第二章 光の影
再び話し合いが始まったのは、日が暮れぽつりぽつりと白い星が現れ
始めた頃だった。
天幕の中にも蝋燭が灯され、集まった人々の顔をゆらゆらゆらしてい
る。
一番に口を開いたのは、やはり赤皇(せきこう)だ。
「さて、始めようか」
集まった人たちの顔を見た後、最後に右隣におとなしく座る香(かおる)
に満足そうな笑みを見せる。
こちらに向けられた笑顔には気がついていたが、笑顔を返すことはでき
ない。
(何かしないと……でも私に何が出来るんだろう?)
ずっと考え続けてきたが、名案は浮かばず話し合いは始まってしまっ
た。
光凌(こうりょう)は、静かに立ち上がると、自分の考えを語りだす。
「再度申し上げます。
やはり、ここは赤皇と父上、そして戦力外の者を先に光州へ向かわせる
ことが最善と判断します」
「そして、残った奴らは無駄死にか?」
厳巌(げんがん)が腕を組んだまま口を挟む。
「無駄死にではありません。
残った者で足止めし、時間を稼いだ後撤退します。
もちろん多少の被害は被りますが、何もしなければここで全滅ということ
になってしまうのでは?」
丁寧な口調とは裏腹に、光凌の視線は冷たく侮蔑を浮かべている。
しかし、厳巌は相変わらず気にした様子もなく赤皇に語りかける。
「俺はその作戦は気にくわねぇな。
その多少の被害の中に、どうしても光州軍が入っているとは思えねぇ。
しかも、つい先日まで王都軍の中心的位置にあった光一族が、なぜ急
に俺たちの味方になる? その理由はなんだ? いったいどこに光一族
の利益がある?
どうもはっきりしねぇ。信じたら最後、後ろからばっさり……なんて可能
性の方が高くないか?」
その言葉には、敵対しているはずの光凌も思わず同感してしまう。
(まったくもってその通りだ)
目の前の大男の意見は正しい。
現に光凌は、先に赤皇たちを行かせた後、赤皇の兵士に王都軍をぶつ
け、その間、光凌率いる光州軍が赤皇の後を追って始末するという筋書
きを立てている。
だからこそ、光凌自身もそれをずっと疑問に思っていたため、自然と視
線がこの状況を作り出した光領の方へと向く。
光領はそれまで、筋肉質な腕を組み目を閉じ話しの成り行きを聞いてい
たが、「父上」と遠慮がちに声が掛けられると、その双眸は見開かれ息子
に向けられる。
その余りの威圧感に、視線を受けた光凌はたじろいでしまう。
まるで鋭い牙をのど元に突き立てられているような錯覚に陥り、唾を飲
み込むことすらできない。
(これが、王都で将軍まで上り詰めた者の殺気)
そこにはいつもの父親の顔はない。しかし、光領の口から出てきた言葉
は、意外にも褒め言葉だった。
「凌よ、お前は頭が良い」
鋭い視線は変わらず光凌を射抜いている。
「それ故に、己の智識のみを頼り、策にて己の都合の良いように物事を
運ぼうとする。
それは間違いではない、むしろ軍師には不可欠な才だ。
しかし、お前は己の才に頼りすぎる余り、時に現状を正確に判断するこ
とに欠く」
光領の両眼は、「今がそれだ」と無言で畳み掛けてくる。
(現状を正確に判断していない……この私が?)
「ここへ来る道中、わしがお前に言ったことを覚えているか?」
決して口には出していないのに、光凌の考えることが見透かされている
ようだった。混乱した頭で、必死にその言葉を思い出そうとする。
確か、“赤皇につく以外、我らに生き残る術はない”
光領はそう言ったはずだ。
「何故です?」
その言葉にどうしても納得できない。
王都で栄華を極めた光一族が、何故今さら全てを捨てて、赤皇という一
人の反逆者に賭けなければならないのか。
疑問は不満へと変わり、不満は怒りへと発達する。
光凌は、威圧的な両眼を、鋭く睨み返した。
「勝率は極めて無いに等しく、敗北の代償は一族全員の命。
例えこの場を生き延びたとしても、多くを失い我ら手に入るものはない。
それでは余りに割りが合わないではないですか!?
