香が目を覚ますと、辺りは暗くなっていた。天幕内には蝋燭が灯され、
ゆらゆらと踊っている。いつの間に眠っていたのだろう。起き上がると、
毛布がかけられていることに気がつく。
(荷厳(かげん)さんがかけてくれたのかなぁ)
そういえば、荷厳の姿を長い間見ていないような気がする。しかし、忙し
い時なので光凌に何か指示を受けて別行動しているのかもしれない。
ふと視線を移すと、灯された蝋燭の下で、光凌は机に座ったまま頭を抱
えている。
「光凌様?」
声をかけても返事がない。近づくと目を瞑っているので、どうやら眠って
いるようだ。香は自分にかけられていた毛布を光凌にそっとかけてやる
と、静かに天幕の外へ出た。そこには荷厳の変わりに見たことがない兵
士が立っていて、香に会釈する。
(やっぱり荷厳さん、今いないんだ……)
日は暮れ、空には輝く星が散りばめられている。
香は辺りをうかがうと、闇に紛れるように、足早に歩き出した。
歩いて歩いてたどり着いたのは、赤皇がいる天幕だった。
寝ているようなら、帰ろうと思っていたが、天幕内には煌々と明かりが
灯されている。中には甘睦もいるようで、話し声が聞こえる。
「……で、香様が……」
(え? 私の話をしている……入りづらい)
香が入り口で固まった瞬間、「誰だ!?」という声と共に、甘睦が出てく
る。殺気を放っていた甘睦は香を見つけると、驚きすぐに笑顔に変わる。
「香様! 今、ちょうど先ほどの件を赤皇に話していた所なのです! さぁ
入って入って」
ぐいぐい手を引っ張られ、中に入ると酒の匂いが充満している。
かなり出来上がっているようで、赤皇の顔は少し赤い。
「おお、香! また、活躍したそうだな。ははっ俺の軍師になる日も近い」
「だから、なりませんって! なれませんし」
決まり文句を即答すると、楽しそうな笑い声が上がる。甘睦は酒を飲ん
でいないようで、香に席を空けると「食事はお済ですか?」と聞いてくる。
そういえば、昼から水すら口にしていないことに気がつき、とたんに喉の
渇きと空腹を感じる。
「何か用意しますね」
そういって甘睦は天幕の外へ出て行く。その様子に赤皇は呆れたよう
だった。
「本当にあいつは甲斐甲斐しいな」
「はい、本当に。有難いことです」
嬉しそうな顔をする香に赤皇も微笑む。
「香は、目を離したら離した分だけ、成長して帰ってくるのだな」
意味が分からず、首を捻る。
「余り急いで大きくなるな。俺が寂しくなる」
酔っているせいか、それは香に話しかけるというよりは、独り言のようだ
った。ただ、寂しいという言葉が妙に引っかかる。
「赤皇は、こんなにたくさんの人に愛されているのに寂しいのですか?」
「俺は愛されているか?」
「はい、だって赤皇の周りには、赤皇を慕っている人がたくさんいるじゃな
いですか」
それは素朴な疑問だった。なぜ、こんなにたくさんの人に囲まれている
人間が寂しいのだろう。香には理解できない。赤皇は、一瞬自虐的な笑
みを浮かべると盃の中の酒を煽る。
「香、周りに多くの人がいても、己と同じ高さにいなければ、そこには誰も
いないのと同じことなのだ。甘睦しかり、李准しかり、厳巌しかり、村長で
すら、俺と同じ高さにはいない」
赤皇は、自身が王族の血を引いていると聞かされたあの日。
一斉に皆が跪いた、あの悪夢の様な光景を決して忘れることはできな
い。
それは、子どもから大人まで。いたずらをした赤皇を殴ったことのある
おじさん、赤皇を悪がき呼ばわりしていた近所のおばさん、一緒に悪さを
して怒られた友人達。今まで家族のように暮らしてきた人たちが、一斉に
赤皇を主として掲げた瞬間。
その時から、胸の痛みは治まらない。もし、赤皇が生まれた時から王族
で、王になるために育ったのなら、こんな痛みは知らなかっただろう。
それまで当たり前のように感じていた温もりは、もう2度と手にいれるこ
とはできない。しかも、それを悲しむことを誰も望んでいない。
「香……もし、俺がお前を拾った本当の理由を話したら、
お前も俺の高さからいなくなる……いや、侮蔑するか。
はは……俺は駄目な人間なのだ、皆の理想の王になどなれない」
赤皇は、常に笑っているのに、香はどうしようも悲しくなる。
気がつくと、ぽろぽろと涙が溢れていた。
「どうした香、何故お前が泣いているのだ?」
それは香自身が知りたかった。一度、溢れてしまった涙は止まることを
知らず、顔と身体を熱くする。
「だって……だって、赤皇が泣かないから。つらいのに……悲しいのに笑
うから」
胸が痛くてしかたがない。
「赤皇がどういう理由であっても、私を助けてくれたことに変わりはありま
せん!侮蔑なんて……絶対しません、ずっとずっと一緒にいます!
