太陽は真上に差し掛かり、香の腹も空腹を訴えてきている。早朝に光
凌と衝突した後も、香は赤軍に帰らず留まっていた。

 ちらりと視線を向けると、荷厳が兵士と親しそうに話している。

 たった数時間しか行動を共にしていないが、光軍の中で荷厳と出会っ
たことはこの上ない幸運だと理解する。

「ってな訳でさぁ、光陵様から書簡が飛んでくるんよ。
 こう、ビシッと俺の顔面をめがけて。
 まぁ今となっては投げられた書簡を受け止めてさらに投げ返せるくらい
になったかなー」

 荷厳はさも自慢げな表情をする。固い表情をしていた兵士は堪え切れ
ないといった様に笑い出した。

「で、これが俺と同じく哀れな子」

 香が会釈をすると、兵士は興味津々に香を見る。

「この子、赤皇関係者なんだけど、光凌様付にさせられてしまってさー。
すっごい可哀想なのよ。さっきも殴られるわ、暴言はかれるわで……」

 香が悲しそうな顔をすると、兵士も哀れみの視線を向けてくる。

「んで、この子の勉強のために、天幕の中ちょっとだけ見せてやってくん
ないかな?」

 その絶妙な話術は何度聞いても感心してしまう。

 戦前でピリピリしている兵士の心を和らげ、不信感を抱かれないように
自分の用件を告げる。

 先程から何回もそれを繰り返し、普通では入れないような、武器庫、兵
糧庫として使われている場所に入りこんでいる。

「この軍の中で一番苛酷な職業についている、荷厳殿の頼みとあれば断
る訳にはいかないな」

 兵士は苦笑しながら、天幕内へと招き入れた。

 話術もさることながら、光凌の親衛隊という地位はとても都合が良い。
低すぎず高すぎず、忙しすぎず暇すぎず。

 そこに人好きされる明るく楽しい性格が加わり、さらにあの光凌直属の
部下ということでの同情も加わって、荷厳を悪く思う人はまずいない。

(まるで、私の情報収集を手伝うためにいるような人だわ)

 心の中で、荷厳に出会えた最大級の幸運に感謝する。

 「手早くな」その小声に荷厳は「悪いね」と返して、香と共に中に入ってい
く。外からの光が透けているため、天幕内は薄暗い程度で、灯りがなくと
も見る分には困らない。

「さぁてと、これが最後の兵糧庫だ。これを見終わったら本当に帰ってね」

 荷厳が大げさに泣きマネをして香に釘を指す。香は「はい」と返事をした
ものの、麻袋を数えることに夢中でまったく荷厳を見てなかった。

「やれやれ」

 手頃な高さの麻袋に腰をかけ、何気なく香を観察する。

(あんな必死になっちゃって……)

 まだ年端もいかない少女が争いごとに巻き込まれるというのはなんとも
痛々しい。
 荷厳がこれくらいの年齢の頃は、将来のことも考えず、適当に学問をこ
なしつつ親の庇護下で安穏と暮らしていたものだ。

(今となってはこんな生活しちゃってるけど。あーあ、あの平和な頃が懐
かしいよ、ほんと)

 香はくるりと振り返ると、荷厳が座っている麻袋を数えて、持っていたノ
ートにメモを取る。

「終わりました! 荷厳さんありがとう、帰りましょう! 今、すぐに!!」

 香は荷厳なんて待っていられないと言うように勢い良く天幕の外に出
る。

「あーはいはい、おじさんはもう用済みなのね」

 苦笑しながら後に続く。
 外には、昼の眩しい日差しと、にこにこした香が待っている……はずだ
った。しかし、開口一番に荷厳の口から出たのは、短い悲鳴だ。

 香に目を向けると石像のように固まっている。

 兵糧庫の護衛を任されていた兵士は、俯き表情が見えないがものすご
い小声で「簡便してくれよー」と情けない声が出ていた。

 荷厳は覚悟を決めてこの場を氷つかせている魔物に視線を向ける。

「このような場所に、な、何の御用でしょうか? 光凌様」

「それはこっちの台詞だ。なぜお前がここにいる、そしてなぜこの餓鬼が
ここにいる、そしてなぜお前はどもっているのだ。元来、人は己の内にや
ましいことが有る場合、言葉を詰まられせるものだ」

 まるで地の底から這い出てきたような心底冷える低音。それは魔物どこ
ろでなく、魔王様の光臨だった。

(ああぁああ!! もう逃げちゃおうかなー)

