胃の辺りが鉛を飲み込んだかのように重い。神経は張り詰めることに
疲れたのか、弛緩し全身がだるい。それなのに、身体とは正反対に、ひ
どく苛立っていることが分かる。
この不快な感情をなんと言い表せば良いのか。
光凌(こうりょう)はおもむろに立ち上がった。
子どものころから好き嫌いが激しく、感情の起伏が大きかった。
それは今でも変わらず、好きなものは何がなんでも手に入れるし、嫌い
なものは容赦なく排除する。
しかし、父である光領(こうろう)の存在はそれらとはまったく違う場所に
ある。
好きや嫌いなどという、単純な感情ではない。敬意や憧憬を通り越し
て、畏怖の念さえ感じることがある。
(その父の前であのように声を荒げるとは……)
記憶を辿っても一度たりとも、光領の前であのような失態を犯したこと
がない。それなのに、今回はいったいどうしてしまったのだろうか。
気分が悪く、考えがまとまらない。
結局は、何も解決せず、何も行動できず、気が着けば狭い天幕内を行
ったり着たりしている。
その様子を、幕の隙間から覗いていた兵士が嫌そうに顔をしかめた。
(うっわー……すごく機嫌が悪そうなんですけど)
兵士は、先程赤皇のそばにいる子どものことを調べておけと言われて、
とりあえず調べてみたものの、「周香(しゅうこう)」という名以外にたいし
た情報も手に入らず、どうしようかと思い戻ってきた所だった。
嫌そうな顔のまま、短く切りそろえた黒髪をガシガシとかく。
(マジで声かけたくないな。
特に急いで報告する内容でもないし、今度機嫌が良さそうな時にでも声
をかけよう)
内心、光凌に機嫌の良いときなんてあったっけ?という疑問も浮かぶ
が、その問いはあえてなかったことにする。
くるりと踵を返すと、ドテッと腹の辺りに何か小さいものがぶつかってき
た。
「おっと」
咄嗟に支えると、肩までの黒髪に動き易そうな紺色の衣類をまとってい
る少女が、目を大きく見開きこちらを見上げてくる。
「あれ? 君はもしかして……香(かおる)ちゃん?」
遠めに見た時は、もっと幼いかと思っていたが、目の前の少女は10代
半ば辺りに見える。
見覚えのない人に気軽に話しかけられて香は驚いた。
どう返事をしようかと迷っている間に、男は気にせず話しかけてくる。
「どうした? 迷子? あっもしかして、光凌様に用事とか?」
香は、迷子?と聞かれ慌てて首を振り、光凌に用事?と聞かれ、コクコ
クと頷く。
その様子に兵士は微笑んだ。子どもと動物は無条件で可愛い。
「今、光凌様は非常に……いや、いつもどおーり機嫌が悪いんだ。
また後にした方がいい。そして、できればもっといかつい親父とかにそ
の用事を頼んでしまいなさい」
一方的なイメージだが、光凌は女子どもにも容赦がなさそうだ。
今は、何を怒っているか知らないが、この子がやつ辺りされては可哀想
だ。しかし、香は帰ろうとはしなかった。
逆に「あの……貴方は?」と兵士に質問してくる。
その質問にほんの一瞬悩んでから、兵士は笑顔で答えた。
「荷厳(かげん)という。
今は残念ながら光軍光凌様の配下で、いつの間にやら親衛隊長を押し
つけられてしまったが、普段は別のお仕事をしているので、その辺誤解
のないように」
何をどう誤解するのか分からないが、荷厳のおどけた口調に気持ちが
ほだされて、香は気がつけば口元が緩んでいた。
「心配してくれてありがとうございます。
でも、私が光凌様に会わないといけないので、ここを通してもらえます
か?」
荷厳はこれからこの子に起きる悲劇を創造し悲しそうな顔をする。
「そこまで言うなら……」そう言って荷厳は天幕に向かって声をかけた。
「光凌様、香ちゃ……いえ、周香様がお見えです」
中から返事はなかったが、荷厳は「どうぞ」と香を天幕内へと入れた。
中に入ると、光凌が悠然と椅子にかけ、こちらを射殺しそうな目で見て
いる。
光凌から放たれる負の感情が空気を震わし、天幕中が重苦しい雰囲
気を作り出していた。
入って来た香を見て、その目はさらに鋭くなる。
(怖っっ!!!)
