第四章 傍観者


 右を見ても左を見ても、ゴツゴツとした岩肌が続いている。馬なら2頭並
ぶことがぎりぎり、歩兵でも4人並べばもう窮屈に感じる。そんな細道を
延々と兵士と馬、そして戦のための荷物が連なっている。

 荷厳(かげん)は目当ての人物を見つけると、「ちょっとごめんねー」と、
乗っている馬が人を蹴ってしまわないように細心の注意を払って近づく。
探していた人物は、立派な白馬に跨っていた。近づこうとすると、周りが
ざわりとざわめき警戒する。

「良い、構うな」

 少年特有の少し甲高い静止が入る。荷厳が白馬を操る少年に出来る
限り馬を寄せても、少年は表情を変えない。

「李清(りしん)」

 名を呼ぶと、李清はようやく挨拶程度に軽く会釈する。その動きに合わ
せて、戦場には不似合いな綺麗な栗色の髪がわずかにゆれる。

「お久しぶりです、荷厳殿。こんなところに現れるなんていったいどういう
風の吹き回しですか?」
「うん、まぁちょっとね。あれ? しばらく見ない間に大きくなったなー。前
に見たときはこんくらいだったのに……」

 少年は特に相手にする様子もなく、聞いているのか聞いていないのか
適当な態度だ。荷厳は世間話をやめると「はぁ」とわざとらしくため息をつ
く。

「冷たいなー。昔は、おじちゃんおじちゃんって良く懐いてくれてたのに…
…。君のお漏らしを片付けたこともあるのに……」
「いつの話ですか!?そんな覚えは一切ない!!」

 李清(りしん)の冷静な仮面が少し外れ、僅かに語尾が荒くなる。

(だからこの人苦手なんだよ!?)

 荷厳はその反応に満足したのか、話題を変える。

「ところで、李清くん。こんな道を通って大丈夫なのか?」

 李清は少し周りを見回した後、あくまで小声で話し出す。

「大丈夫ではありません。まったく、采(さい)将軍と来たら光軍(こうぐん)
を侮りすぎですよ」

 そして、何よりそれを指摘する年若い李清のことを一番侮っていること
は、これまでの行軍で李清自身が嫌というほど思い知らされている。

(だから揚州(ようしゅう)の連中は嫌いなんだ。粗野で自分が一番偉いと
奢っている。それならまだ、高慢だけどそれを隠そうとする光州(こうしゅ
う)の方が幾分かましだよ!)

 光州は代々の名家のせいか、皆一様に最低限の礼儀をわきまえてい
る。さらに光将軍の子息、光凌(こうりょう)が若くから文官として活躍して
いることもあり、若いからといって外見で人判断するようなことはなかっ
た。内心どう思っていようとも、少なくともそれを顔や態度に出されたこと
はない。

(よりによって王都から光州を追い出して、揚州を残すなんて……。
 やはり、白至(はくし)の考えることは僕程度のものには理解できない)

「でも、何か考えはあるんだろう?」

 暢気な荷厳の言葉で我に返る。

「当たり前です。采将軍にはせいぜい囮(おとり)にでもなっていただきま
すよ」

 正直、戦の勝ち負けには余り興味がない。白至の弟子を名乗るからに
は、何があっても白至の指示に従う、そう心に決めている。しかし、いつも
ながら白至の命は曖昧で人任せな所が多い。だからこそ、己の力の見せ
所なのかもしれないが。

 “何がどうなっても構わない。ただ、君と君の軍だけは王都に戻るよう
に、それと……”

「木札を持っている者の邪魔をしないようにと伺っていますよ。
 仰々しく命令書まで出されて。まったくお二人で何を企んでいるんだか」

 じろりと睨むと、荷厳ははははっと視線を逸らす。

「それなんだけどね……」

 荷厳は、いよいよ本題を話すべく、身を乗り出し李清に耳打ちする。
李清はほんの一瞬とても嫌そうな顔をすると、すぐに冷静を装う。

「出来る限りはご協力致します。でも、それ以上のことはしませんよ」

 荷厳としては、その答えだけで十分だった。




 日は山へと落ち、辺りは暗闇に包まれている。眼下では、かがり火が
赤々と焚かれ、野営の準備が行われている。暗くなってからも、香たちは
歩みを止めるわけに行かず、先を進み続けている。

