「明け方まで後僅かです」 　その場に一斉に緊張が走る。皆、眼下の兵糧を目掛けて弓を構える。 光凌（こうりょう）も自ら弓を構えながら、少しだけ明るくなってきた空をす るどく睨む。 　そんな光景を、香（かおる）は少し離れたところから見ていた。鼓動は異 常に早まり、手は自然と祈るような形になる。 （成功して、燃えて……お願い！） 　ただ必死に祈のり、空を見上げる。しかし、夜明けの瞬間を拝むことな く、皆は一斉に火矢を兵糧から香に向けた。 「えっ？」 　とたんに甘睦（かんぼく）が走りより、香を背後に庇う。 「ちっ回り込まれたか！？」 　光凌の舌打ちが聞こえる。いつの間にか背後に回られていたのだろう か。香たちは敵兵にぐるりと取り囲まれている。 「本当に居やがった。李清（りしん）様の言うとおりだな」 　隊長らしき人物が腰の剣を抜くと、背後の兵たちは一斉に弓を引く。 香は自体の早急さについていけず、ただただ甘睦の背中をぎゅっと掴ん だ。 「さぁさぁ、旦那方、弓を治めてくれませんかねぇ。なんか知らねぇが、あ んたらを出来る限り殺さないように言われてるんでさぁ」 　綺麗な鎧に似つかわしくない言葉使いに、違和感を感じる。正直、お前 はどこの盗賊だと聞きたい。 「ちっ」 　光凌が手を振ると、親衛隊兵は一斉に構えをとく。それを横目にまだ攻 撃態勢をとっているのは赤軍の兵士だった。 （駄目、無理だよ！） 　圧倒的なまでの兵力差は、素人の香でも無謀だと分かる。 「戦っちゃ駄目！」 　香が叫ぶと、赤軍の兵士達はしぶしぶ構えをとく。隊長らしき男は「素 直が一番だねぇ」と言いながらうんうんと頷いている。 　空は次第に明るさを増していく。 （後、少しで夜明け……） 　夜が明けると、暴風が吹く。この状況を打破するには、その瞬間しかな い。そう思い、香は光凌を見た。光凌も同じ考えだったのか、香の視線に 頷くと鋭く空を見上げる。 「じゃあまぁさくっと、こいつらしばっちゃって。あっちなみに「出来る限り殺 すな」だから、反抗したら殺（や）っちゃいますぜ？」 　敵の牽制に皆がたじろぐ。しかし、この場で独りだけたじろいがない男 がいた。 「それで脅しているつもりか？」 　光凌は、心の底から馬鹿にしたように鼻で笑う。 （光凌！？） 　ついに血迷ったかと思うが、光凌の顔はどこまでも冷静だった。盗賊ま がいの男は、剣を抜きにやにやと光凌に近づく。 夜明けまで、３、２、１…。 「馬鹿め、かかったな！？　身分をわきまえろ！」 　光凌の怒声と同時に、香たちがいる以外の場所から、兵糧に向かって 一斉に火矢が放たれた。 　火矢部隊はもちろん香たちだけではない。そして、万が一このように敵 に見つかってしまった場合、どこの部隊であろうと、決して手助けをせず、 兵糧を焼けと事前に取り決められていた。 「なっ！？」 　敵が驚いた隙に、親衛隊隊長が男の剣を払い、すかさず羽交い絞めに して首に刃を当てる。 （隊長ナイス！！） 　香の歓喜を共に喜ぶかのように、一陣の風が通り抜ける。 　ヒョォォオオオオオ 　香の髪を巻き上げたかと思うと、荒らぶる風は、兵糧についた火をも巻 き上げ、業火へと変える。燃え盛る炎に驚いたのか、眼下では「奇襲だ ー！！」「火を、火を消せー！！」と悲鳴なような声が上がる。正面では、 夜明けと同時に赤皇たちの攻撃が始まっているはずだ。 　光凌は燃え盛る炎を満足そうに見下ろすと、周りを取り囲んでいる兵士 たちに視線を戻す。 「さて、貴様らの主の命が惜しくば早々に下がれ」 　しかし、兵士たちは僅かの顔を見合わせた後、さも可笑しそうに笑い出 した。 「あははは、捕まる方が馬鹿だよなー」 「お頭ぁ、いままで世話になりやした！」 「次は俺が隊長だ」 （こいつら王都軍ではないな） 　光凌は捕らえた兵士に剣を向けると「すばらしい人望だな」と侮蔑する。 