香が外に出ると、日はすでに少しだけ山間の方へ傾いている。
それが山に隠れてしまう前に、厳巌と話をつけなければいけない。

(あれ……なんか大変なことをすごく簡単に引き受けてしまった気がする)

 しかし、香は立ち止まることなく、まっすぐ赤軍の陣営へと走り出した。

 朝まであった天幕がたたまれ、ごっそりなくなっているのを見て、先発隊
がもう出発したことに気がつく。さらに足を進めていると、向こうから走っ
てくる人影が見えた。

「甘睦(かんぼく)!」

 嬉しさの余り、勢いをつけたまま抱きつく。
甘睦もそのつもりだったのか、戸惑うことなく受け止めた。

 「ご無事でよかった……」そう呟いた後に、ふと我に返り、香の身体が
本当に無事なのか、ぺたぺたさわり確かめ始める。こういうことをされる
たびに、絶対女の子と思われていないと香は思う。
そして、誰かが心配してくれることの有難さに胸が熱くなる。

 甘睦は、右腕の痛々しい痣を見つけて青ざめた。

「大丈夫だよ、痛くないし。それより、ちょっと話が……」

 その言葉は耳に入っていないのか、ゆらりと立ち上がると、腰の剣に手
をかける。

「お約束どおり香様に怪我をさせた光の息子は殺して、赤皇は半殺しにし
ときますね?」
(何、その約束!? そんな約束してたっけ?)

 いつもながら丁寧な物腰、優しい笑顔で物騒なことを言い出した甘睦は
かなり怖い。

「ええ?そんなことしなくていいよ。それより重要なお話が……」
「そんなことではありません! これは重要かつ重大っうおっ!?」

 熱く語る甘睦を黙らせたのは、背後に現れた影のように黒い衣服をまと
った男だった。男は、甘睦の背後から膝に己の膝を当て、甘睦のバラン
スを崩した。

(膝かっくん!!!?)

 それは紛れもなく、香の世界の膝かっくんだった。

(この世界にもあるんだ!?)

 いろんな疑問をすっとばして、ただただそのことに感動を覚える。

「何をする、李准(りじゅん)!?」

 相変わらず無表情な李准は、淡々と答える。

「この異常過保護め。見ろ、お前の愛娘は呆れて声も出ない。
 ……ああ、これから先お前はこうして一方的に嫌われて行くのだな」

 普段表情を出さないくせに、最後だけ哀れな生き物を見る目になる。
しかし、その言葉だけで、甘睦を黙らせるには十分だった。

「う……あ……そんなこと」

 ないですよね?と確かめるように香を見ると、香はキラキラした目で李
准を見ていた。

「ぐはっ」

 心に瀕死の重傷を負い、甘睦はその場に崩れる。それをまったく無視
して、李准は香に歩み寄る。

「村長と厳巌(げんがん)がお呼びです。こちらへ」
「え?はい!」

 顔の筋肉を引き締めると、李准の後に続く。しかし、その前に甘睦に一
言「一緒に来て」とお願いすることを忘れない。

(甘睦に自ら止めと刺しておきながら、すぐさま持ち上げる……なかなか
の高等技術だ)

 そして、余りに分かり安すぎる甘睦が面白くて仕方ない。

(この二人……新しい笑いの予感だ)

 そんなことを考えながらも李准はどこまでも無表情だった。案内される
ままに歩くと、そこには、村長と厳巌だけでなく、赤軍の兵士たちも集まっ
ている。

 李准が戻ってくると、数人が「相変わらず黒いなー」とか「お前、今まで
どこにいたんだ?」と軽口を叩く。李准はそれらに無表情のまま淡々と返
していく。

 「お前の腹黒さには負ける」「俺の情報は高いぞ。とりあえず身に着けて
いるもの全部売っとけ」その毒のある返しに、皆が豪快に笑う。

(光軍とはぜんぜん違うわ)

 もちろん、光軍の人が悪いというわけではない。敢えて言うなら、赤軍と
光軍は組織の成り立ちが違うとしか言いようがない。
親しげな会話が飛び交う中、迫力ある低音がすべてを遮る。