それなら、いっその事……」
赤皇の首を白皇(はくこう)に差し出した方が良い。
その後に続くはずだった光凌の暴言は、光領の一喝で書き消される。
短く放たれた言葉に天幕中の空気が震えているようだった。
事実、余りの迫力に光領以外の全員がビクリと身体を振るわせた。
香は、恐怖で滲んだ涙がこれ以上溢れてしまわないように、必死に上を
向く。
(怖い……怖すぎるよ、この人たち……)
涙目で赤皇を見上げると、赤皇もまた顔を強張らせていた。
しかし、香と目が合うと一瞬ほうけた後、くっくっと忍び笑う。
その笑い声で、天幕内に張りつめていた空気が霧散した。
光凌は、呼吸することすら忘れていたのか、荒く息をつぎ、その横で光
領が感心したように赤皇を見て「ほう」と呟く。
厳巌もまた、この状況で笑い出した、赤皇の胆の太さに舌を巻いてい
た。
しかし、それにすら気がつかず、赤皇は笑い続けている。
笑いが収まってきたかと思うと、チラッと香を見ては、再び笑い出す。
それを三度繰り返した後、もう我慢できないといった様で香の頭を鷲掴
みにする。
「ひっ!?」
驚く香を全く無視して、赤皇は服の袖で香の顔をぐしゃぐしゃと拭いた。
そして、香の耳元で笑いを堪えながら囁く。
「鼻汁が出てたぞ」
(最悪だ……)
この緊迫した空気の中、鼻水を出してしまった自身はもちろんだが、こ
の状況でそれを見て笑い出した赤皇に対しても香は同じ感想を持つ。
青くなり、すんすんと鼻を鳴らす香見て、再び笑った後、赤皇は顔中の
筋肉を引き締めて光領に向き直る。
光一族が赤皇に手をかす理由、それは先程光領から一部始終聞いて
いた。
今、ここでそれを口に出さないということは、出してはまずい何かがある
のだろう。
“我らが……いや、光一族が生き残るには、貴殿に賭けるしか道は無い”
光領のその言葉に嘘はない。
いや、例え嘘だったとしても、それを信じる他、赤皇達にも生き残る道は
ない。
「俺は先ほどの意見を変える気はない。
光軍から数名の護衛をつけ、兵士以外の者を先に光州へと向かわせ
る。その際、俺も光領殿もここに残る」
光凌も厳巌も何か言いたそうだったが、先に光領が口を開いたため二
人ともひとまず押し黙る。
「わしは賛成だ。そして、赤皇とわしが賛成する限り、凌よ、お前に口を出
す権利はない。
それとも頭首の命に逆らってでも己の意見を通したいか?
ならば、今ここで光一族の名を捨てるがよい」
その言葉に光凌は、首(こうべ)を垂れた。うなづいた顔には苦々しい気
分と共に諦めが浮かんでいる。
光凌にとって光一族に生まれたことはとても名誉なことであり、また当主
である光領を父に持っていることが何よりの誉れなのだ。
策を巡らすのも、光凌が出世を望むのも光領のため、ひいては一族の
ためだ。
「……父上のご意向に従います」
その言葉に今度は厳巌が舌打ちする。
「分かったよ、俺もあんたらに従うぜ。
これ以上文句言って謀反人にされたらたまったもんじゃねぇからよ」
赤皇は満足そうに頷くと強く声を張る。
「さて、これからのことを話し合おうか。
本来なら、皆の意見を聞き決めたい所だがあいにくその時間がない。
先ほど光領殿と話し合わせたからそれに従ってほしい」
その言葉の後を、示し合わせたかのように光領が続ける。
「我らが主として掲げるは赤皇。
凌には赤軍と光軍の総まとめ役を任せる、この軍を指揮する軍師はお
前だ。
わしは光軍を、厳巌殿には、赤軍を取りまとめる将軍になっていただく」
それぞれに不満はあったが、この面子ではそれ以外に選択肢はないよ
うに思う。一度決まってしまえばそれは最良の配置のように思えた。
「策……とまでは行かないが、戦の流れはこうだ。
まず、正面にて赤皇とわしが王都軍の気を引く。