 これから荷厳の身に起こる大惨事を想像し、半泣きになりながら胸の
木札をぎゅっと握る。

 しかし、荷厳が行動するまえに動いたのは香だった。その目には怯えよ
り怒りが色濃く映っている。

「申し訳ありません光凌様、私が荷厳にお願いして無理に光軍を見せて
もらっていたのです。何分、森で拾われた無知で無学な餓鬼なもので」

 カッと目を見開いたままの微笑は、明らかに光凌に喧嘩を売っている。
しかし、挑発に乗ることなく光凌はフンッと鼻で笑う。

「なるほど……無知で無学だが、無害な獣ではなかったようだな」

 光凌は香に手を伸ばすと持っていたノートを奪い取る。ぱらぱらめくると
しばらく記号の羅列が続いたかと思うと、途中からびっしりと文字で埋め
尽くされている。

 光凌は、兵糧の貯蔵をメモした箇所に止まり眉を潜めた。そこには食
料、武器と書かれ、数が記されている。

(ちっ。一定の規則に従って書いているようだが、私の知らない語源だ。
そもそもこれは字か?)

 8やら3やら書かれたそれを見て眉を潜める。しかし、香が光軍の情報
を嗅ぎまわっていたことは一目瞭然だった。

 これくらいの情報なら知られても何も問題はない。

 ただ一つ問題なことは、存在自体が良く分からない香が「赤皇の血筋」
だった場合だ。

 荷厳が報告したいくつかの噂の中で確かそのような言葉があった。
もし仮にもそうだった場合、香は王の血を引いていることになる。

 いくら我を失っていたとはいえ、王族の人間を切ろうとしたのは不味い。
そして、昼間の小火(ボヤ)騒ぎの一見で垣間見た、赤軍とも親しくなく、
光軍への敬意もない、むしろのどちらにも区別のない態度を見た後で
は、その可能性を完全に否定することはできない。

 よって、光凌は急ぎ香を探していた。

(このくそ餓鬼……どうしてくれよう)

 今、これから光軍、赤軍が共に戦うにあたって、自分の本当の性格や
行動が赤皇にばれるのは不都合だった。

 それが分かる程度には、光凌も己の性格の悪さを自覚している。

(くっ! あの時、こいつらが来なければ、このようにくだらないことで時間
を費やすこともなかった)

 光凌が睨みつけると、香は今だとばかりにノートを奪い返す。

「汚い手で触るなバーカ!」
(殺す……お前、絶対殺す……)

 心の中で汚く罵りながらも、光凌はぐっと耐える。

「……赤皇の元に戻ることは許さん。戦が始めるまでの間、お前は俺の
下働きだ」

 怪訝な表情をする香に、歯軋りしながら言葉を続ける。

「……王の……赤皇の役に立ちたいのだろう。ならば私の指示に従うの
だ、いいな」

 言葉の合間に苦しそうに「くっ」とか「うっ」聞こえるのは気のせいだろう
か。

 香は「誰がお前の下で働くかー!」と殴りたい衝動に駆られたが、
“赤皇の役に立つ”という言葉でぎりぎり思いとどまる。

「は……はい、よ……ろしくお願いします」

 壊れかけた人形のようにぎこちなく頭は下げるが、その両手は屈辱で
ぶるぶる震えている。

 それを外から見ていた兵士と荷厳は余りの緊張感に冷や汗が出てい
た。光凌は、くるりと背を向けると呪い殺すような声で荷厳を呼ぶ。

「このクソ餓鬼……いや、こやつの世話はお前に任せた」
「はぁ!? ちょっと、私いちおう光凌様の護衛が仕事なんですけど!?」

「護衛しながらお守りもしろ。できなかったら切り捨てる」

 それ以上何も言うことはないとばかりに光凌は去っていく。

「この状況どうしたらいいんだ!?」

 荷厳は助けを求めるように兵士を見ると、兵士はほっと胸をなでおろし
ていた。きっと内心は、「俺でなくて良かった、咎めもなかったし」だろう。

(しょせん……人なんて自分が一番可愛い生き物だよ……)