香はとっさにその視線をさけてしまう。光凌はその様子に鼻を鳴らすと
香から意識をそらした。
それはまるでお前と話すことは何もないと言っているようで、香を無視し
て、荷厳を呼び止める。
「おい、お前。報告しろ」
荷厳は何のことか分からないといったように口を開ける。
「例の小僧の報告をしろと言っている」
「小僧……? ああ!」
そう言いながら、荷厳は気まずそうに香に視線をやる。
香はまさか自分のことを言われているとも思わずその光景を不思議そ
うに見ていた。
「貴様」
光凌の目がひときわ冷たくなると、荷厳はため息をつきいやいや報告
を始める。
「ご報告します。先ほどの者の名は周香。年のころ14.5.6? 正確には
分かりません。
赤皇を師事していた周老師という師の血縁の可能性が高いです。
ただ、あの村に住んでいた者ではなく、周老師が亡くなった後に、村を
訪れたそうです。
しかし、確信はありません。ある日突然、赤皇が森で拾ってきた……と
かやら、赤皇の血縁なのでは…というような曖昧な噂も流れているほど、
不確かな存在です」
「馬鹿馬鹿しい……」
さっと左手が上がり、荷厳に無言で出て行けと指示する。
荷厳は慇懃に礼をとり、天幕内に出たが、香とすれ違うときに申し訳な
さそうに目を細めた。
おそらく香のことを調べていたことに対する謝罪だろう。
親しげで憎めない人。それが荷厳のイメージだった。それに比べて…
…。香は光凌を見て顔をしかめた。
高慢かつ陰険、話し合いの時とは明らかに違う態度に怒りを通り越して
呆れてくる。
そんな香が気に触ったのか、光凌は香を睨み付けた。
「小僧、何を突っ立っている?
お前が赤皇の何かは知らんが、己より権威の上の者にする礼儀くらい
知っておろう?
それとも、森に捨てられていたお前は、動物並の知力しか持たんの
か?」
人を嘲り侮蔑の表情を浮かべる光凌を殴りたい衝動に駆られながら、
香は膝をつき頭を下げた。
「気分が悪い、一刻も早く私の前から消えろ」
怒りに震えながら立ち上がり、無言で光凌に背を向けると、その背に
「お前のせいで獣臭くなったわ」とさらに追い討ちがかけられる。
ここに来るまで間、何があっても光凌に仕え、赤皇の役に立とうと何度
も誓った。
しかし、その誓いはあっさりと破られる。
今まで生きてきて、自分が悪くないのに頭を下げたり、ここまで酷いこと
を言われたことがない。
それは、貴族や平民などと生まれながらにして地位が決められているこ
の世界では、珍しいことではないかもしれない。しかし、香が生まれ育っ
た日本では、ありえないことだった。
ブチッと何かが切れる音がして、頭が真っ白になる。
「うるさい!」
勢い良く振り返ると、香は光凌に詰め寄った。
「ねちねちねちねちと人を馬鹿にして……ちょっと性格悪すぎない!?
話し合いの時から性格悪そうだなぁと思っていたけど、
まさかあれで猫を被っていた状態だなんて……この真性のS野郎っ
っ!」
「……ねこ……えす?」
聞き覚えのない言葉で詰め寄られ光凌は、ぽかんと口を開けた。
しかし、それもほんの一瞬。
香が頭を下げなれていないように、光凌も人に怒られたことがない。
しかも、自分より明らかに目下の者に、今、襟首を掴まれている。
「貴様……」
言葉の意味は分からないが、侮辱されていることは分かる。
瞬時に激昂すると、香の腕を捻り上げた。
「いった!?」
「荷厳! 私の剣を持って来い」
鋭い声とは正反対に、荷厳は「はいはい……」と暢気に天幕内に入って
きて、その異常な光景に目を見開いた。
「何をしている!? 早くそれを渡せ!」
「えっちょっと、何してるんですか、光凌様!?」
「この愚か者を切り捨てる」
荷厳はさらに驚くと、剣を背後に隠すようにし、光凌から後ずさる。
「ちょっと落ち着いてくださいよー!