その際に別働隊にて、敵の側面を攻撃。混乱させる。
これは敵が布山の細道を下っている間に行う」
光凌は布山の地形を鮮明に脳裏に呼び起こした。
山の下り道は、両側が高くそびえ、まるで谷底のような道が細く長く連な
っている。
そこで待ち伏せし高い位置から弓で攻撃すると、こちらが安全なまま相
手に打撃を与えることができる。
また、細道で戦闘になると相手がいくら大軍だとしても、戦闘をできるの
は敵に面している少数だけで、陣形を広げて取り囲むこともできず、兵を
分断して後方をつかれる心配もない。
普通の戦なら絶対避けて通るべき不利な地形だったが、よほどこちらを
馬鹿にしているのか、斥候の情報によると王都軍は迷うことなくこの道を
進軍している。
「地形ではこちらが完全に有利だ」
ただ、それで敵を混乱させたからといって、それは一時的なものであっ
て決して勝利ではない。
混乱させた後が問題だった。それは光領自身も分かっている。
しかし、劇的な解決策は未だ思い当たらない。
「先を行く者に、信書を持たせ光州に援軍要請をする」
「援軍がくりぁ助かり、間に合わなければ全滅ってことか……」
厳巌が簡単にまとめてくれたおかげで、香にも状況が理解できた。
深刻に話が進む中、香はどうしても聞きたいことが出てきてしまった。
天幕内の空気は先ほどまでではないが、相変わらずピリピリしている。
とても小娘が発言できるような雰囲気ではない。
(だけど……)
香の手が恐る恐る上がる。
本当は、半泣きになりながら逃げ出してしまいたい気持ちだったが、
それとは別に何故か今、この場で「聞かなければならない」という可笑しな
使命感が心の隅に生まれている。
「あの……」
か細い声なのに、一瞬にして全員が黙り目を向けた。
光凌は香の存在を訝しんでいたし、厳巌はというと、先ほどの小火の一
件で香を見直した節がある。
この場の全員がこの人物が何を話すのかと興味があった。
その緊張感溢れる静寂の中、痛いほど向けられる視線。
足は震え、目には涙が浮かんでしまう。しかし、それでも香は逃げなか
った。
「あの、私は何をしたらいいのでしょうか?」
今度ははっきりと、でもびくびくと視線を彷徨わせながら言った。
赤皇はふっと微笑むと、香の頭をこつんと軽く弾く。
「お前は何もしなくていい。先行隊と一緒に光州に行っててくれ」
その言葉に安堵し、全身の力が抜けるようだった。
当たり前だが、戦争に参加しろと言われても確実に無駄死にする自信
がある。
でも、一つだけ譲れないことがあった。
「もちろん、私は戦争に参加しても何もできません。
赤皇に従います。でも……でも、先行隊とは一緒に行きません。
戦が始まるぎりぎりまでここにいては駄目ですか?
雑用でも何でもします、私にできることはないでしょうか?」
その後に続く言葉は“赤皇の傍にいたいのです”だった。
先ほどの話を聞いていると、どう考えても勝てる戦いではないようだ。
でも、逃げることもできない。
となれば、ここにいる男はもしかしたら死んでしまうかもしれない。
2度と会えなくなってしまうかもしれない。
そう考えると、少しでも長くこの心優しい恩人の傍に居たいと願ってしま
う。しかし、そんな気持ちは伝わるはずもなく、厳巌が呆れたように口を挟
む。
「香よぉ、大人しく光州へ行っとけ。
だいたい戦の寸前までここにいたとして、その後はどうするんだ?
その細腕で、一人で光州まで行くってのか?」
厳巌の顔を見てとっさに「怖っっ!」と思い、そして、それを口に出さなか
った自分自身を内心褒めてあげたい。
ぎゅっと腹に力を込め、厳巌を真っ直ぐ見据える。
(これで最後かもしれないのに、こんなことで引き下がってたまるか!)
