「まずいな……」

 人だかりをわけ入って様子を見て来た甘睦は、事態の思わぬ深刻さに
焦っているようだ。

 騒ぎから少し離れた所で待たされていた香に、事情を説明する余裕も
なくそのまま走り去ろうとする。

 しかし、「あ!」と声を上げたかと思うと、慌てて香の元に戻ってきた。

「申し訳ありません、私は赤皇に報告してきます。
 香様は、ここから動かないでくださいね」

 こくりと香が頷いたのを確認すると、また慌てて走り出す。

「絶対、絶対動かないで、そこで待っててくださいね!」

 甘睦の言葉に香は何度も頷き返した。
 何が起こったのか分からないが、自分のような子娘に何かできるなんて
これっぽっちも思っていない。むしろ、迷惑にならないように、ここで大人
しく待っていようと素直に思う。

 少し離れた所で、騒ぎの方に目を向けていると、見知った男が一直線
に歩いて来るのが見えた。

(あ! あの人、話し合いの場にいたおじいちゃん武将の息子さんだ。
 確か、コウ…コウ…?)

 どうしても名前が出てこず、"目つきの悪い人"と命名する。

 その目つきの悪い男が、人だかりの中に入ってしばらく、ざわっと騒が
しくなった。
 非常に気になるが、行っても仕方ないと自分に言い聞かせる。

 言い聞かせながらもじっとしていることができず、少しずつ人の輪の方
に歩いてゆく。

「きゃあ」

 誰とも分からない女性の悲鳴が上がる。
 それを耳にしたら、考えるより先に走り出していた。

 人を掻き分け騒ぎの中心にたどり着くと、そこには厳巌が鬼の形相を
浮かべ、先ほどの目つきの悪い青年の首筋に剣を突きつけていた。

 しかし、青年は怯える様子もなく相変わらず冷たい目つきで厳巌を見据
えている。

 その視線は“刺せるものなら、刺してみるがいい”というように挑発的だ
った。

(な…に?この状況は?)

 香は必死に理解しようと辺りを見回した。

 まるで強盗にでもあったかのように荷物が散乱し、近くには子どもを守
るように抱きかかえた女性がいる。

(これじゃあまるで、兵士が村の人に乱暴したみたい)

 しかし、例えそうであったとしても、赤皇は光州に逃げなければ王都軍
に捕まってしまうし、また逃げるためには光一族の力が必要不可欠なは
ずだ。

 赤皇と光一族は協力しなければならない。
 それくらい、余所者の香でも分かる。

(どうしよう?)

 騒ぎに集まっている村人達は、厳巌の気迫に飲まれ動くことができない
し、光軍の兵士たちは、主を守ろうと殺気だっている。

 甘睦が走りさったほうを見ても、人の姿はなく、戻ってくる様子もない。

(待っていろと言われたけど……。
 何か、何か出来ないかな?)

