると「も、申し訳ありません!!」と土下座し走り去る。

 今の反応からすると、砦内の儀凱の呼び名は“若造”に違いない。
自分で、せめて若造と言っておきながら少し情けなくなる。

「あの、ありがとうございました」

 女性は深く頭を下げた。貧しい身なりに汚れた服。おそらく付近の村か
ら物を売りに来たのであろう。思っていた以上に若い。女性と言うより、少
女と言う言葉が似合う年頃だ。

 「大丈夫ですか?」と聞いた後に、儀凱も深く頭を下げた。同じ珪南軍と
して恥ずかしく、申し訳ない気分でいっぱいだった。

「申し訳ありませんでした」

 顔を上げると少女は驚いた顔をしていた。儀凱が、説明しようとすると
背中を叩かれ、前につんのめる。

「やったじゃないのさ、あんた!」
「おばさんっ!?」

 振り返ると先ほどのおばさんがいた。おばさんは勢い良く人だかりを振
り返る。

「ちょっとお聞きよ! この人、今はこんなだらしない格好をしているけど、
なんと珪南軍の武将様だよ!!」

 だらしないは余計だと思う。しかし、おばさんは止まらない。

「砦には嫌な奴も多いけど、ちゃんとこの人みたいに立派な方もいるんだ
よ!」

 人々は「おおっ」と感嘆の声を漏らす。

「もしかして……儀凱様?」
「ほら、あの珪将軍の!」

 一人また一人と儀凱の正体に気がつきその名を口に出す。その声は最
後には大歓声へと変わっていく。逃げ出したい気分でいっぱいだったが、
人々は儀凱につぎつぎと売り物をよこした。

「感動したよ、これ貰ってくれ!!!」

 これもあれもと次々に渡されて、手が塞がってつく。隣りの少女もまた、
「大変だったねぇ」と言われながらいろんなものを渡されていた。

 結局二人とも持ちきれなくなり大きな籠を背負うことになった。
どうにか市の人だかりを抜け出し、川べりに荷を降ろす。
頭や着物を触られ引っ張られて、着乱れた情けない格好になっている。
隣りで同じく疲れきった顔をしている少女に声をかけた。

「大丈夫ですか? えっと……」

 そういえばまだ名を聞いていなかった。少女はにっこりと微笑む。

「エンと申します。」
「えっ? 垣……ですか?」

 女性は頷くと土に“燕”と書く。儀凱は間違いに気がついたが、それでも
驚きを隠せない。

「偶然ですね。私の友人も“エン”と言いますよ。まぁ彼は友人と言ったら
怒りますが……」

 もう一人の燕は小さく首を傾げた。なかなか可愛い仕草だ。
良く見ると燕も儀凱と同じくらい酷い格好をしていた。あの群集に囲まれ
たのだから仕方ない。

「ああ、そうだ」

 そう言って、自分の荷を背中に、燕の荷を肩に担ぎ歩き出す。
燕は何が何だか分からないまま、儀凱の後ろをついて来た。
素直なことはいい事だが、どうも危なっかしい。もし儀凱が先ほどの男の
ような奴だったら、いったいどうするつもりなのか、ふと心配になる。

 しかし、もちろんそんなはずはなく、儀凱は、先ほどの軍の無礼の詫び
たいと思っていた。

 川沿いを歩き、砦近くの小さな家の前で止まる。家の前には可愛らしい
黄色い花が咲いていた。扉を叩き呼びかける。

「垣、入りますよ」

 予想通りに垣は家の中に居た。砦の儀凱に与えられた部屋は陰気臭
いので、すぐに自分の家に戻るのだ。

 垣は儀凱の姿を見て凍りついた。無理もない。
乱れきった服装に何故か大きな籠を二つも背負い、後ろに女性を連れて
いるのだ。

「こ、この状況をいったい私にどう理解しろと……??」

 垣は頭を抱え込んだ。

「最悪の予想は人様の畑から作物を盗み、娘も攫って来た……なのです
が」
「そうだったらどうしますか?」

「ぶん殴ります」

 目が本気だった。後ろで燕がくすくす笑っている。

「そんなことをするはずがないでしょう……」

 荷物を降ろすと体が軽くなった。

「分かっています。早く私に理解できるように説明してください」
「助けていただいたのです」

 燕が遠慮がちに声を出した。儀凱は適当にかい摘んで、市であったこと
を話す。

「さすが儀凱様。信じておりましたよ」

 儀凱は、本当ですか?と、問いたくなったが垣があまりに嬉しそうなので
やめておく。

「垣、頼みがあるのですが……」
「あーはいはい、この方にお詫びをするのですね。確かに珪南軍の恥じで
すものね。着物を直して、我が家の晩餐にでもご招待しましょうか」

 何も説明していないのに、すべてを理解して準備のために奥の部屋に
消えて行く。

「ば、晩餐? あの……」

 燕は逃げの体勢を取っている。

「安心してください。晩餐と言う名の質素な食事ですから」

 燕ににっこりと微笑みかけたが、言っていることは限り無く情けない。

「ああ、儀凱様! どうせなら、あの客人もお呼びしますか?」

 奥の部屋から垣の声が聞こえ、儀凱は、それに「そうですね」と答える。
燕は、その言葉によりいっそう逃げの姿勢になる。

「あの、本当にけっこうです! 助けていただいてありがとうございました」

 深く頭を下げると、さっと出て行こうとする。儀凱は、とっさに燕の腕をつ
かんだ。白い腕は細すぎて、力を入れれば折れてしまいそうだ。
じっと燕を見つめると、なぜか違和感がある。

「燕の村はどちらですか?」

 そう訪ねると、「規村です」とすんなり答えが返ってくる。規村は光州の端
っこにある小さな農村だ。

(何がおかしいのだろうか?)

 はっきりと分からないが、燕は今まで出会ったどの女性とも違う気がす
る。

「何、見つめ合っているんですか」

 戻ってきた垣の声で我に返る。

「あっお邪魔でしたか? 口説き中? 儀凱様が積極的だなんて、珍しい
ですね」

 燕の腕を離しつつ「違いますよ」といちおう否定しておく。
垣は、「はいはい」と言いながら、燕の背中を押すと無理やり席につかせ
た。そして、感心したような声を出す。

「へぇ、良くこんな可愛い子を捕まえてきましたねぇ! 儀凱様も、やると
きはやるんですね」
「何を言って……違います」

 慌てて否定すると、垣がにやりと笑う。

「ほぅ、では燕は可愛くないと?」
「ちがっ、そういう意味では……」

 明らかにからかわれているのが分かったが、動揺を抑えられなかった。
また燕に笑われてしまうと思うと、余計に焦ってしまう。
くすくすと笑う燕に先ほどの違和感はもう感じない。

(気のせい……なのだろうか)

 垣は何故か上機嫌だ。

「燕、この着物は私の姉のものなのですが、良かったら着て下さい」

 ためらう燕に萌葱色の着物を手渡す。

「その姿で帰ったら家族の方は驚いてしまいますよ」

 そんなことを言いながら奥の部屋に案内する。

「儀凱様」

 垣は神妙な面持ちで戻ってきた。何かあったのかと緊張が走る。

「これも何かの縁です」

 応援しています。と言い残し垣は台所へと消えて行く。
儀凱は、ただただぼけっと突っ立っていた。
垣は何を期待しているのか。

「応援してくれなくていいのですが……」

 その呟きは垣には聞こえなかった。





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