 距離があり、しかもこの暗闇の中、敵にこちらが見えるはずがないと分
かっていても、下を覗けば見える距離に600人もの人がいるというのは
かなり神経をすり減らす。

 香(かおる)は、はぐれてしまわないように、甘睦(かんぼく)と手をつな
ぎ、黙々と歩き続けた。どうにか夜明けまでに、兵糧を火矢で狙える場所
にたどり着かないと、明日には王都軍は山を下りきってしまうだろう。

 不安が胸に押し寄せて、闇は嫌な想像に駆り立てる。視界がほとんど
利かない状態で、自分自身の呼吸音がやけに耳にとどく。

(怖い……)

 眼下の光景をそう感じた時、予想外に近いところから聞きなれた声が
聞こえる。

「まるで人が塵芥(ちりあくた)のようだ」

 誰に言うでもなくつぶやいたその声の主は、もちろん光凌だった。

(お前はどこの悪の支配者だ……)

 この状況で、その台詞が出てくる人物が味方なことが不思議でならな
い。呟きは強がりでも虚栄でもなく、心からそう思い、思ったことを思った
ままに口にしたということが分かるだけに香の顔は引きつる。

「大物……ですね」

 コメントすらできなかった香に、甘睦が微妙なフォローを入れる。

(いいのよ、甘睦。そんな奴にまで優しくしなくても。あれ? そういえば)

 香は光凌に小声で話しかける。

「光凌様、荷厳さんはどこに行ってるんですか?」
「……荷厳? 誰だそれは」

 何の冗談だと思ったが、光凌が嫌味以外に冗談を言うところなんて聞
いたことがない。

「荷厳さんですよ、ほら明るくて面白い。光凌様の親衛隊隊長の……」

 と言うと、すぐ後ろで「自分が、親衛隊隊長でありますが何か御用です
か?」と生真面目そうな男の声がする。

「……え?」
「寝ぼけているのか、香? それとも、私に対する新手の嫌がらせか?」
「そんな光凌様じゃあるまいし」

 香の素の返しに、どこからか笑いが漏れる。

「今、笑った奴。暗くて顔が見えなかったことを子々孫々まで感謝すること
だな」

 呪いの言葉は効果的面で、それ以降誰も口を開く者はいない。

(え? 皆、何を言っているの?)

 狐につままれたようとはこういうことを言うのかもしれない。すっきりしな
い気持ちのまま、それでも歩き続けるしかなかった。

 どれほど歩きつづけたのだろうか。足は痛いという感情を通り越して、
感覚がなくなってきている。日が落ち、急に気温が下がったのか、汗だく
にもかかわらずとても寒い。

(このまま気を失ってしまうかもしれない)

 おそらく、甘睦が手を引いてくれていなかったら、とっくの昔に倒れてい
ただろう。それくらい香は限界だった。意識は朦朧とし始めて、前へ前へ
と引っ張る手すら煩わしく振りほどきたい衝動にかられる。

「ちょっ……もう」

 ぐらりと視界が傾くと、奇跡的に歩みが止まる。

「ここだな」

 光凌が眼下を覗き込むと、周囲の人たちは暗闇の中にかかわらずてき
ぱきと火矢の準備を始める。暗闇といっても空には月があり、星があり、
さらに暗闇に目が慣れてきたこともあり、動くことは可能だろう。

 それでも木々が生い茂り淡い光を遮っているこの場所が、暗いことには
変わりない。甘睦は香を木の根元に横たえると、汗を拭き水を飲ませて
やる。それでも荒い息は収まらずとても苦しそうだ。

「夜明けまでだいぶ時間があるぜ」

 赤軍の兵士がいうと、光凌は「見張りは独りでするな。一刻ごとに交代。
それ以外は、夜明け半刻前まで各自休息」と告げる。
香の意識はそこで途切れた。




 寒さで目が覚める。汗をすった服が夜風に冷えてとても寒い。

(風邪をひいたかもしれない……)

 わずかに痛む喉を押さえて起き上がると、香は夜目になれるまでじっと
座る。隣には甘睦が香に寄り添うように座り、静かに寝息を立てていた。
辺りを見回すと、皆さすがに疲れていたのか、あちらこちらからも寝息が
聞こえる。

 それを起こしてしまわないように、見張りで起きているはずの人影を探
し始める。こちらが見つけるより早く、向こうがみつけたようで香の名を呼
ぶ声がする。その声の方へ行くと、二人兵士が香においでおいでをして
いた。