例え、何があってもどれだけ離れても必ず戻ってきます。それでは駄目で
すか? まだ、寂しいですか?」
赤皇が首を振ると、香は泣き顔のまま、「えへへ」と笑う。
そのタイミングを見計らったように、甘睦が戻ってきた。そして、赤い顔の
香を見て一言。
「お酒、飲みました?」
言われてみれば、どうやら匂いで酔ってしまったようだ。身体熱くてふわ
ふわする。そして、普段なら思っていても口に出せないような恥ずかしい
ことを口にしてしまった気がする。
「ははっ香は泣き上戸か」
(誰のせいだと思っているんですか!?)
そう思ったが、赤皇が本当に楽しそうだったので何も言わない。
黙々と甘睦が持ってきてくれた食事に手を伸ばし空腹を満たす。そして、
ポツリと呟いた。
「赤皇……私、別働隊について行っていいですか?」
甘睦はがしゃんと器を落としたが、赤皇は眉一つ動かすことなく、楽しそ
うに笑ったまま答えた。
「言うと思った」
次の日も、空は高くどこまでも青く、そして風は吹き荒れている。
暴風に身をはためかせながら、厳巌は満足げににやりと笑う。
「お前の言うこと本当だったなぁ」
隣で、同じく朝日を眺めていた少年は気持ち良さそうに風に身を任せて
いた。朝一番の暴風は、砂を舞い上げ目を開くことも歩くことすら困難な
程強烈だったが、日が上がって行くにつれて、しだいにおさまって行くよう
だ。
「こりゃいい」
そこから、離れた光軍側の陣営で、光凌もまったく同じ感想を述べた。
「これはいい」
隣には、眠たそうに目をこする香がいる。
(まだ日が登らないうちに叩き起こされた時は、
ついにこいつを切り捨てるときがきたか思ったが……)
怒りに任せて剣を掴もうとするとそこに剣はなかった。
代わりに、光凌の剣をしっかり胸に抱え込んだ香が、早口に起こした理
由を話す。
「今から、高確率で兵糧を焼く方法をお見せします」
光凌の目を覚まし怒りを納めるにはそれだけで十分だった。
僅かに緩やかになってきた風が、細かい刺繍の入った、肌さわりの良
い衣類をはためかす。
「なるほど……この風が吹く間際、朝日が昇る直前に火を放つと、風に煽
られ火が広がる。確かに成功する可能性は高まるな。
あえて欠点を言うなら、強風で逆に火が消えてしまう可能性もあるという
ところか」
それでも、普通に火を放つよりは成功率が上がるだろう。
「よくやった! 素晴らしい案だ」
それは本当に珍しいことだった。口にした光凌自身が驚いてしまうくら
い、とても自然に褒め言葉が出る。
「ちょっと待て……なぜ私が、お前を褒めているんだ!?」
慌てて香を振り返ると、また妙な体制で座り寝こけている。
ほっと安堵したのもつかの間、香のさらに後ろにいた護衛につけていた
親衛隊の一人と目があう。
「うっ……」
おそらく、光凌の独り言の一部始終見ていた親衛隊兵はとても居心地
が悪そうだ。
(こいつを今すぐ切り捨てたい……)
その思いが伝わったのか、兵士は「じ、自分は……今、ここに来ました」
と何とも苦しい言い訳をする。
「……」
「……」
気まずい沈黙を破ったのは、目を覚ました香だった。大きく欠伸をする
と涙目になりながら訴える。
「光凌様、私もう駄目です。寝過ごさないように昨日の晩から一睡もしてな
いんですよぉ、寝てきていいですか?」
光凌は、射殺すように香を睨むと「すべて貴様が悪い! 永眠して
ろ!」と捨て台詞を吐いて去ってゆく。そして、取り残された香はなぜか見
知らぬ兵士に涙ながらに感謝された。
(何……これ?)