「おい、お前ら黙れ。そして、大人しく座っとけ。
 おっ? 甘睦てめぇ、お前なに勝手にほつき歩いてやがる! 後から覚
えとけよ!?」

 厳巌の怒りを受け甘睦は苦笑いして視線を外した。近くにいた香にだけ
「やば……」という声が聞こえる。村長は、相変わらずただ静かにそこに
座っていた。

「さて、香よぉ。俺に話があるんだってな。聞こうじゃないか?」

 さすがに怒っていないということは分かるが、その迫力は並ではない。
香はぎゅっと拳に力を込めると、大勢の前で話し出した。

「……なるほど」

 香が話し終わるまで、ただ静かに聞いてくれていた厳巌は最後にそう呟
いた。

「確かに、敵に当たらない分こちらの危険は少ないな。
 その分、失敗も許されないが……。時間稼ぎをして、ただ援軍を待つよ
りかは良い作戦だ」

 手ごたえは良く、このまますんなり引き受けてもらえそうな気配だった。
でも、それだけじゃ駄目だ。香は、もう一度拳を握る。

「でも、実はこの作戦は完璧じゃないんです」

 静かだった兵士たちがざわりと騒がしくなる。ここに光凌がいたら、香は
頭を勝ち割れられていたかもしれない。

「火矢を放った後、兵糧が激しく燃えて敵を混乱させないと意味がないん
です。でも、敵も必死に消してくるでしょう。もし、激しく燃えなかったら、火
矢部隊は敵に囲まれてしまって……」

 とたんに激しい野次が飛ぶ。

「なんだそりゃ」「俺たちは捨て駒か!?」
「いえ、違います!正面にいる光軍も同じように危険で……」

 一度上がった不満はせきを切ったように溢れ、香を飲み込んでいく。
何かが投げつけられ、香はとっさに目を瞑る。しかし、いつまで立ってもど
こも痛くなかった。

「大丈夫ですか? 香様」

 目を開けると甘睦が香を守るように立ちふさがっていた。投げられた物
は石だったようで、甘睦の腕にはうっすら血が滲んでいる。

「甘睦!? 血が……」
「お恥ずかしい。とっさのことでよけ切れませんでした」

 香にそう笑いかけた後、赤軍兵士を振り返った。仲間に向けた目には、
今までに見たことのない憎悪が込められてる。

「よくもまぁ、大の男が揃いに揃ってぐだぐだと文句だけ言えたものだな。
香様のご意見を否定したいのなら、それ相応の策を提案するべきだ」

 その予想外の迫力に、一度はしんとなるが、甘睦より年上の兵士が食
って掛かる。

「俺たちは兵士だ! そんなこたぁ上が決めるべきだ」
「あんたの言う上は誰だ? 村長かお頭か、それとも赤皇か?
 誰でもいい、だったら兵士らしく、上が決めるまで静かにしとけや。
 あんたらが香様に意見する必要はない。上が決めれば動くんだろ?
 だったら、本来この話し合いの場にいる必要すらないんだぜ、俺ら一般
兵は。
 上に責任押し付けて、自分で生き残る気がないやつぁとっとと失せ
ろ!」

 まったくもって見事な啖呵だった。言い返した兵士もぱくぱくと口を開け
ている。

(えぇえええ? 甘睦? 甘睦??)

 余りの豹変振りに守ってもらった香でさえオロオロする。

「切れたな……まるで昔のようだ……」

 そんな李准の呟きが耳に入る。そういえば赤皇もそんなことを言ってい
たような。

『今となってはこのように上品な話し方だが、昔はそれはもう……』

 その後には、それはもう口が悪かったと続くのだろうなと妙に納得す
る。

「さぁ、続きをどうぞ。香様」

 そう言った甘睦は香の知るいつも甘睦だった。少し混乱しつつも、慌て
て説明を再開する。

「えっと……別働隊も危険ですが、正面にいる光軍も同じように危険なの
です。それこそ、別働隊が失敗したら、そのまま正面対決になるのですか
ら、同じく全滅です!」
「何が言いたい?」

 厳巌が頭を捻る。

「ですから……ですから、えっと、どなたか確実に敵の兵糧に火をつける
方法を知りませんか?」

 しんと当たりは静まり返る。

「その方法さえ見つかればこちらの勝利は確実なのです!
 何でもいい、誰でもいい、山で暮らしていた方たちの知恵をかしてくださ
い!」

 さわさわさわと少しずつざわめきが広がり、それは一人一人の発言へと
変わる。

「油をまくってのどうだ?」「いや、火を放つ前に気がつかれたら終わりだ」
「そもそも雨が降ったら火どころじゃねーよね」「いや、しばらくは雨は降ら
ない、それくらい空を見れば分かるだろう?」「そーいや、村を追われてか
ら狩りしてないなー」「今頃は猪がうまいな」「いや、鴨もなかなか……」

 真剣に話し合うもの、話がずれていく者、それでも香の言葉はどうにか
伝わったようで、ひとまずほっとため息をつく。
 ざわめきの中、一人の若い兵士が恐る恐る手を上げた。若いと言って
も香より年上のようだが。その視線は真っ直ぐに香に向けられている。

