第五章 右側


 ズキンズキンと一定感覚を置いて頭が痛む。

(熱い……痛い……喉が渇いた……)

 喉元をかきむしり、無理やり上半身を起こすとくるりと世界が回る。
しばらく目を瞑り、めまいが落ち着いてきた頃にゆっくりと目を開くと、
そこは薄暗い天幕の中だった。

 香(かおる)はきちんと寝具の上に寝かされている。

(山を降りている途中から記憶がない)

 そして、なぜか右腕に包帯が巻かれていることに気がつく。

(どこで怪我を? もしかして、私、倒れた?)

 そういえば、歩いている途中でこけて起き上がれなくなってしまったよう
な気がする。枕元には、頭を冷やしてくれていたであろう濡れた布が落ち
ていた。

 周りに水がないことを確認し、誰も来る気配がないことを察して、香は
立ち上がる。身体は熱く、足元はふわふわしているが歩けないことはな
い。

(水が飲みたい……)

 そう思い、天幕の外に出る。ひんやりとした風が心地よい。
日は山間に暮れ始め、空には薄く星が見え始めている。

 外はやけに騒がしかった。

 明るく人が居るであろうところへフラフラと歩いていくと、そこでは宴が開
かれていた。あるものは鎧を着たまま、あるものは鎧を脱ぎ捨て、光軍も
赤軍も関係ない、手に杯を掲げ楽しそうに語り合っている。

(宴会?)

 それはとても楽しそうな宴会だった。
しかし、それは香にはどうしても楽しめる光景ではなかった。

 兵士の着ている鎧の赤黒い汚れは何?
 さび付いたような色のその剣は何?
 酒の匂いに混じるこの濃い鉄のような匂いは何?

 答えはすでに分かっている。

「うぇ……」

 急に胃の中のものがせりあがり、軽く液体を吐く。息を整えつつ、滲ん
だ涙を拭う。

(兵糧を焼けた! やったーで終わりじゃない……)

 そうだったこれは戦争だった。ゲームでも映画でもないことに今更なが
らに戦慄が走る。
 その場から逃げだしたい一心で、フラフラしながらも懸命に前に進む。
しかし、赤皇(せきこう)の天幕にたどり着く前に、香の足は止まった。そ
の光景に目は釘付けになる。

 それは、とある天幕の前。

「あっ、香様!」

 香に気がつき、明るい笑顔で手をふる赤軍の青年がいた。名前は知ら
ないが確かに見覚えがある。その青年の左腕はぱっくりと割れ、生々し
い赤色で染まっている。

「こら、動くな治療ができないだろう!?」

 治療している兵士の制止も何のその。青年は、香に遠くから元気に「作
戦成功しましたね! 香様スゲェよ」と満面の笑みで褒めてくれる。

 青年だけじゃない。頭から血を流している者、背中に巻かれた包帯が
赤く染まっている者。そこには多かれ少なかれ、大小の怪我をした人たち
が治療を受けている。

 そこは病院というには余りにいいかげんすぎる。しかし、誰も彼も香を
見るとにっこり笑い、「やりましたね」「ご立派でした」と褒めてくれる。

(分からない……)

 気がつくと、涙が溢れていた。そんな香を見て、「どこか痛いのです
か?」と心配してくれた兵士は、足を引きずっている。

「分からない……」

 体中の震えが止まらない。立っていることも困難になり、香はその場に
うずくまる。その周りを心配そうに、兵士たちが取り囲む。

「どうされました?」
「大丈夫ですか?」
「おい、誰か人を呼んで来い!」

 優しい言葉をかけてくれる人たちは、香よりぜんぜん大丈夫じゃない姿
をしている。

(分からない……)

 熱くて熱くて目からこぼれるものが、涙なのか熱なのかも分からない。

「あっ、赤皇」

 誰かがそう呟いたと思うと、香の身体は力強く持ち上げられた。香は顔
を確認することもなく、小さい子どものようにぎゅっと抱きつく。

「こらこら、お前ら香の心配をするより、己の心配をしたらどうだ」
「いや、でも、香様は大丈夫ですか?」

 その礼儀正しい問いに、赤皇が笑う。

「こいつはちょっと熱があってな。大丈夫だ、どこも怪我などしてないさ」
「熱!?」
「それは大変だ! 熱覚ましの薬を……」
「ああ、では、後から俺の天幕に届けてくれ」