 せめて甘睦が戻ってくるまで時間稼ぎをしなければ。

 そう考えると、香は震える足を一歩前に出す。そして注意深く、視線を
めぐらし女性が抱きかかえている子どもでピタリととまる。

「ええ!? ちょっと、すごい怪我をしていますよ! 早く手当てをしなけれ
ば!」

 子どもは泣きつかれてしまったのかぐったりし、その足は赤く腫れ上が
っている。時間を稼ごうと思っていたが、それを発見すると我を忘れて声
を上げてしまっていた。

 その声で、いち早く母親が我に返り、こちらに泣き出しそうな顔を向け
た。

「この怪我はいったい!?」

 そう聞いても、母親は首を振るばかりだ。
 香は立ち上がると、人の輪に目を向ける。

「誰か、この子を治療できる人はいませんか?」

 その声で集まっていた村人たちの金縛りが解けたようだ。

 一人が「水を汲んでくるわ」と声を上げれば、「布だ、包帯用の布を持っ
て来い」「いや、消毒のために酒だ!」と、人々は一斉に動き出す。

 我に返ったのは村人だけではない。厳巌と退治していた兵士も「はっ」と
なり、香の方にかけてくる。

「その子どもの怪我は火傷だ!
 後始末が出来ていない焚き火の上に転んで、火が荷物に燃え移ったの
だ」

 そう言う兵士の手も、赤く腫れ上がっている。

「火を消して子どもを助けてくれたんですね……」

 兵士の痛々しい火傷の後を見て、胸が熱くなる。そして、赤皇にとって
の最悪の事態でなかったことに心から安堵する。

「ありがとうございます」

 香がお礼を言うと、村人たちもようやく本当の状況を理解できたようだ。

「おい、あんたらも酷い火傷だ! 早くこっちで冷やした方がいい」

 村人の一人が兵士を引っ張ると、子どもを抱えていた母親が「ありがと
うございました」とその背中に泣きながらお礼を言う。

 厳巌はその様子にあっけに取られていたが、「ちっ」と舌打ちをすると剣
を収めた。

「……悪かったな、光の旦那。こちらの早とちりだ」

 決まりが悪そうに頭を下げると、光凌に背を向け怪我人のほうに歩いて
いく。その後ろ姿を見て、光凌も内心激しく舌打ちをした。

(くっ! 厳巌が私を切りつけていれば、話が早かったものを)

 向こうの誤解によって、光凌が怪我をすれば、光一族対赤軍という図式
に容易くもっていける。そう考えた光凌は、わざと厳巌を挑発するような
態度をとったのだ。

 無能な部下が、今頃になって追いついてきて「大丈夫ですか?」と聞い
てくる。

 光凌は再び内心舌打ちをすると、途中でしゃしゃり出てきた子どもに目
を向けた。
 一見少女のような顔立ちだが、衣服は紺色の男物を着ている。

 そして、肩の上でばっさり切られている髪がその性別をはっきり表して
いた。この世で、髪をあのように短く切る女などいない。

 しかも、その顔には見覚えがあった。

「赤皇の隣にいた小僧か。何者だ?」

 傍にいた兵士に聞くと、兵士は困って首をひねる。その様子に今度は
はっきりと舌打ちする。

「お前、あの者の素性を調べておけ」

 兵士は嫌そうな顔をしたが、光凌に「いいな?」と念を押されしぶしぶ礼
をとる。
 それを確認すると、光凌は再び香に視線を向けた。

 村人に対して、えらぶる訳でもなく、かといって親しい訳でもない。そし
て、光軍の兵士に媚びるわけでもなければ、毛嫌いするわけでもない。

ようするに、村人でもなければ、もちろん光軍でもない。

 その態度はこの場にいるはずのない偶然通りがかったような“第三者”
だ。

(いったい何者なのだ……)

 この瞬間、光凌は初めて反乱軍の中の人間に興味を持った。
そして、また厳巌も村人たちと光軍の兵士に区別なく話しかける香をみ
て、その存在の特異さに気がついた。

(そうか、今、この場で赤軍と光軍以外の人間は嬢ちゃんだけか)

 そう思ったとたんに、赤皇が必ず香を右側に座らせていたことに気がつ
く。

「なるほど……そう言うわけか」


 この世には、“王の右側(うそく)”という言葉がある。

 これはとある王が一番信頼し頼りにしている者を、傍近くに置き、常に
右側に立たせたことから、王の信頼を得ている者のことを指す。

 多くは、文官最高位の軍師か、相談役の仙人がそう呼ばれることが多
い。

 しかし、権力が偏らないようにするために、または信頼出来る者がいな
い或いは、すべての者を信頼していると意思表示を込めて、右側に誰も
座らせないことがある。

 そして、今赤皇は、赤軍でも光軍でもない第三者の香を必ず右側に座
らせている。

(これは……赤か光もどちらも優遇するつもりはないってことか?)

 あるいは、赤軍も光軍も両者共に信頼しているという意味なのか。
 少なくとも、赤皇は、厳巌のように赤軍に固執する気はないようだ。

 赤皇の示している意図が分かり、厳巌は渋い顔をする。

 少し前まで、村人を困らせていた悪がきの大将は、いつの間にか本当
の王へと歩み始めている。

 その成長が嬉しいような寂しいような不思議な感情を湧き上がらせる。

「あの、大丈夫ですか?」

 気がつくと、香が心配そうにこちらを見上げている。
 その頭をくしゃくしゃと撫でると、厳巌はにかっと笑う。

「よぉー嬢ちゃん、助かったぜ! 今度、馬に乗せてやるからまた遊びに
来い」

 その言葉に香は顔を真っ赤にして嬉しそうに頷く。何故か分からない
が、厳巌と親しくなれたような気がする。

 そして、香はふと、この世界に紛れ込んで、部屋に閉じこもっていた自
分を思い出した。

 この世界の全てが怖くて、何も出来ないと泣いていた自分。

(何もできなかったんじゃない。何も考えられなかったんじゃない。
 私は、この世界に来て、何もしなかったし、何も考えていなかったんだ)