そこに迷いなど微塵も見えない。
「大丈夫です! ご存知の通り、私には甘睦(かんぼく)という護衛兵がい
ますから。
彼はとても優秀で、私一人くらいなら光州まで連れて行ってくれます。
それに、今この状況では例え戦えなくても一人でも多く人がほしいところ
……ですよね?」
お願いするように赤皇を見上げると、困ったように眉をしかめている。
そして、香は気がついた。
(これから戦いだというのに、その優秀な兵士の一人が私の護衛につくこ
とはありえない)
とたんに自分の愚かさに顔が熱くなる。
お前はいったい何様だと言いたい。
“やっぱりいいです”そう言おうとしたとき、香の変わりに赤皇が口を開い
た。
「甘睦だけで大丈夫か? あいつ、けっこう抜けている所があるぞ。
いや、やはり1人に任せるのは心配だ。
香が別行動をしたいなら、あと2、3人は兵をつけた方がいい」
その言葉に、光領も光凌も香ですら唖然とする。
厳巌だけは、「参ったぜ……」と呟きながら笑っていた。
その後、結局香は“光凌の下で雑用をする”という名目で残ることになっ
た。
赤皇は話し合いの最後の最後まで、「いいか、絶対に戦が始まる前に
光州へ向かえ。絶対だぞ!」と口を酸っぱくして何度も言った。
香はそれを聞きながら、涙が滲んでくるのを止められない。
(赤皇に死んでほしくない)
胸内には、だたその言葉だけが強く浮かび続けていた。
空気は澄みひんやりとしている。
外は強い風が吹いているらしく、轟々と荒れ狂っては天幕を揺らす。
ここに陣営を張った当初は嵐でもくるのかと心配したが、ここら一帯は
早朝に布山から平野にかけて風が吹き付けることで有名なのだと、甘睦
が教えてくれた。
昨日の話し合いが終わったのは夜も更けてからで、わずかな睡眠をと
るともう夜が明けてしまっていた。
重い身体を無理やり動かし、眠い目をこすりながら、白い湯気のたった
豆汁を一口飲むと、身体の中から温かくなり、ほっと安堵のため息が出
る。
赤皇も同じなのか、いつもは嫌がる豆汁を何も言わず口に運んでいる。
しかし、香と目が合うと困ったような笑顔を浮かべ一言呟いた。
「たいぶ薄くなったな」
それは苦情でも文句でもなく、純粋な感想だった。
確かに豆汁は日に日に薄くなっていき、今でも豆汁とは名ばかりのよう
な味になっている。その場にいた甘睦も顔をしかめている。
「もう、お分かりと思いますが、食料が底を突きかけています。このままで
は、光州まで持ちません」
「ああ、光軍は多少蓄えていると思うが、それを宛てにするのも情けない
な……」
「赤皇……」
甘睦にたしなめられるように名を呼ばれ、赤皇は苦笑いをする。
「まぁそのような見栄を張っている場合でもあるまい。
腹が減ると士気は下がるわ、力はでないわ、良いことなしだ。
一度、光領殿とかけあってみよう」
言葉を最後まで必要としない分かり合った熟練夫婦のような会話を聞き
つつ、香はふと疑問に思ったことを口にする。
「今日、光州に先に行く人たちの食料はどうするんですか?」
それを聞いた男二人は一様に顔をしかめた。
「あっ! それだ、忘れていた」
「それが先決ですね……」
困っている二人を見て、香も困ってしまう。
(皆、食べることにも困って時に、何の役にも立っていない私が、ここでこ
うやってご飯を食べているんだよね)
今の状況では、一人分の食事ですら大切な食料だ。
急に元気のなくなった香を見て、赤皇は明るく笑う。
「香、心配するな。お前まで悩む必要はない」
「でも……」
少しでも役に立ちたいと思っているのに、何も役に立てない現状にあせ
りを感じる。
それを察したのか、赤皇は眉をしかめた。
しかし、その目は優しく暖かい。
「お前の気持ちは嬉しいが、前にも言った通り、
お前が私の右に座るだけで十分役に立っているのだ。それ以上何を望
む?」
「……」
それ以上何を望む?と聞かれれば、これ以上お前に何ができると問わ
れているようで、何も答えることができない。
「でも……」
うつむいて我慢しようとしても、不満が溢れて止められない。
「例え無駄なことでも、私が悩んでもどうしようもなくても、それでも私は何
かしたいです。
私はまだ何も……赤皇にも、甘睦にも恩返しできてないから……」
今にも溢れてきそうな涙をぐっとこらえ、精一杯の気持ちを口にして香は
