第三章 二人の策士


 香(かおる)の前には次々と料理が運ばれた。干物や汁物だけでなく、
温かそうなご飯も添えられている。

(すごいご馳走だわ)

 村に居たときですら食べたことのないような料理が並び、香は現在置か
れている状況も忘れてにこにこしてしまう。

(――おいしい!)

 豆汁ばかり食べていた舌は別の料理に大喜びし、空腹は最高のスパイ
スとなる。しかし、我を忘れて恍惚としている香を睨みつける視線があっ
た。その怒りは香にではなく、荷厳(かげん)に向けられる。

「なぜこいつがここで食事をしている」

 その言葉のとおり、光凌(こうりょう)の天幕内で香は暢気に食事をして
いた。光凌はと言うと、今後の軍の支持を出すために忙しく筆を走らせて
いる。

「あのですね。残念ながら私の身体は一つしかないため、光凌様の護衛
しつつ香ちゃんの傍にいるためには、ある程度お二人が同じ場所にいな
いと成立しません」

 認めたくはないが、正論だった。

 光凌は荷厳を気に入っている訳ではないが、他の親衛隊の連中は、さ
らに頭が悪いため、荷厳を護衛から外す訳にはいかない。

 そして、この「もしかしたら王族かもしれないクソ餓鬼」をそこいらの阿呆
な連中に任す訳にもいかない。そもそも今は戦の準備に追われていて、
どの部隊も忙しくくだらないことに人員を割くわけにはいかなかった。

「うっ……くっ……仕方あるまい」

 鉛を呑み込むような不快感を抑えつつ、光凌は己の仕事に戻った。
 作業にさえ没頭してしまうと回りは一切気にならなくなる。それは、文官
としては優れた才だったが、現状では致命的な欠点でもあった。
だからこそ、いつでも必ず護衛を傍に置く必要がある。

 香はというと食事が進み、腹が満たされてくるとようやく回りを見る余裕
が出てきた。ちらり、ちらりと光凌の観察を始める。

(何度見ても憎たらしい。その不健康な顔を思いっきり殴ってやりたいわ)

 光凌の顔は不健康の塊のように青白い。そして、その双眸は爛々とあ
やしく光っている。

(どこの魔王だ……)

 しかし、光凌がどこの魔王であろうと、残念ながら彼は味方で有り、か
つ現在の香の主でもあった。

(分かったわよ……殴らない……従います)

 誰に何を言われた訳でもない。

 敢えて言うなら香自身の理性に諭され、光凌に対する憎しみをひとまず
抑える。それには、腹が満たされたということも大きく貢献していた。

 食べ終わった後の食器を布で拭くと外に運び、あらかじめ荷厳に教えて
もらった場所へ持ってゆく。
 そこには細かい備品を管理している天幕があり、香は「ありがとうござ
いました」と言うと、兵士はにかっと笑う。実は先ほど荷厳と回った際にこ
の天幕内も見せてもらっていたので、兵士とはちょっとした顔見知りだっ
た。

「坊主、大丈夫か? また、いじめられてないか?」
「あっはい、大丈夫です! ……今のところ」

 後半のみ嫌そうに言うと兵士はまた笑う。

「いじめられたら逃げて来い。ちょっとくらいだったら匿ってやるからな」

 その言葉に笑顔を返しつつ香はもと来た道を戻る。

(それにしても私は男に見えるみたい……)

 荷厳はすぐに女だと気がついたようだが、他の人は必ず香のことを少
年と間違えた。
 それは香が着ている服が男物だったことと、王都では女性が髪を短くす
る風習がないからなのだが、香は知る由もない。

 天幕に戻ると光凌の姿はなかった。そうなると必然的に護衛の荷厳の
姿もない。
 香は一様辺りを伺った後、光凌が使っている簡易の机に近づいた。

(情報収集、情報収集)