 こうして荷厳の心に軽く人間不信を植え付けながらも、香は当初の目的
「光凌の元で働く」を達成した。




 その一部始終を物陰から見ていた者がいた。

 深く兜を被っているせいでその表情は読み取れないが、光軍兵の武装
をしていた男は、何のためらいもなく、赤軍の方に歩いて行き、物陰で鎧
兜を脱ぎ捨てる。

 全身黒い衣装をまとった男は、兜を脱いでもなお顔の半分を布で隠して
いる。

 闇に溶け込む黒い髪に灰色の瞳はまるで、男が生まれながらにして、
影に生きるために定められているかのようだ。

(なかなか面白いものが見れた)

 男は無表情のまま、黒ずくめの異様な姿を隠そうともせず赤軍内を歩
いてゆく。それを目ざとく見つけた甘睦が必死に走りよってきた。

「李准(りじゅん)! 香様はどうだった!?」

 その様子を見て、“そういえばこいつにも奴を見張るように言われてた
な”とようやく思い出す。たまたま村長と同じことを頼まれたから、安易に
引き受けたことをすっかり忘れていた。

 それくらい面白いものを見てきた。

 李准は無言で甘睦に手を差し出す。甘睦は「金取るのかよ!?」とぶつ
くさ言いつつも、懐からけっこうな額を出す。

「当たり前だ。この忙しい時にお前の個人的な頼みを聞いてやっているの
だから、もっと感謝してほしいくらいだ。ちなみに今回は特別だからな」

 李准の言葉を鵜呑みにした甘睦は、本当に申し訳なさそうに頭を下げ
る。

「くっ! すまん。で、どうだったのだ!? 香様は危ない目にあっていな
かったか!?」

 ここで本当のことを言ってしまうと、甘睦は卒倒しかねない。
しかし、面白そうなのであえてその姿を見てみたいという気持ちもあった
が、それより今の最優先事項は、真の主へ報告だろう。

「残念ながら俺には余り猶予がない。簡潔にいうとお前の愛娘は無事だ」

 “愛娘”という嫌味すら通じず、甘睦はあからさまにホッとする。

「そして、とても面白い……いや、良く頑張っている。
 正式に光凌の元で働くことになった。開戦までこちらに戻ってくることは
あるまい。そして、今の状態から命を奪われる可能性はない。後は開戦
前にお前がここから無事に光州まで連れて行ってやればいい」

(まぁ……その間、重度の精神的苦痛は味わっているかもしれないが)

 その言葉はあえて伝えない。

「そうか、良かった!ありがとう」

 純粋な感謝に少し呆れつつその場を離れた。その際にわざと独り言を
呟く。

「……うむ、あれはなかなか良い殴りっぷりだった……」

 思った通り、その言葉に甘睦は過剰に反応し「は!? ちょっと待て!」
と追いすがってきたが、少しも相手にせず先を急ぐ。

 狭い村で子ども達は、皆兄弟のように育った。その中で甘睦は「からか
ったら面白い奴」の烙印を李准が勝手に押している。

(昔は、俺が甘睦をからかって怒らせて、あいつが笑いながらなだめてい
たっけ)

 ちなみにあいつこと赤皇は、年下のくせに昔から思慮深く、からかいが
いのない奴だった。

(もうあの頃には戻れまい)

 “あいつ”は色を名乗り、李准は村長の意思で隠密行動している。

 さすがに、甘睦が周香に傾倒したのは予想外だったが、それ以外、赤
皇の擁立、光州の寝返り等は今のところ村長の想定範囲内だ。

(まっ、俺は俺なりに生きてゆくさ)

 僅かに胸に残った感傷を打ち消すように、李准は気配を消す。
そして、未だに暢気に昼寝をしている老人に近づいた。

 気配を消しているにも関わらず、老人はうっすら目を開ける。

 そこには息子を見るような優しさはなかった。実際血は繋がっておら
ず、李准自身この人物を親と思ったことはない。

「ご報告します」

 今度は己が見てきたことを見てきたままに全て報告する。そこには感想
や感情を一切交える必要はない。

 この情報を得て、何を考え何を実行するのか、それは己の仕事ではな
い。

 李准はそれを理解していた。



 王という光の道を強制的に歩かされる赤皇。

 存在自体が怪しい周香の支えとなることを決めた甘睦。

 そして、ただひたすら影として生きることを選んだ李准。



 共に育ち、今なお共に同じ方角に向かっていても、3人の道は決して昔
のように、ただ純粋に交わることはない。

 そのことを、納得しているし、昔に戻りたいとも思わない。

(大人になるということは、そういうことだ)

 ただ、ふとした瞬間に少し懐かしくなる。
 それもまだ事実だった。




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