兵士は悔しそうに口を歪めた。 「まぁ、こんなもんでさぁ」 （さて、どうしたものか） 　奇襲は成功し、兵糧は恐ろしい勢いで燃え盛っている。 （火が放たれたということは他部隊は無事のようだ。 　それがこちらの援護に駆けつけるまで、どのように時間を稼ぐか……） 　光凌の悩みを解決したのは、意外な人物だった。その人物がひょっこり 敵兵の中から現れ、すたすたとこちらに向かってくる。 「荷厳（かげん）さん！！？」 　香の素っ頓狂な声が響く。確かにそこにいたのは、光凌の親衛隊隊長 荷厳だった。 「なっ！？」 　光凌ですら言葉を失う。そして、敵兵を羽交い絞めにしている、親衛隊 隊長の言葉がすべての疑問を物語っていた。 「荷厳隊長……？　えっあれ？　では、自分は……？」 　とたんに先程の香の言葉が頭を過ぎる。 　“荷厳さんは、どこに行っているんですか？” 　ぞくりと背筋に悪寒が走った。今、たったこの時まで、親衛隊はもちろん 光凌ですらこの男のことを忘れていた。いや、記憶に残っていなかったと いう方が正しい。光凌は、射殺すように荷厳を睨む。 「荷厳……お前……何者だ？」 「うーん、さすが光凌様。痛いところをついてくる」 　荷厳はやはり光軍にいたころのままで、光凌にも「様」をつける。そし て、ついと視線を逸らすと香を見てにっこりと笑った。 「香ちゃんは俺のこと、ずっと記憶出来ていたかな？」 　記憶が出来ていた、という遠まわしな言葉に、疑問を感じつつも、香は 素直に「急に姿が見えなくなったから、どこにいったか心配……してた… …」と答える。 「ビンゴ！！」 　荷厳は、ズビシと香を指差す。 「やっぱり当たりだ！　香ちゃん、ちょっと合わせたい人がいるからおじさ んと一緒に来てくれないかな？」 　甘睦は、近づいてくる荷厳を警戒しながら、香を背後に後退する。光凌 は、周りの敵兵がなぜか手を出すつもりがないことを感じ取り、荷厳に剣 を向ける。 「だから、お前は何者だといっている？」 　荷厳は戦う気がないのか、すぐに両手を挙げて降参のポーズをとる。 「光凌様、それは難しい話なんですよね……。 　あいつが”陽の者”、香ちゃんを“陰の者”と仮定した場合……そうだな ぁ……俺にあえて名前をつけるなら……」 　荷厳は明るい表情を消して、どこまでも静かに答える。 「イレギュラー」 「イレギュラー？」 　その言葉に香だけが反応を返す。それは久しぶりに聞く英語だった。 「そう、イレギュラー。香ちゃん達と違って、俺はあくまで予想外の存在だ から、余り深くこの世界に干渉できないんだよねー」 　それで困ったことはないが、この世界で荷厳は友情を育むことができな い。恋愛もできない。なぜなら、この世界の人たちは、荷厳が自分の生活 範囲内に居るときでしか、荷厳を記憶できないからだ。 　少し離れてしまえば、荷厳という男の存在すら抹消され、また、荷厳が 戻ってくると何事もなかったように、記憶の積み重ねが始まる。 　“会えない間に思いが募る” 　この世界に来て、そんな言葉と荷厳は無縁になった。 　ただ一つ、例外がある。「同じ世界から来たひと」はそれに当てはまら ず、荷厳を覚えておくことができるようだ。 だからこそ、普段だったら、何の疑問も抱かないはずのこの世界の人た ちに歪みが生じて、荷厳の異質さに気がついてしまっている。 　やれやれとため息をつくと、荷厳は香だけを見た。 「香ちゃん、今、君がここで俺について来たら、ここにいるみんなを助けて あげるよ？」 「え？」 　香を庇っている甘睦が腰の剣を抜く。 「香様お聞きなさらず」 　光凌の親衛隊も荷厳を敵と判断したようで、一斉に剣を抜く。 「周香様……この者にそれを出来る権力がある保障はありません」 （冷静な判断。