 心の中でそう繰り返しながら、机上の書物に手をかけた瞬間、ばさりと
天幕の入り口が開き、光凌が現れた。その後ろには荷厳の姿もある。

 慌ててその場を離れた。しかし、目ざとい光凌には香の行動などお見通
しのようだ。

「縛り上げるぞ、この猿! 私の机には一切近づくな」
「……すみません」

「ああ、そうか初めから縛り上げておいたらいいのだな。食事さえ与えて
おけば死にはしないだろう」

 しぶしぶ謝った香を見て、光凌は真剣にそんなことを言い出す。
それが冗談だったら楽しく笑えたものの本気なのが分かるため、荷厳は
引きつった笑いしか出てこない。

「光凌様、今はそれどころでは……」
「分かっておるわ、さっさと書簡を出せ」

 荷厳は言われるがままに何個か積んであった書簡の山から1つ抜き出
し渡す。そこには、光軍が今回進軍するにあたっての情報が事細かに書
かれている。

「やはりおかしい……。おい、小僧、そうだ、お前だ。お前以外に誰がい
る。お前先ほど我が軍の兵糧を調べていただろう。読み上げろ」

 急に話しかけられて香は慌ててノートをめくる。荷厳が横で、「食料の数
を知りたいんだって」と小さく説明してくれる。

「食料庫1は130、食料庫2は82、武器庫……」
「もういい黙れ」

 さすがに、「ひど!?」と思ったが、光凌のひどく真剣な顔を見て押し黙
る。

「なんだその数は……」

 荷厳から、すでに香は麻袋の数を数えていたことは聞いている。数え間
違いを差し引いてもそれはおかしな数値だった。

「……多すぎる」
「多すぎると何か問題が?」

 とっさに口を出してしまった香は慌てて手で口を塞いだ。しかし、光凌は
それどころではなかったようで、相手が香だということも忘れて説明を始
めた。

「確かに困ることではない。ただ、今回の進軍は白至(はくし)の命令なの
だ。兵糧は王都から出ている。なぜ事前に連絡があった数と異なるのだ」

 光凌に知られずにそんなことを出来るのはただ一人、父である光領(こ
うろう)だけだ。

「父上は、この進軍が始まる前から、白皇(はくこう)への謀反を考えてい
たのか……いや、違う。確かに父上は赤皇の村のことを調べていた。し
かし、それは白至の命でだ。
 その命により、赤皇の場所を掴んだ、だからこそ今回の進軍が行われ
たのではないのか?
 何かがおかしい……俺は何を見落としているのだ」

 そう言って香の顔を見、ようやく我に返ったのか、思い切り眉を潜めた。
どこが具合が悪くなったのかと思うほど、苦しそうな顔をした後、光凌は
投げつけるように香に書簡を渡す。

「見ろ、意見を言え」

 本当は死んでも頼りたくない相手だったが、香に感じた違和感、なぜか
この状況を外から見ている第三者の意見が知りたい。

 香は光凌にビクつきながら書簡に目を通す。

(見ても分かるわけないじゃない。これは何か意見が言えなかったら怒ら
れるとかそういう嫌がらせなの?)

 それはそれで悔しいと思い、根気良く書簡に目を通すと面白いことを見
つけた。その僅かな表情の変化を光凌は見逃さない。

「なんだ、言え」
「へ? あ……いえ……つまらないことです」

「つまらないかどうかは俺が決める、いいから言え」

 香は部隊編成の箇所を開き、指を刺した。

「いや……この軍って本当に光一族(こういちぞく)の人しかいないんだな
ぁって……」

 後半は「思っただけです……」と消え入りそうな声が続く。そこには、光
領、光凌を筆頭に、光とつく名前が延々と書き綴られている。

(え? 本当につまらないよ、香ちゃん!?)

 荷厳ははらはらしながらことの成り行きを見守っている。光凌は香から
書簡をひったくると荒々しく先を広げた。そこには、今は敵軍となってしま
った本軍の詳細が記載されている。

 今回、光領軍は、ただの挟み撃ち要因だっため、謀反さえおこさなけれ
ば気楽な使命のはずだった。

 本軍である王都軍には、多少他州の武将の名もあるが、それを遥かに
上回りずらずらと揚州(ようしゅう)の武将の名が上がっている。激しい舌
打ちと共に光凌は怒鳴った。

「くそっ赤皇に気をとられすぎていた! 今のこの図式は、揚州対光州
だ!敵は揚州の青狸(あおだぬき)、しかも白至の弟子が向こうについて
いるとなれば……」

 怒りのままに投げつけた書簡を、荷厳が見事にキャッチする。

「我々が白皇を裏切ったのではない。白皇が……いや、白至が……我々
を、光一族を切り捨てたのか、くそ!」

 父の言葉が頭をよぎる。

(我々には赤皇につく以外、生き残る道はない)