赤皇を見つめた。
赤皇はふっと口端を緩めると、甘睦に向かい「だとさ」と声をかける。
「え?」
不思議に思い甘睦を見ると、何故か甘睦が半泣きなっている。
「香様……」
その声は感極まって上ずっている。
「香、こいつはお前が今日から光凌の下につくと聞いて、俺を殴ったのだ」
赤皇は、左頬をぐっと香に見せた。そこは確かに赤くなっている。
「はい?」
さらに混乱する香に、赤皇は冷ややかな視線を甘睦に送りながら状況
説明をする。
「こいつ……俺が赤皇を名乗ってからずっと下手に出ていたくせに、
その話をしたとたん「お前!? 香様の身に何かあったらどうする気だ
ゴラァ!!」と暴れだしてな。
甘睦は今となってはこのような上品な話し方だが、昔はそれはもう……」
「も、申し訳ありません!」
もう止めてくださいとばかりに甘睦は謝った。
赤皇はその様子を面白そうににやにやと笑いながら見ている。
「あの?」
訳が分からず香が口を挟むと、赤皇は香に向き直る。
遊びは終わりと言わんばかりにその目は真剣そのものだ。
「香、厳巌から聞いたぞ。光軍兵との揉め事を治めたそうだな」
昼間にあったボヤ騒ぎの件を思い出し、「治めた……というか、勝手に
治まった……というか?」首をひねりながら答える。
「余り活躍するな。俺がお前に期待してしまうぞ」
「その期待に答えられるかは分かりませんが、お役に立てるなら精一杯
のことはします!」
赤皇は満足げににやりと笑うと豆汁を一気に飲み干す。
「お前が光凌殿の下についても出来ることはないだろう」
その通りだと思い、香は再びうつむいてしまう。
「しかし、お前が光軍にいることが重要だ。
俺の右に座っている者が、光凌につく、それは良く言えばお互いの信頼
の証、悪くいえば……そう捕虜だな。それがこれからのお前の立場だ。
これから先、護衛の甘睦をお前に付けてやることもできん。
なぜなら表向きは、我らは仲間だからな。一人になるぞ、それでも行く
か?」
(あっそういう意味だったの!?)
香自身なぜ赤皇の役に立ちたいと言ったら、光凌の下につけられたの
か疑問に思っていた。しかし、答えが分かったからといって悩む必要はな
い。むしろ、役目がはっきりとして気分はすっきりしている。
「はい!」
気持ちよく返事を返すと、赤皇は甘睦にも「分かったな?」と念を押す。
甘睦はがくりと肩を落とすと「……はい」と力なく答えた。
「では、さっそく行ってきます!」
香は清々しい顔で天幕を出て行った。
取り残されたのは不安げな表情をした男二人。
甘睦はため息をつくと、恨めしそうに赤皇を見た。
「香様に何かあったら、例え光将軍の息子でも殺しますからね。
ついでに貴方も半殺しくらいにしておきましょうか」
「お前の香びいきは恐ろしいな」
「何度も言っておりますが……。
例え伝説でも作り話でもいい、私は香様が“拠(よ)りひと”だと信じてい
ます」
甘睦は険しい表情のまま、空になった椀を回収している。甘睦が言いた
いことは分かっている。
いくつもの説話や伝説に記されている「拠りひと」
ひとの姿でありながらこの世界の住人でないその“ひと”は、この世界の
動乱と共に現れ、世界の気の乱れを治める力を持っているという。
「偶然にしては、できすぎています」
赤皇が色を名乗ると決めたその日、周老師の墓の上に落ちていた少
女。確かにできすぎていると思う。
(しかし、それでも……)
「俺は、香を神聖視しない。そのようなつもりで香を拾ってきたのではな
い。決してその話を香にするな。それがお前を香の護衛につけてやる条
件だ」
「では、なぜ?
貴方はこれから、赤皇を名乗るというあの時期に、素性の分からない者
を拾ってきたのです? 期待するなという方が無理でしょう!?」
「それは……」
その言葉の先は、赤皇を“王家の血筋”と特別視している者には言える
はずもなかった。
「お前には分かるまい」
「……失礼します」
甘睦は、苛立ちを隠しもせず荒々しく天幕を出て行く。
赤皇は出て行く甘睦に視線を向けることもなく、ぎりと強く歯噛みする。
そして、本当に小さく呟く。
「……お前に分かって……たまるか」
怒りより悲しみが混じったその声は、誰の耳に届くこともなかった。
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