訳が分からずぼーとしていたら、感謝されながらいつの間にかお姫様
だっこされて運ばれている。
(もう……なんでもいい……寝る)
兵士が光凌の天幕まで運んだ頃には、完全に意識を失っていた。
寝具を広げ、そっと下ろすと兵士は香に深々と礼をとる。
「このご恩は一生忘れません」
こうして香はめったに聞けない貴重な言葉を2回も聞き逃した。
「いよいよか」
布山を見上げぽつりと呟くと、数人の兵士に囲まれながら光領(こうろ
う)がやってくる。そして、赤皇の隣に並び、布山を眺める。
「いよいよですな。しかし、良かったのですか、あのまま行かせてしまい」
赤皇はその言葉が何を指しているか分かっていたがあえて「何のことで
すか?」と白を切る。
「周香殿ですよ」
若造の強がりなどお見通しだろうに、光領はどこまでも礼儀正しい。
昨日の晩、赤皇に告げたとおり、先ほど出立した別働隊に香は着いてい
ってしまった。
「大丈夫ですよ。あいつには、頼りになる熱狂的な信者が着いていますか
ら。それより、将軍もご子息が心配では?」
光領は見事な白髪の髭をなでると、豪快に笑う。
「心配でないというと嘘になりますな。
親はいつでも、子どもがどんなに大きくなろうが、愚かであろうが立派で
あろうが関係なく心配なものです」
まさしく今、それと同じような気持ちを味わっている赤皇は苦笑いする。
「違いない」
「お互い苦労しますな。この戦が終わったらゆっくり酒を傾けながら、語り
合いたいものです」
「ああ、そうしよう」
朝の強風は嘘のように収まり、心地のよい風が優しく通り抜ける。
(無事に帰ってこい)
胸中、ただただそれだけを願うばかりだった。
足の裏を血塗れにしながら必死に下って来た山道を、まさか自分の意
思でもう一度登ることになろうとは誰が予想しただろうか。
(うっ、さっそく後悔し始めてしまっている……)
香は自分の根性のなさが情けなくなってきた。
ようやく治りかけていた、豆からまた血が出ているのだろう、足の裏がじ
んわり痛い。
目前には、光凌の親衛隊が2人その前に光凌がいて、さらに先頭を赤
軍の兵士が2名歩いている。
「大丈夫ですか香様?」
すぐ後ろから甘睦の心配そうな声が聞こえる。
その甘睦の後ろにも、光凌の親衛隊が3人。計10名のこの隊は、隠密
行動をするには人数が多いのではないかと思ったが、それは香の判断
するところではない。
皆それぞれに火矢を担ぎ火種を持ち、食料と水を身体に巻きつけてい
る。しかし、香は何も持っていないくせにすでに息が上がり始めていた。
(あの、ひ弱そうな光凌ですら、自分で弓を担いで歩いているというのに)
ちなみに香の荷物は甘睦が持ってくれている。
(あー来なければ良かった。またお荷物になってるよ、私)
歩くだびに気分が沈んでいくものの、歩みを止めてこれ以上迷惑をかけ
ることはできず、ただただ機械的に足を前に出す。真上にあった太陽が
少し傾いたころ、一行はようやく歩みを止める。香はどさっと地面に座り
込むと、上がった息整えるように何度も深呼吸する。
「どうぞ、余り飲みすぎると後がつらくなりますのでほどほどに」
差し出された革袋を受け取り、口に水を含むと生き返ったような心地に
なる。
「はぁ……ありがとう」
革袋受け取った甘睦は、平然としている。
(さすが山育ち……)
そう思って見たものの回りの人たちも特に疲れている様子が見えない。
(兵士の皆さんは鍛えているからね……フフッあいつは絶対へばってい
る)
少し離れた所で腰を下ろしている光凌を期待たっぷりに覗き見ると、
特に息が上がった様子もなく僅かに顔が赤くなっている程度だった。
むしろ、普段が青白く不健康な顔なので、赤みがさすと健康的に見えてし
まうくらいだ。
(ううっやっぱり、足手まといは私だけだわ……)
でも、どうしても着いて行きたかったのだ。口を出すだけ出しておいて、
本当に成功するかすら分からないのに、自分だけ安全な場所に逃げるこ
とはできない。
何も知らないことならまだしも、今は、「この人達を置いて逃げたくない」
と思えるほどに、赤軍にも光軍にも優しい人を見つけてしまった。
軽い足取りで赤軍の兵士が近づいてくると、香にポンっと何かを投げて
よこす。それは、動物の毛皮だった。
驚く香に、壮年の兵士は「足の裏に敷くといい」とだけ言って去っていく。
甘睦がくすくす笑いながら、その毛皮をナイフで器用に切り分ける。
「あいつ、香様に石を投げたやつですよ、これで詫びているつもりですか
ね?」
甘睦のするがままに任せていると、靴を脱がされ、血豆を発見される。
「香様、こういうことはすぐに言ってください」
「……ごめん」
本当にお母さんみたいな甘睦が有難くくすぐったい。器用に、包帯を巻
きつける手を眺めながら、とにかく一番迷惑をかけている人に謝る。
「足手まといでごめんね」
甘睦は、笑顔のまま何も言わずに首を振る。どうやら香はまだ気がつ
いていないようだ。赤皇が赤軍と光軍を唯一引き合わせることができる
人物だとしたら、香は両軍を結びつけることのできる唯一の存在だという
ことを。
この隊の編成こそがそのことを物語っている。香がいるからこそ、赤軍
が自ら先頭に立ち、香いるからこそ、光軍が自らしんがりを務めている。
「香様、気がついていますか? 皆の呼び方が変わっていることに」
親衛隊は誰に言われた訳でもなく、「周香様」と呼び、柄の悪い赤軍の
兵士ですら遠慮がちに「香様」を呼んでいる。
それがとても誇らしいのだと言うと、また赤皇に呆れられ、李准に徹底
的に馬鹿にされてしまうのだろう。
きょとんとしている香に靴を履かせてやると、甘睦はそれ以上のことは
何も言わずに微笑んだ。
「さぁ、もう一息です」
次へ
「飛翔伝」のTOPへ
|
|