 なるほど、王都から軍を出した瞬間、光一族の命運は赤皇にかかって
いたのだ。白皇に切捨てられた今、一族は謀反人の集まりだ。

「白至め……ここで赤皇もろとも光一族を滅ぼすつもりか……」

 しかし、赤皇を掲げる限りこちらにも大義名分ができる。
白皇の世が間違っているのだと、我らの主は赤皇なのだと。
光領はそのことを知っていて行動していたのだ、そしてなぜか光凌にそ
の事実を告げなかった。

 光凌はばさりと天幕をあけると、振り返らずに言い放つ。

「お前も来い!」
「はっ」と答えて荷厳が後に続くと、光凌は歯噛みをする。

「違う……お前が来るのは当たり前だろうが……。
 お前だ、お前……ええい、ややこしい!香、一緒に来い!
 荷厳は配下に命じて、もう一度兵糧庫を数えさせろ!私は父上の元に
行く、その後すぐに護衛に戻れ」

 初めて光凌に名前を呼ばれた香はビクついたものの、すぐに拒否権が
ないことに気がつき、恐々と後に続く。その様子を見ていた荷厳はぽかん
と口を開いた。

(なんかちょっと予想外に面白いことになってきたな)

 荷厳は常に首からぶら下げている木札を無意識にカンカンと指で弾くと
一人ごちた。

「……一度報告するか」

 荷厳は親衛隊が控えている天幕にひょっこり顔を出すと、テキパキと指
示を始めた。

「という訳で、食料庫の詳細をよろしく。
 ちなみに、光凌様が光領様の元から戻ってくるまでの間だから、できる
かぎり迅速にな。多少の誤差は構わないから、できしだい光凌様の天幕
に届けてくれ」

 5人の兵士が返事を返し、きびきびと仕事を始める。

「ふぅん、優秀なんだけどなぁ。光凌様の親衛隊、何が気に入らないんだ
ろう」

 そう呟きながら、人気のない方へ足を進める。どんどん歩き、陣営の外
へ行こうとするとさすがに兵士に声をかけられた。

「荷厳様、どちらへ?」

 若い兵士の素朴な疑問に荷厳は人懐こい笑みを浮かべた。そして、魔
法の言葉を口にする。

「うん、ちょっと光凌様のわがままを叶えに」
「あ……それはご苦労様です」

 兵士の目には哀れむような同情の色が浮かぶ。
それを背に受け、ただひたすら足を進めた。陣営は遥か遠く、荒れた地
に光凌ただ一人になる。

 荷厳は小さな笛を口に加え、ピィーと音を鳴らした。
しばらくすると澄み切った空に一羽の鳥が現れる。
鳥は数回上空で円を描いた後の、ずしんと荷厳の腕に舞い降りた。

「痛い痛い、いたっ、爪が痛いって!」

 毎度お馴染みの苦情を言っても鳥には伝わらず、早く餌をくれとせっつ
いてくる。荷厳は懐から干し肉を出すと、鳥に与えた。そして、旨そうに食
べている鳥の足の筒に手紙を入れる。

「よーし頼んだぞ、飛んでけー!」

 ぶんと腕を上空に振ると鳥はそのまま空に舞い上がる。
大空へ舞い上がる姿を確認しつつ、荷厳はため息をついた。
動物を連絡手段に使うことほど不安なことはない。

(ちゃんと届くことの方が不思議だよ)

 それでも、この相棒は今のところ必ず役目を果たしてくれている。
今回も、数日後には役目を果たして、向こうでおいしい肉をいただいてい
ることだろう。

(まぁ、間違って手紙を落としても、あれを読める人自体少ないからいい
けどね)

 そして、そ知らぬ顔で陣営内へと戻っていった。しかし、荷厳の腕から
飛び立った鳥は、役目を果たすことができず、今、地に落ちている。

 李准(りじゅん)は方の上に止まっている、己と同じく真っ黒な鳥に干し
肉を与え、短く褒めると、空に放った。
 それを見送った後、足元でもがく鳥にそっと手を伸ばすと、信書を抜き
取り目を走らせる。その目は次第に細められてゆく。