 自分が可哀想と哀れむだけで、

 何がしたいのか、

 どうしたいのか、

 考えたことがあっただろうか。



 でも、なにもしなくても赤皇は怒らなかったし、働いてもいない香に、毎
日きちんと食事を与えてくれていた。

(私はなんてわがままだったんだろう……)

 気がついてしまうと悲しく惨めな気分になったが、それと同時に赤皇へ
の感謝の念が溢れ出す。

(拾ってくれたのが赤皇で良かった。
 酷い目にも合わず、飢えることもなくいま私がここにいるのはすべて赤
皇のおかげなんだ)

 そう思うと、思わず拝みたい気持ちになる。
 そして、これ以上迷惑をかけたくないと思い、少しでもいいから赤皇の
役に立ちたいと思う気持ちが今まで以上に激しく沸き起こる。

 顔を上げると厳巌と目が合い、再びにかっと笑顔を見せてくれる。
 その周りには、怪我の治療を受ける子どもと兵士の姿、声を掛け合う
村人の姿がある。

 この光景を見て、何かが分かったような気がする。

(これが、私が決めて、私が行動した結果)

 香が口を出さなくても、こうなったのかもしれない。
 香の代わりに誰かがこの場を治めてくれていたのかもしれない。

 それでも、香が行動した結果、目の前の厳巌は香に親しい笑みを向け
てくれるようになった。

(欲しいものがあるのなら、自分で行動しなければ。
 帰りたいなら、帰る方法を探さなければ。
 赤皇に恩を返したいのなら、返すために自分ができることを探さなきゃ
駄目なんだ)

 ここには無条件で助けてくれるはずの家族も友人もいないのだから。

 ずっと心にかかっていた霧が、すっと晴れたような気分だ。
 そして、晴れた向こうには赤皇がいる。

 香が彷徨っていた間もずっとそこから見守っていてくれた人。
 これをこの世界の家族といわず、誰を家族というのだろう。

 その数分後、青い顔で戻ってきた甘睦が、香を見つけると急に声を荒
げた。

 いつも穏やかな甘睦が感情的になった姿を始めて見て、驚きを隠せな
い。

「なぜ私が、あれほど動かないでくださいと、
 待っていてくださいとお願いしたのに、動いたのですか!?」

 その顔は、怒っているというより、泣いているという言葉のほうがしっくり
くるような気がする。
 甘睦は、赤皇に命じられて香の護衛をしている人だ。

 だから香も甘睦は仕事で、香に良くしてくれているのだと思っていた。

 しかし、元から優しい性格なのか、香を気遣い心配してくれる姿は、護
衛を通り越して男性ながら母親に近い。

 現に今も真剣に香を心配し怒ってくれている。

(こんなに近くにもいたんだ……)

 自分を哀れむことに忙しくて、見えなかった優しさが今になってようやく
見えてくる。

「甘睦……ごめんなさい」

 素直に謝り頭を下げると、甘睦はへなへなと地面に座り込む。

「いいえ、謝るのは私の方です。
 私が香様の傍から離れたせいで、香様を危険な目に合わせてしまい申
し訳ありません」

 その声がまるで泣いているようだったので、香がしゃがみ心配そうに甘
睦を覗き込むと、その両肩をがっしり捕まれる。

「ご無事で良かった」

 優しさが心からあふれ出たような笑顔に、目頭が熱くなる。

(私は、この世界で、何ができるのかな?)

 何かしたい、何かしなければと思うと、自然にそれは、赤皇と甘睦の役
に立ちたいとなり、それなら、今はとにかく光州まで逃げ切らなければな
らないという答えに繋がる。

「話し合いに行かなくちゃね」

 香は自ら立ち上がると、まっすく赤皇がいる天幕に向かって歩き出す。

 風が香の髪をふわりとかき乱す。
 しかし、香はそのことを気にした様子もない。
 もしかしたら髪が乱れていることすら気がついていないのかもしれな
い。

 その姿は、つい先ほど水浴びをしていないことを気にしていた少女とは
思えない。
 甘睦が香から離れている間に、何かがあったのは明らかだった。

(何があったのだろう)

 心配だし知りたいと思う。

 しかし、今はそんなことを問うより、力強く歩き出したか弱い少女の後ろ
をただ黙って着いていこう。


 何故か甘睦はそう思った。




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