本当に優秀だなー） 　荷厳は半ば呆れつつ、元同僚を見る。そして、首にかけていた木札を 外し、香たちに見せるように掲げた。そこには、2匹の蛇が彫られている。 蛇は絡み合い、今にも動き出しそうなほど躍動的で精巧だった。 「白皇の紋章……」 　思わず声を漏らした光凌に、荷厳は頷く。 「王都にいたなら、光凌様も聞いたことくらいはあるでしょう？」 　荷厳の言葉に光凌はぎりと歯噛みをする。聞くもなにも、今回の行軍に 辺り白至（はくし）直々に全軍へと妙な通達があった。正式な命令の手順 をとり、白至の署名が書かれたそこにはこう書かれていた。 　“全軍に告ぐ。白皇の紋章が刻まれた木札を持つ者を、傷つけることあ たわず、殺すことあたわず、その者に出会った者は、邪魔をすることなか れ、すべてその者の意思に従うべし” 　そして、その後には慇懃な文章でこういった内容が書かれていた。 　“もしこの命令を背いた人は、白至の敵として即白皇の反逆者となる。 　いかなる身分の者も例外はない。罪を犯した者は、その家名が２度と 歴史上に現れないように抹消するからよろしく” 　あの、妙な通達はこのことを言っていたのか。 　荷厳は、光凌の沈黙を見て、人好きされそうな笑みを浮かべる。 「この札があれば、君たちを助けることが可能だよ。その力の程は、光凌 様がご存知だから後から聞くといい」 「……下種（げす）が」 　苦々しくはかれた言葉に荷厳は苦笑する。 「俺はけっこう光凌様のこと嫌いじゃないですけどね。特に香ちゃんが来 てからは、なかなか面白かった」 　光凌と荷厳のやり取りはまるで遠くの世界のことのようだった。香は、 未だに理解できない頭を振る。 （荷厳さんは、敵で、私と同じ拠（よ）りひと……？） 　荷厳はぼーとしている香に言葉を畳み掛ける。 「香ちゃん……元の世界に帰りたくない？」 　それは全身が揺さぶられるような衝撃だった。甘睦を押しのけ前へ出 ると無意識に叫ぶ。 「かえ……れるの？」 　荷厳はYESともNOとも言わなかった。 ただ、一緒においでとその手を差し出す。 香は震えて思うように動いてくれない手をぎゅっと握り締めた。 「香様！！」 　背後で悲鳴のような甘睦の声がする。 （どうしよう、どうしよう。帰れるの？　元の世界へ帰れるの？） 　同じ言葉がぐるぐると巡り答えは出ない。悩んで悩んで混乱して混乱し て、一つの言葉が残った。 （でも私、今、帰りたいの？） 　敵軍に囲まれた仲間を残し、引き止めてくれる甘睦を振り切り、赤皇に 何の挨拶もせず帰りたいのだろうか？その疑問の答えはすぐに出た。 （嫌だ！　まだ、何もしていない！　何のお礼もできていない！　今じゃな くていい、今である必要はない！） 　そう断言すると、急に視界がクリアになる。手を差し出す荷厳。その姿 は隙だらけだった。当たり前だが、香が攻撃するとは思ってもいないよう だ。香が何のためらいもなく荷厳の手をとると「くそっ」と光凌の悪態が聞 こえた。 （私が荷厳さんを倒すことなんてできない） 　それでもひとつだけできることがあった。香は、無防備な荷厳の腕にぎ ゅっとしがみつくと、そのまま全体重をかけて押し倒した。 「はれ？」 　暢気な声を出しながら荷厳はその場に押し倒される。 「甘睦！　捕らえて！」 　呆然としていた甘睦は、香の言葉に我に帰り、倒れている荷厳に走りよ ると、腕を締め上げ剣を首にあてがう。 「ちょっ……香ちゃん？」 　荷厳が情けない声を上げているが無視だ。その手に握られている木札 を奪いとると、敵軍に見えるように掲げた。 「この人の命が惜しかったら、今すぐ下って！」 　それには、敵兵だけでなく、光凌たちもあっけに取られた。 香はどこまでも真剣なまま光凌に叫ぶ。 「光凌様！　よく分からないけど、この人偉いんですよね！？」 　