「……読めん」

 仕方がないので、赤軍まで戻りそれを村長に手渡した。
村長はしばらく信書と睨みあったが顔をあげると珍しく眉を潜めている。

「正確には解読できんな……」

 そこにはこう書かれていた。

『へいへい、おゲンキ―? 正直、俺ものすんごくキツイんですけど!?
 お前だろ、勝手にコウリョウの配下に入れたの?
 なんか知らんがうっかり俺様、親衛隊長だよ。
 まぁ、それは帰ってからじっくりコブシで語り合うとして……面白い人間
に出会った。
 名はカオル、今はセキグンに在籍している。出生に不明な点が多くて、
さらに言葉使いからさっするに、俺たちが探していた人間のカノウセイが
高い。まったくお前の読みは恐ろしい程当たるな。
 しばらくは共に行動し、うまくいったらソッチに連れて行く。余り期待せず
に待っててくれ、以上』

 カタカナ表記がない世界で、このはっちゃけた文章を正しく解読すること
は不可能に近い。荷厳に言わせると、だからこそ念のためカタカナを使っ
ているのだと言うかもしれない。

「これから分かることは一つ、その荷厳という男、ただの親衛隊ではない
な。引き続き見張ってくれ」
「……御意」

 と、返事が聞こえたころには、李准の姿は見えなくなっていた。



 半ば走るように光領の天幕にたどり着くと、光凌はあらぶる気持ちを抑
えるために、深く長い深呼吸をする。そして、どこまでも冷静を装って、光
領付の兵士に名を名乗り面会を求めた。

「光凌様がいらっしゃいました」

 兵士はそう告げると、二人を天幕の中へと通す。
 中に入ると光領は赤皇と話していた。赤皇は光凌の後に続く香を見つ
けるとひどく驚いた。香はというと、朝、共に食事をしてから数時間程しか
離れていないことが嘘のように、とても懐かしい気がする。

(わーん、赤皇!)

 思わず駆け寄り、「こいつひどいんです!むしろ魔王なんです、騙され
ないでください、今のこの姿は猫かぶり発動中です!」と、光凌の横暴を
訴えたかったが、そんな甘えをぐっとこらえる。

 光凌は急ぎ赤皇に礼を取った。

「お話中、申し訳ありません」

 「いや、今終わったところだ」と光凌に答え、香に「先発隊のことを話し
合っていたんだ」と微笑む。その優しい笑顔に香の涙腺が弛む。

(良かった……拾ってくれた人が赤皇で本当に良かった。
 これがもし、光凌だったらまず拾ってくれない。
 奇跡的に拾ってくれたとしても、早々に切り殺されている自信があるわ)

 想像し寒気を覚える。

「外した方が良いか?」

 気を使う赤皇に、光凌は少し躊躇ったが同意はしなかった。

「これからお話することは、私の恥ですが、今後の軍の方針のために赤
皇にも聞いていただきたい」

 その言葉に光領は「気がついたか」とため息を漏らす。

「はい、愚かな私をお許しください。ようやく現状を正確に把握致しまし
た。王都軍の真の目的は光一族の殲滅ですね?」

 光領の無言を肯定と受け取り、光凌は話を続ける。

「しかし、どうしても理解できないことがあります。
 なぜ、この真意を私に隠す必要があったのですか?」

 老将はめずらしく苦悶の表情を浮かべた。それには問い詰めた光凌の
方が驚いてしまう。

「凌よ、すまない。お前にはどうしても言えなかったのだ。全てを説明する
には、余りに惨い。
 そして、現状を脱するにはどうしても正常なお前の力が必要なのだ。
 落ち着くなとは言わん、どれだけ叫んでも構わない……ただ、己を捨て
ることだけは許さない」

 その悲痛な姿に光凌は息を呑んだ。

(いったい父上は何の話をしているのだ)