ほら、香ちゃんも何があったか知らないけど謝って!
早く……早くっっ」
香の腕には加減なく力が込められ、骨が悲鳴を上げている。
荷厳の悲痛な懇願は耳に届いていたが、余りの痛さにもう声すら出せ
なかった。
代わり悔しさの余りぽろぽろと涙が出てくる。
「ああもうっ泣いちゃっているじゃないですか!?
光凌様、女の子泣かしてどうするんですか?
大人げなさすぎますよ!」
「はぁ!? 女? 女などどこにいる!?」
その言葉に荷厳はポカンとし、光凌が捻り上げている香を指差す。
「はぁあ!? これのどこが女……」
なのだ?と言おうとして、光凌は黙る。
捻り上げている腕がやけに白い。視界に入る首筋にのど仏は見当たら
ず、手折ってしまえそうなほど細い。慌てて腕を放すと、香は弾かれたよ
うに軽々と吹っ飛んだ。
「こいつ女か!?」
荷厳は突き飛ばされた香を支える。
「光凌様……本当に気がついてなかったのですか?
小僧って、嫌味かと思っていました」
「ぐっ」
本当に気がついていなかった光凌は思わず呻いた。
光凌が今まで出会ってきた年頃の女性は、皆美しく清楚で可憐、髪は
絹のように滑らかで長く、甘く柔らかく良い香りがする。
それは、女性は女性でも確かな家柄、高貴な出身、世に言う姫という部
類だ。
「こんなに汚い女……初めて見た」
それは心からの言葉だった。しかし、香の神経を逆なでするには十分
だった。
「この……」
むくりと起き上がると、ずんずんと光凌に近寄って行く。
「ドS猫かぶりがぁあああ!」
この日、香は生まれて初めて人をグゥで殴った。そして、光凌も同じく生
まれて初めて人にグゥで殴られた。
荷厳は怒りの余り泣きじゃくる香を引きずるように天幕から出し、地面
に顔をつくほど平伏した。
「光凌様、どうかお許しください。あの者はまだ子どもです……」
そう言いながらちらりと光凌を見ると、殴られた際に切ってしまったの
か、唇から血が出ている。
(あああああ……不味い、不味過ぎる!!)
光凌の非情な性格を知っている者としては、香をどう助ければいいの
か、気が遠くなってくる。
そして、光凌からいったいどのような侮蔑の言葉が飛んでくるのか、虫
けら以下扱いをされる覚悟をする。
なので、光凌が「もういい、下がれ」というと、意味を理解できず「はっ!
はぁ?」と聞き返してしまった。
「いえ、え? しかし……光凌様に手を上げた者の対処はいかがすれば
良いのでしょうか?」
光凌は痛そうに口元を押さえているが、先ほどの殺気を感じられない。
「もういいと言っている。俺は女には手を上げない主義だ」
「あ……はい、そうですか……それは大変ご立派で……」
予想外の言葉にギクシャクしながら、荷厳は天幕の外へと出て行く。
混乱した頭を抱えながら外に出ると、暴風は収まり陣営内が活動を始
めていた。
少し離れた場所からは、兵士に指示を飛ばす声が聞こえてくる。
緊張なのか、恐怖なのか、はたまた高揚なのか。
正確に表現できない感情が陣営内を取り囲み、戦前の独特な空気を作
り出している。
しかし、荷厳の周りだけ明らかにそれとは別に異質な空間ができてい
た。足元からは「うっううっ」と少女の泣き声が聞こえる。
荷厳はため息をつくと、座り込んで泣きじゃくっている香を持ち上げた。
「うえぇ!?」
驚いたのか、可笑しな声がしたが離す気はない。
「ここで泣いていたら、また怖いお兄さんに殴られるよー。
あっいや、香ちゃんが殴ったのか!