光凌は、ぽかんと口を開けた後、ぶはっと息を吐く。 どうしても、こみ上げてくる笑いをこらえることができない。 「ああ、そうだ。偉い、いや、今この場で一番権力を持っているという意味 で……だがな」 　光凌は冷たい視線を投げかけると、呪いの言葉を敵兵に綴る。 「お前たち、正規の王都軍ではないようだが、木札の話くらいは知ってい るだろう？　それを持っている者を見殺しにでもしてみろ。白至にお願い だから殺してくださいと懇願したくなるような目に合わされるぞ」 　その後に、さも楽しそうにくっくっと笑い声が続く。兵士たちは、ざわめい た後、光凌の親衛隊隊長に羽交い絞めにされているお頭に助けを求め た。 「お、お頭ぁどうしましょう？」 「てめぇら……こんなときだけお頭よばわりかよ。助けてほしいのはこっち だぜ、まったく」 　それでも、お頭は部下たちに指示を出した。 「この旦那が言っていることは正しい。ここで、そこの木札を持つおっさん を見殺しにしたら、俺たちだけでなく李清（りしん）様もあの世行きだな」 「それは駄目だ！」 「李清様に迷惑をかけちゃいけねぇー」 「お頭ぁ俺ら退却します！」 　そういってあっという間にぞろぞろと退却していく。 光凌は、親衛隊隊長にお頭を放すように指示を出す。 「いいんですかい？」 　光凌は、答えるのも馬鹿馬鹿しそうに鼻を鳴らす。 「お前のように役にたたん人質はいらん」 　そして、さも楽しそうに荷厳を見下ろす。 「変わりにとても使い道のある馬鹿を捕まえたことだしな。 　安心しろ、お前らがこの男を見捨てたことなど、誰も知らん。 　私たちとお前たちが黙ってさえいればな」 　黙っててやるから、俺たちを見逃せと言っている。 確かに、要人を人質に取られて、無事に取り返すことは難しい。 もし、戦って怪我でもさせてしまった日には、助けたこちらが何をされるか 分かったものじゃない。 「旦那ぁ怖いねぇ。では、あっしはこれで……そこのおっさんの始末、頼み まさぁ」 　にやりと笑うとお頭はそのまま荷厳を残して去ってゆく。 「ああ……もう俺、完全に人間不信……」 　そんな荷厳の情けない声だけが後には残った。 　それは夜明けと同時だった。静かな夜をぶった切るような強風、そして 怒号。しかし、この天幕内だけはまるで別世界のように静まり返ってい た。 （あーあー始まったね） 　李清（りしん）は、まったく慌てた様子を見せず、暢気に手元の湯のみに 口をつけた。熱い液体を口を含むと、程よい苦味と共に、香ばしい香りが する。それは至福の瞬間。貴族の道楽はどうもいけ好かないが、茶だけ は別物だと李清は思う。 （精神安定をもたらし、身体にもいい、しかも美味しかったらいうことがな いじゃないか） 　いつの日か荷厳にそのことを言うと、「若いくせにじじ臭いなー。もっと遊 べ若人」と言われてしまったが、白至は「良い趣味ですね」と褒めてくれた ので、まったく気にしない。 （そういえば荷厳はうまくお目当ての人を捕らえられたのかな？） 　いちおう配下の者には、協力するようにいっておいたが、命じた連中が 連中なだけに、どうなったことやら。李清はゆっくり茶を味わうと、「ふぅ」っ と至福のため息をつく。しかし、その穏やかな時間は、長くは続かない。 激しい足音と共に数人の兵士が李清の天幕に流れ込んできた。 「李清様、失礼します！」 　それでも、李清は慌てた様子を見せず、優雅に茶を口に運ぶ。 兵士たちは一瞬呆気に取られたが、気を取り直すと早口にまくし立てた。 「正面から赤軍に攻められています。また、側面から火矢を放たれ、兵糧 が炎上。消火作業を行っていますが、火の勢いが強く被害は増大です」 （ふーん、兵糧を狙ってきたか。さすがに敵も馬鹿じゃない） 　側面からの攻撃は予想ができていたから、撃退するように部隊を派遣 しておいたが、どうやら失敗したようだ。