「はい?」

 首をひねると、少年は少し居心地悪そうに話し出す。

「火を放つんだよね?」

 香が必死にこくこく頷く。

「何もいらないと思う……んだけど。今の時期、すごく乾燥しているし、山
風がすごいから……」

 香の中で何かがカチンと音と立てて当てはまった。瞬時に小火の一件
が頭をよぎり、毎朝恒例の暴風が思い浮かぶ。

「その……山風?の吹き始めるタイミング……あ、いえ、吹き始める瞬間
って分かりますか?」

 少年はあっさりと頷く。

「山間から日が昇る瞬間、山から平地にかけて風が荒れ狂うんだ。俺、
その瞬間が好きで毎朝見ている」

 隣に座っていた友人らしき少年兵が「お前、だから毎朝早起きなのか」
と感心する。

「それは、必ず毎朝あるのですか?」
「ああ、今のところ必ず毎朝起こっているよ。たぶん雪が降るまで続くんじ
ゃないかな?」
(これだ……)

 香は、今思いついたことをすぐさま光凌に報告したくなる。しかし、それ
は厳巌の声で押しとどめられた。

「それで? 勝てそうかい?」
「はい! これなら必ず……あ、いえ必ずとは言い切れませんが……えっ
とあの」

 厳巌はにやりと笑うと隣に座る村長を見た。村長はこくりと頷く。

「よーし決まりだぁ! おめぇら、火矢の準備をしやがれ、詳しいことは後
からだ」

 集まっていた兵士たちは「おお!」と歓声を上げ、それぞれに去ってい
く。香はその人並みをかき分けて、先ほどの少年兵の腕を掴んだ。

「ありがとう!」

 少年兵は驚いた後に、照れたように笑い首を振る。去って行く後ろ姿に
香は何度もありがとうを繰り返す。

「感謝を言うのはまだ早いぜ、香」

 気がつくと厳巌が香の真横にいた。

「別働隊に回ることには賛成だが、一つ条件がある」

 その巨体は高い位置から鬼のように、香を見下ろす。

「……どういう意味ですか?」

 びくびくしながら、返事をする。

「別働隊に光軍を入れろ」
「はい、それはもちろん!」

 初めからそのつもりだったので、笑顔で答えると、次の言葉で香の顔は
凍りつく。

「入れるのは光凌軍だ。光凌本人が別働隊に入ったら、俺たちは全面的
に光軍を信用するってな、光の旦那に伝えな」

 日はだいぶ山間の方に倒れ、辺りはすこしずつ夕焼けに染まり始めて
いる。光凌との約束の時間まで後僅かだった。厳巌はどうしてもそれだけ
は譲る気がないようだ。

「……はい」

 香はそう答えるしか仕方なかった。心配する甘睦に香は何度も笑顔で
ありがとうと伝えると、赤軍と光軍の境目で分かれる。

 来たときとは打って変わり、戻って行く足取りは重い。気がつくと光凌の
天幕の前まで来ていた。

 重い気持ちのまま中へ入ると光凌はもう戻ってきていて、机の前でなに
やら作業をしている。暗い表情の香に気がつくと、眉を潜めた。

「うまくいかなかったようだな」
「いえ……良いことと悪いこと、どっちを先に知りたいですか?」

「馬鹿か貴様は? どっちも報告するなら、どっちからでも同じだろうが。
 いいからさっさと報告しろ」

 香はすとんと地面に腰を下ろすと、三角座りをしながら話し始める。
光凌がその態度に眉を潜めたが、立ち上がる気はない。なんだかもう疲
れてしまった。

「赤皇軍は、別働隊になることを了承しました。
 あっ後、かなりの高い確率で兵糧に火をつける方法も分かりました。で
も……」

 その言葉に光凌が興味を示して先を促す。

「でも、その別働隊に光凌様自身が入らないと、赤軍は光軍を信用しない
そうです」
「ああ、なんだそんなことか。それが悪い知らせか?
 どちらにしろ人が足りないのだ、初めから私も別働隊に回る気だ。
 信用していないという言葉、そのまま赤軍に返してやるわ。それより、高
確率で兵糧に火をつける……」

 方法は何だ?と聞こうとして、光凌はやめた。
香は妙な体制のまま力尽きるように、意識を手放している。
近づくとすーすーと気持ち良さそうな寝息が聞こえる。

 光凌はしばらく葛藤した後、そこら辺においてあった布を地面に引くと、
そこに香を蹴り転がす。ガツと痛そうな音がしたが、よほど疲れているの
か、香は起きる気配がない。ばさりと上から厚手の布をかけると、香は無
意識にその布を掴み小さく丸まる。

「ええい、なぜ私がこのようなことをしないといけないのだ!」

 自分の寝具の準備すらしたことがないのに、何故他人の世話を焼かな
ければならないのか。怒りと共に、何かが引っかかる。

「……今まで、私の寝具の準備をしていた者は……誰だ?」

 そのものが香の世話を焼いたらいいのではないかという疑問が起こ
る。しかも、今まではそうだったような気がしてならない。
しかし、どうしてもその人物が思い出せない。

「まぁいい、親衛隊の者だろう」

 気持ちを切り替えると、それきりまったく気にならなくなった。




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