 香はお礼を言うことはもちろん、顔すら上げることができない。
兵士たちの笑い声を聞くたびにキリキリと胸が痛む。

(どうして笑えるんだろう……)

 赤皇が歩く振動が止まり、香の身体を支えていた力がなくなる。
とんっと地面に足がつき、そのまま力なく天幕内に座り込む。

「大丈夫か?」
「喉が……渇いて」

 赤皇は、水差しから杯に水を入れると香に差し出す。水が熱い喉を冷
やし心地よい。それでも涙は止まってくれない。

「……どうして……皆笑っているの?」

 本当に分からなかった。人を傷つけ傷つけられて、なぜ笑えるのか。

「皆、喜んでいるのだ」
「……喜ぶ?」

 何を?勝利を?敵を倒したことを?でも、敵って人ですよね?
やっぱり分からず、香は首を振る。赤皇は香の頭を優しくなでるともう一
度繰り返した。

「皆、喜んでいるのだ。生きていることを」

 それはとても分かりやすい答えだった。

「俺も今、香が無事でとても嬉しい」
「わ、私も……私も、う、嬉しいです」

 赤皇が無事で。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をこすりながら必死
にそう伝える。

「いつの日か、お前は言っていたな。お前の住んでいる場所では戦がな
いのだと」

 それは、いったいどういう世界なのか赤皇には想像もつかない。
だが、ひとつ分かることはある。

「この世界、お前にはつらいだろう?」

 今回の戦は、光凌と香のおかげで大勝だった。
こちらの被害も極端に少なく、昨日までの全滅を覚悟しなければならない
状況が嘘のようだ。皆、喜ぶのも香に礼を言うことも当たり前だった。
中には重症のものもいるかもしれないが、あそこにいたもの程度の怪我
なら命に別状がなく軽傷だ。

「しかし、お前には正視できないほど恐ろしいだろう?」

 香は、子どものように何度も何度も頷く。

「この世界が嫌になったか?」
「はい」

「香……帰りたいか?」
「……はい」

 涙に声を震わせながら、それでも香ははっきりと同意する。
胸がひどく痛んだ。

「せ、赤皇は、つらくないのですか?」
「つらいかつらくないかは、分からない。ただ、俺は生き残ることで精一杯
なのだ」

 『ああ』とひどく納得する。

(私はなんて幸せな人生だったんだろう)

 家族がいて、友人がいて、衣食住に困ったことすらない。可笑しな事件
は確かに多いけど、香自身にその火の粉が降りかかってきたことはな
い。

「赤皇……私、帰りたい……危ないし怖いしこんな世界嫌です」
「ああ」

 その笑顔はとても寂しそうに見えるのは香の気のせいか。

「でも……」

 それでも、赤皇に伝えた『ずっとずっと一緒います』という言葉にも嘘は
ない。

「でも、この世界は大嫌いだけど、私、赤皇の傍にいます!」
「ん?」

 赤皇が少し困ったように首をかしげる。

「矛盾しているけど……おかしいし、両立できないのは分かっているけど
……。私帰りたいのと同じくらいに、赤皇の傍にも居たいんです!」

 香は自分で言った後に「どうしたらいいのかな?」と首をかしげた。

「香……」

 その存在、その言動にどれ程救われたか分からない。

「感謝する」

 それは心からの礼だった。そして、この心優しい少女を解放してあげた
いと思う。

「香、お前は俺の役に立ちたいと言っていたな?だが、俺はお前を拾った
瞬間から救われていたのだ」

 あの日、あの森へ行った理由。それはひどく情けない話だった。

「突然“お前は王だ”と告げられたとき、俺はすべての者に裏切られたと
思った。そして、今すぐにどうしても代わりのものが欲しくなった。
 花でも、動物でも何でいい、俺が誰であろうと俺を慕い、俺なしでは生き
ていけないような存在が欲しかったのだ。だから、お前を拾った。誰でも
何でも良かったのだ。どうだ?情けない人間だろう?」