「おう、来たな」
「どうぞ、こちらへ周香(しゅうこう)様」

 驚いたことに一緒にいた二人は赤軍の兵士と光軍の兵士だった。
今までさんざん仲の悪さを見せられていた香は驚いたが、二人に間にち
ょこんと座るとすぐに嬉しくなる。

「ほら、食え食え。香様はちっこいから、もっと食わないとな」

 手のひらに大き目の干し肉を置かれる。それを小さくちぎりかみ締める
とじわりと肉の味が染み出てくる。

「おいしい……」

 そんな香見て、親衛隊兵は微笑む。

「もし、失礼なことならばお許しください。私どもはよく事情を知らないので
すが、周香様はどういった経歴の方なのでしょうか?」
「あ! それは俺も知りたかったぜ」

「赤軍でも知られていなかったのですか?」
「ああ、上の連中はどうかしれねぇが、今まで俺たちは“赤皇が村に連れ
て来た子ども”程度の認識だったからな」

 二人は顔を合わせると、興味津々といった様に香の返事を待つ。

(どこまで本当のことを言おう)

 まさか、ここで「異世界からきましたーてへ☆」という勇気はさすがにな
い。そんなことを信じてくれるのは、おそらく拾ってくれた赤皇くらいなもの
だろう。

「えっと、森で倒れていたところを赤皇に拾ってもらいました」
「なぜ森で倒れていたのですか?」

 丁寧だが、的確な質問に香は頭を抱える。

「えっと……それは……お、覚えていません」

 さすがに苦しかったかな?と思い、二人を見上げると、それぞれに何か
考えがあるようで、二人とも香を見ていない。

「香様、“拠(よ)りひと”をご存知ですか?」

 こちらを伺うような躊躇うような響きがそこにはある。香は、聞いたこと
のない言葉に首をひねると、赤軍の兵士も唸る。

「そんな迷信信じるつもりはねぇが、俺も今、ふとそれを思い出してしまっ
た」

 兵士は香に優しく説明してくれる。

「我々と同じ姿でありながら、この世の人でない“ひと”は、世界の混乱期
に現れて、調和をもたらす力があると言われています。必ず勝利へ導くと
も。それが“拠りひと”各地にいろいろな伝説があるのですよ」

 激しく心臓が波打つ。この世の人でないひと、それはまさしく香のことだ
った。そして、『各地にいろいろな伝説がある』ということは、あることを示
している。

(私は……独りじゃない?)

 しかも伝説になっているくらいなのだから、今までに、香以外の人が何
人もこの世界に紛れ込んでいるということではないだろうか。そして、それ
なら元の世界に帰った人もいるかもしれない。

(どうしよう、どうしようどうしよう。すっごいことを聞いてしまったわ。帰った
ら赤皇に報告しなきゃ)

 そこで我に返る。

(もとの世界に帰ったら……もう会えない)

 帰れることはとても嬉しいはずなのに、それと同時に同じくらい悲しくな
る。兵士たちは、独りで青くなったり赤くなったりしている香を心配そうに
見ている。

(やめよう。そんなこと今考えていても仕方ない)

 それに、本当に帰る方法が分かってから、悩むべきだと判断する。

「ごちそうさまでした」

 兵士たちは何か言いたげだったが、お礼を言うと香はその場を後にす
る。

「俺は、拠りひとなんて信じていねぇ」
「そうですね、所詮子どもじみたおとぎ話ですし」
「だが……」

 兵士は香が去っていった方に目をやる。

「もし、この難局を見事乗り越えちまったら……」

 いかつい赤軍兵たちの前で必死に訴えかける香の姿が思い浮かぶ。

「俺は伝説を信じてしまうな」

 親衛隊兵は育ちの良さそうな顔に笑みを浮かべる。

「私達、光凌様付親衛隊は、実はもう信じてしまっていますよ」

 “あの光凌様に、あのような無礼な態度をとって無事でいるなんて、この
世のひとであるはずがない”それが親衛隊の辿り着いた答えだった。




 長年山で暮らし、日ごろから鍛錬を積んでいても、敵兵を横にして1日
中の山歩きは辛いものがあった。

(男の自分でも辛かったのだ、か弱い少女にはどれほど酷だったか)

 甘睦は、香の隣に腰を下ろすと、香が眠っていることを確認していから
己も目を瞑る。とたんに、じんわりと身体が疲労に蝕まれ、しだいに意識
が遠のいていく。それでも、完全に眠ってしまうことはできず、薄く目を開
いては、隣に香がいるか確認し浅い眠りを繰り返した。

 幾度となく繰り返されるまどろみは、隣に居たはずの香の不在を確認し
た時点で消し飛んだ。勢い良く立ち上がると、辺りを見回すが、香の姿は
ない。無性に不安に駆り立てられ、見張りの方へと走り出すと、途中で香
と行き当たる。