「千凛が死んだ」

 ゆっくりと紡がれた言葉に全ての時間が止まる。

「……は?」

 息をすることすら忘れ、全ての礼儀をすっ飛ばし、その言葉だけが口か
ら漏れる。光領はそんな息子の姿を見ていられず目を伏せる。

「千凛はもうこの世におらん」
「は? 何を言って……だって、千凛は白皇の正妃で……え?」
「惨い殺され方だった。犯人は分からん、揚州の者かもしれんし、白至の
手の者かもしれん」
『兄さま』

 可愛らしく微笑む千凛の顔が、その声が光領の説明と重なる。
全身があわ立ったと思うと、光凌は無様にその場に膝をつく。

「あれ……? え? なぜ?」

 子どものようなその疑問に誰も答えることができなかった。

「今までひたすら隠されて来たが、我らが王都を離れている隙に、
 白皇の正妃が病死したと発表されているだろう。
 此度の件、光一族を排除するために千凛が殺されたのか、
 千凛が殺されてしまったから反撃を恐れて光一族の排除にかかったか
のかは分からない」

「はぁ、はは」

 懸命に呼吸をしようとする光凌の姿は、なぜか笑ってるように見えた。

「誰か、凌の手の者はおらぬか」

 その声に荷厳がひょっこり顔を出す。そして、これまた予想外の光景に
声を失った。とにかく苦しそうにしている主を支えると、困惑したように香
を見た。その目は『え? 何これ、何が起こったの?』と聞いてくる。

「落ち着くまで安静にしてやってくれ」

 そう言う光領に頭を下げると、荷厳は困惑したまま光凌を担ぎ去ってゆ
く。それを見届け光領は赤皇に礼をとった。

「たびたびお恥ずかしい所をお見せして申し訳ありません」
「いや、話はすでに聞いていたが……」

 赤皇も光凌の動揺ぶりに驚いたのか言葉を濁す。

「千凛とあれは大変仲のよい兄妹でした。
 そして、凌は身近な人間を失うことに慣れていない……おそらくこれが
始めての経験でしょう」

 暗殺という言葉がおとぎ話のように遠く感じてしまうほど、一族は繁栄
し、他の追随を許さないほど栄華を極めていた。

 揚州が白皇を擁立してからも、変わらず王都で重要な地位を占めてい
る光一族が、どれほど目の上のたんこぶだったか。行動に移される前に
気がつくには、光一族は平和慣れしすぎていた。

「どうしても言えなかったのです。あれはまだ若く、精神的に脆い。
 もし言ってしまえば、必ず敵を討つためにわが身を省みない行動をして
いたでしょう。
 このことを王都にいたころから知っているのは、私とその側近数人だけ
です」
「……光凌殿は幸せ者だ」

 赤皇から見たこの一見は、過保護の一言につきる。しかし、わが身が
苦しかろうと、息子を危険な目に合わせたくないという父親、なぜかそこ
には馬鹿馬鹿しさと共に羨望混じる。僅かな羨望はすぐに胸の痛みへと
変わる。

「光領殿、こんな時に悪いが、赤軍の食料は底をついている。ご配慮願
いたい」
「すぐに対応致します、ご安心を」

 そう答えた光領は、すでに将軍の顔に戻っている。

(息子は脆いかもしれんが、将軍は己の武力で今の地位を築いた豪傑だ
ったな)

 香と共に外に出る。少し歩くと、赤皇は香の頭をなでた。

「大丈夫か?」

 香は涙をこらえているのか、返事はせずにコクコクと頷く。大丈夫な訳
ない。きっとつらい思いをしているのだろう。

「せ、赤皇も……大丈夫ですか?」

 すんすんと鼻を鳴らしながら、目に涙を浮かべ香は赤皇を見上げてい
る。ただその一言で胸の痛みはどこかへ消えた。

「まさか香に心配される日がこようとはな」
「どういう意味ですかそれー」

 そのままの意味だったが、香は不満げだ。

「なぁ、お前は俺が苦しかったらどう思う?」
「嫌です」
「そうか」
「当たり前じゃないですか。赤皇、今苦しいんですか? 私は何かお役に
立てますか?」

 必死の香を見て笑ってしまう。
その姿には赤皇への無条件の信頼が見て取れる。
それがどれほど貴重なものか、今の立場になった瞬間から痛感してい
る。

「いいや、もう苦しくない」
(やはり香は、周老師からの餞別だ。……未熟な俺への。それ以外考え
られない)