 香は必死に首を振る。そして、何かを言おうとしたが、赤皇はそれを手
で制止する。

「そして、さらに情けないことに、俺がこういう話をしても、香はきっと否定
してくれると信じているふしがいる。俺はお前に甘えているのだ」

 赤皇はやれやれとため息をつく。

「だから、お前は俺に恩を感じる必要はない。初めから返す恩などないの
だ、分かったか?」

 だから、香は俺の傍にいる必要はない。赤皇は香に無言でそう告げ
た。しかし、すぐに困ったようにくくっと笑う。

「だがな……お前を元の世界に帰してやりたいと、俺の傍から離れた方
がいいと思っているのに、お前はずっと俺の傍にいてくれるのではない
か? と、期待してしまっているのも事実だ」

 赤皇はもう一度ため息をつくと、「どうしたらいいのだ?」と香に聞く。

「どうしましょうか……」
「どうしたものか」

 口にすると、なんて矛盾だらけであやうい関係なのだろう。

 役に立ちたいと思う、傍に居たいと思う、苦しくなければいいと思う、悲
しくなければいいと思う。そして、それは相手もそう思ってくれているので
はないか?と、互いにうっすら気がついている関係。

 友情と呼ぶには深すぎる、愛情と呼べるほど相手を束縛することを好ま
ない。ただ、一緒にいると楽しいし、笑っていてくれたら嬉しいなと思う関
係。

「そうだな……親愛という言葉は、このためにあるのかもしれんな」

 香は笑顔で頷く。そして、あっと何かを思い出したような仕草をした。

「赤皇が私を右に座らせていた理由、私、分かりました!」
「それを当てると俺の軍師になるのだが?」

 ピタリと固まり「あー」「うー」と呻いた後、香はゆっくり頷く。

「まぁいいですよ、間違っていると思いますし。もし、当たっていたら、可哀
想だから軍師でもなんでもなってあげますよ」
「ほほう?」

 香は赤皇を指差すと、その目を見据えた。

「赤皇は、私以外、誰も信頼していない」

 何の深い意味もなく、赤軍と光軍のけん制でもなく、たったそれだけの
真実。ことは単純にして明快。

 赤皇からすれば、それぞれがそれぞれに思惑を持って、赤皇に仕えて
いることなど、分かりきっていることだった。
しかし、だからといって、「お前ら全員嫌いだー!」というほど、子どもでも
ない。かといって、「お前らを心から信用している、俺を支えてくれ」と思え
るほど大人でもない。

 香を右に座らせること、それは赤皇最大の皮肉だった。

 “俺が、王だというのならそうなのだろう。皆が、赤皇に仕えたいという
のなら、仕えたらいい。ただ、俺は……”

 赤皇はにやりと口元を上げる。

 “お前らなど、全員信頼していない”

 それくらいの嫌味は許されるだろう。そして、この本当の意味に気がつく
者などいないと思っていた。香が右に座ることはどうとでも解釈できる。

 本当の意味に気がつくことができる者は、赤皇に王であることを強要し
ない人間、そして、子どものような情けない内面を知ってもなお、傍にいて
くれる人物。

 赤皇は、香の頭をぐしゃぐしゃと勢い良くなでた。

「よし! 今日からお前は、正式に俺の軍師だ!」
「えぇえ!?」

 香の嫌そうな声が天幕内に響く。そして、それを耳にしながら、非情に
困っている男が天幕の外にいた。

 寝ていたはずの香の姿が消え、大慌てで探していると、途中で兵士に
会い、赤皇の元にいるので薬を渡してほしいと頼まれた。

(は、入りづらい!)

 甘睦(かんぼく)は入るに入れず、結局全てを立ち聞きしてしまった。
そんな自身が情けなくて大きため息が出る。

 “どうしたらいいのだろう?”赤皇と香は困ったように、少し可笑しそうに
そんな話をしていた。

「ずっと一緒にいればいいと思いますよ」

 甘睦は、そう呟き微笑むと思い切って天幕内へと入っていった。





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