あれは、なかなか良いパンチだったねぇ、おじさんスッキリしたよ」
香を担いで歩きながら、そんなことを言っていると、嗚咽はしだいに収ま
り、忍び笑いへと変わってゆく。
光凌の天幕からだいぶ離れた所で降ろした時には、もう堪え切れない
といった様子でけらけらと笑い出していた。
それにつられて荷厳も笑ってしまう。
「光陵様はそれはもう性格最悪で、陰険陰湿で人間的にどうしようもない
人だよ」
香は笑いすぎて声が出せないようで、コクコクと頷く。
「でも、あの人の血筋と権力、そして知識と采配は本物だ。
それこそ、白至が現れなかったら、今頃白王の右側はあの人だったろ
うね……」
それくらいの実力が彼にはある。
荷厳が知る中でもっとも優秀な人物が、そう言っているのだからきっと
そうなのだろう。
「今回はたまたま無事だったけど、次はないよ。
君はあの場で切られても文句が言えない立場だった」
深刻な顔で香を見つめると、香はしゅんとなり「ごめんなさい……」と呟
いた。うつむいてしまった頭をがしがしとなでると、荷厳はにっこり微笑み
ウインクをする。
「まぁスッキリしたのは本当だけどね。さぁ、もう帰りない」
その言葉に香の心臓は飛び跳ねた。
家もない家族も友人もいないこの世界でいったいどこに帰ろうか?
急に不安になり、どうしようもない孤独が押し寄せてくる。
しかし、そんな香の心中を知るはずもなく、荷厳は先を歩き出した。
「赤皇の所まで送るよ」
はっと我に返る。光凌のせいで高ぶり混乱していた感情がスッと冷めて
いくようだった。
(そうだった……私は赤皇の役に立ちたくてここにいるんだった)
しかし、光凌を殴ってしまった後では、光軍にいることすら難しいかもし
れない。
捕虜にすらなれない自分にがっかりするが、落ち込んでいる場合では
なかった。
「余り活躍するな、お前に期待してしまうぞ」そう言った赤皇(せきこう)。
主を殴ってまで止めようとし、香を心配してくれた甘睦(かんぼく)。
そんな二人の傍に戻るためには、せめて何か手土産でも持って帰りた
い。
褒められたいという気持ちと、がっかりされたくないこという恐怖が香を
後押しする。
“戦では情報がとても重要だ……”
確か赤皇はそんなことを言っていた。
なら戦うことのできない香に出来ることは、敵ではないが仲間でもない
光軍の情報を得ることではないだろうか。
(でも、どうやって? 光軍の知り合いなんて誰もいないのに……)
「おーい、香ちゃーん!
置いてくよーというか、本当に光凌様に見つかると大変だからおじさん
的には早く帰ってほしいなー」
「あ……いた」
香は、遠くで手を振る荷厳に笑顔で走り拠った。
「光凌様付親衛隊隊長の荷厳様ぁ♪ ちょっとお願いが」
一見、何の曇りのない純粋無垢なその笑顔に、荷厳はなぜか寒気がす
るのだった。
荷厳が出て行き、静寂の訪れた天幕内。
光凌は余りの腹ただしさに舌打ちをすると、口の端が痛んだ。
(くそっ! あの女……女でなかったらめった刺しにしてはり付けている所
だぞ)
しかし、怒ったり泣いたりしている姿を見てしまうと、年の頃が近いせい
か、王都にいる千凛(せんりん)を思い出す。
千凛は光一族の姫だった。
香とは似てもにつかず、同じなのは性別くらいだ。
“兄様……”
花のように微笑む姿が目に浮かぶ。
(私や父が反逆者になってしまった今、
いくら白皇(はくこう)の正妻だったとしても肩身の狭い思いをしているに
違いない)
「千凛……すまない」
一刻も早く、王都に残してきた光一族の安否を知りたい。
しかし、それをするにもまず、光領と自分が助からねばならない。
身体を蝕んでいた鉛のような重さはもう感じられず、頭は澄み切ったよ
うに冴えている。
迷いなく立ち上がると、今己のやるべきことをするために、光凌もまた
天幕の外へと出て行った。
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