 赤皇は、感謝の意を込めて香の頭をぽんぽんとなでた。

「頑張れよ、俺も頑張る。そして共に光州で会おう」

 それがどれほど難しいことが赤皇には分かっている。それでも約束した
かったのだ。

「はい!」

 嬉しそうに答えた香を見て、この約束を絶対に叶えてみせる。
そう誓った。




 香が天幕に戻ると、光凌は横になりぐったりしていた。荷厳の姿はなか
ったので、仕方なく隅っこで三角座りをする。

「うっく……」

 光凌が苦しそうに呻いた際に、頭を冷やしていた布がずれる。
香は見なかったふりを決めこんだ。
今まで生きてきて、これほど嫌いな人間に会ったことがない。
しかも、それに仕えないといけないなんて、いったいなんの拷問か。

(でも、学生の間ならまだもし、社会に出て会社に勤めるとこういう状況は
あるのかもしれない……)

 新入社員の香に、辛く当たる嫌味な上司、光凌。ドラマや漫画では良く
ある光景だった。だったらここは、布くらい拾ってやるべきか。

(いやいやいや、サラリーマンやOLは、上司に切り殺されそうにはなって
ない……はず)

 自分は悪くないと言い聞かせても、どうしても居心地が悪くて、
思考は同じところをぐるぐる回る。回っている間に、こんなことで悩んでい
ることが馬鹿馬鹿しくなる。

(えーい! 馬鹿らしい! 布を拾って、頭にのせるそれくらいするわよ。
 でもそれ以上はしないからね!)

 勢い良く立ち上がるとずんずんと光凌の元へ行き、すぐ傍に座り込む。
湿った布を拾うと光凌の頭にのせて冷やしてやる。

 普段から青白い顔は死んだ人のように白くなっている。
いくら嫌いな相手でも、弱っている人間を殴りたいと思うほど鬼畜ではな
かった。そのことに香はひとまず安心する。

(でも、いつも人を人とも思ってない、最低な人間が急に弱々しそうにする
なんて、なんか……ズルイ)

 何か納得できない複雑な気分になりつつ、その場を離れようとすると、
がしりと手首を捕まれた。

「ひぃ」

 驚き悲鳴を上げるが、光凌の眼は堅く瞑られたままだった。しかし、唇
は薄く開かれ、苦しそうに息を吐く。

「……千凛」

 香は、幸せなことにまだ身近な人を亡くすという経験をしたことがない。

 祖父は香が生まれる前になくなっているし、同居している祖母は80歳
に近いがまだぴんぴんしている。だから、光凌の悲しみが、どれほどのも
のでどうしてあげたらいいのかまったく分からない。

 捕まれた右腕を振り払うこともできず、ただただ光凌を見下ろす。

「千凛……すまない……」

 その目にうっすら涙が見える。

(ずるいずるいずるい)

 大嫌いな人間ならそのまま嫌わせてくれたらいいのに。
光凌が苦しんでいても、「ハンッ」と鼻で笑える精神力が今すぐに欲しい。

(どうしたらいいの……)

 困惑しながらも、結局香はその手を振りほどくことができなかった。

 荷厳が水桶を持って戻ってきた頃には、光凌に手を握られたまま、三
角座りをし自分の膝に顔を埋めるように香も寝息を立てていた。その微
笑ましい光景に、頬が弛む。

「若いねぇ……」

 こちらの世界に来てから、年を数えることをやめてしまった荷厳は、自
分の正確な年齢を知らない。だいだい30歳後半くらいだと勝手に思って
いる。

 香の体勢がつらそうだから、起こしてあげようかと思ったが、起こしてし
まうのも可愛そうな気がする。

「あー……うーん……」

 しばらく悩んだ後、このままにしておくことにした。

(さてと、もうそろそろ俺も本業に戻らないと)

 荷厳はそのまま天幕を出ると、まっすく陣営の外を目指した。
そこでは、先行隊が集まり光州へと向けて出発しようとしている。
その横を平然と通りすぎ、さらに歩き続ける。
誰も荷厳を呼び止めず、また荷厳も一度も振り返ることはなかった。

 そして、その時から光軍内で荷厳の姿を見たものはいない。



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