「良かった! ご無事で?」

 香は、「あ……うん」とあいまいな返事を返す。何かひどく思いつめてい
るようで、まるでこちらを見ていない。

「まだ日の出まで猶予があります、お休みになられては?」

 香はコクコクと頷くと、そのまま、その場に座り込みぎゅっと小さく丸ま
る。それはまるで、自分自身を抱きしめているかのようだった。

「どうかなされましたか?」

 遠慮がちに聞くと、香は視線を彷徨わせる。

「甘睦……」
「はい?」

「拠りひとって知ってる?」

 しんと静まり返った暗闇の中。ごくりと己が唾を飲み込む音だけが聞こ
えた。思いもよらない人から、思いもよらない言葉が出てきて、何をどうし
たらいいのか頭が正確に動いてくれない。

(どこでそれを? どうしてそれを? なぜそれを?)

 その言葉を選んでも、正しくないような気がして甘睦は押し黙った。
香は相変わらず、丸くなったまま微動だにしない。

「……知っております」

 悩んだ挙句、それだけ伝えると予想外に香は「そうなんだ」とだけ、答え
それ以上何も言ってこない。

 今なら分かる、赤皇がなぜ香に「拠りひと」の話をするなと言ったか。

 それまで甘睦は、香に「貴女は、拠りひとです。調和と勝利をもたらす偉
大な人物なのです」と言いたくて仕方がなかった。だから、赤皇の勝利は
確定しているのだと。貴女はすばらしいのだと言ってしまって何が悪い?
ずっとそう思い、制止する赤皇に反感さえ持っていた。

(でも、今なら分かる)

 目の前にいるのは、確かに「拠りひと」かもしれない。
しかし、それ以前にただの年端もいかない少女なのだ。
ただの少女の行動理由はいつだって、ただの少女だった。

 赤皇と共にいるのも、甘睦の傍にいるのも、「拾って助けてもらった恩」
以外に何もない。

(周りに多くの人がいても、己と同じ高さにいなければ、そこには誰もいな
いのと同じことなのだ。甘睦しかり、李准しかり、厳巌しかり、村長です
ら、俺と同じ高さにはいない)

 故意に立ち聞きをしたわけではなかったが、昨日の夜聞いてしまった赤
皇の言葉は耳に痛い。だから、寂しいのだと、孤独なのだと彼は言う。

 “お前には分かるまい”

 本当に分かっていなかった。そして、分かる必要もなかったのだ。

 甘睦しかり、李准しかり、厳巌しかり、村長しかり、彼らは己の王に仕え
るためだけに生きのびて、そしてこれからも己の王に仕えるためだけに
死んで行くだろう。
 赤皇が生まれた時から、青王の忘れ形見であったと同様に、すべての
村人は赤皇のために生きてきた。そうすることが当たり前で誇りだった。

(でも、確かにあった)

 日が暮れるまで、皆で山で遊びまわった日々。
そこには王も従者もなく、あったのはただどこまでも純粋な好奇心、そし
て共に同じ時間を過ごして育まれる友情。そして、今の王にはそのすべ
てがない。

(でも、誰も望んでいない……)

 共に育った甘睦ですら、彼の孤独を知ってしまった今ですら、赤皇と同
じ高さにいることを望まない。

(誰も“彼”自身を望んでいない。皆、“王”である彼しか望んでいない)

 それはいったいどういう気持ちなのだろうか。甘睦には想像もつかな
い。そして、香を「拠りひと」と崇めることは、もう独り孤独な人を作り出す
ということだった。

 それでも、甘睦は己が間違っているとは思わない。赤皇は王であり、香
は拠りひとであることは真実だ。

 ただ、一つだけ思う。

「香様、王の右側(うそく)という言葉を知っていますか?」

 香は大して興味がないのか、力なく首をふる。

「昔のとある王は、最も信頼する人物を必ず右側に置きました。そのこと
から、王の右側に座るものは最も王に信頼されている者です」

 香は大きく目を開くと、ようやく甘睦を見た。

「香様、赤皇の右側に座っていてください」

 ずっとできれば永遠に。
 それはどこまでも図々しい願いだった。でも、甘睦は願わずにはいられ
ない。

 赤皇の孤独が少しでも癒されるように。香が孤独になってしまわないよ
うに。

(願うくらい許せよな。俺は俺の信じる道を行くぜ、お前にどんなに嫌われ
てしまおうとな)

 在りし日の彼に、もう二度と会うことのない彼に甘睦はそう告げた。






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