李清は茶を置き、真剣な顔をす る。 「采将軍はご無事か？」 「はい！　ただ今、正面の敵と対自しております！」 （ちぃ残念……采濘（さいねい）がいなくなったら、僕が全軍の指揮をとれ たのに） 　いくら采濘が李清を馬鹿にしようと、李清は常に思いつく最善策を進言 してきた。それを全て蹴り捨てて、最悪の状態に自らもっていってしまった のだからそれはもう仕方ない。 「我が軍は、全軍消化活動に参加。出来る限り被害を押し止めてくださ い。また、采将軍には、李清が撤退命令を出すように進言しているとお伝 えください。この劣悪な地形、そして混乱しきったこの状況で我が軍が勝 てる道理はありません」 　李清は立ち上がると、自ら消火活動の指揮をとるべき歩き出す。 「もし、撤退命令が出ないようなら、我が軍は軍師の権限を持って独自に 撤退します」 「はっ」 　短い同意と共に兵士は走り去ってゆく。 （さて、ようやくこの茶番を終わらせて王都に帰れる。 　帰ったら一番に「采濘（さいねい）は使えません！」と白至に報告しよう） 　李清はそう心に決めた。そして、ふと今の今ままで覚えていた何か忘れ てしまった気がしたが、どうしても思い出せない。 （まぁいい、思い出せないということはその程度のことだ） 　李清により、その程度のことと断言された男は、非情に困難な状況に 追いやられていた。 「ひどいよ香ちゃん」 「荷厳さん……」 　両腕を縛られ、親衛隊に連行される姿にさすがに香の良心が痛む。 しかし、光凌はどこまでも冷静だった。 「何がひどいだ？　お前の方が先に裏切ったのだろうが！？　 　ええい、香、いちいち同情するな、見ているこっちが腹立たしいわ」 「あっそっか！　荷厳さんの裏切り者！」 「うわっ！　ひどっ！　俺は確かに嘘をついてましたけど、俺がどっちに付 こうが根本的な戦況は変わらないんですからね！？　裏切るも何もない んですって！」 　眼下の王都軍はすでに撤退を始めている。 　行きは沈黙を守り、常に気を張りつつ行った山歩きも、成功に浮き立 ち、さらに下り道の帰り道とあれば自然に人の口も軽くなる。 真面目な親衛隊もこの会話にはつい口を挟んでしまう。 「どういう事情か分かりかねますが、我らを置いて出て行くとは、荷厳隊 長見損ないました」 　これには荷厳も黙っていない。 「今まで忘れてたくせにそう言うこと言うか！？」 　暴れる荷厳を見て、一言。 「光凌殿、この方、ここに、捨てて行きましょう」 　そう提案した甘睦は、なぜか剣に手をかけている。 「ちょっと、ちょっと何！？　このお兄さん、怖いんですけどっ！　目が、目 がマジなんですけど！？」 「甘睦……それはさすがに……ちょっと」 「香様、申し訳ありません、ほんの少し目と耳を塞いでいただければ、一 瞬で終わりますから……」 　甘睦は優しく笑う。 「怖い、怖い怖いっっ！　マジでヤバイってこの人」 　じりじりにじり寄る甘睦に、縄で縛られながらも後退する荷厳。 「ええい、貴様ら喧しいぞ！　判断は赤皇と父上に委ねる。ここで勝手に 処断することは許さん」 　それは意外にも光凌の制止だった。ほっと安心したのもつかの間。光 凌は凍てつくような言葉を吐く。 「ただし、余り煩く暴れるようなら無惨な焼死という可能性もなくはないが な」 （魔王だ……） （魔王だわ……） （……なぜ、よりによって焼死？） 　浮かれた気持ちも急に静まり、一行は行きと同様静かな帰り道となっ た。 　時間の経過と共に、香の足の裏はじんじんと痛み、しだいに意識は朦 朧としてくる。それでも、甘睦が手を引いてくれるので、どうにか前に進む ことができた。 （喉が痛い……） 　昨日の夜から違和感があった喉は、確実に痛みが増している。それど ころか頭まで痛くなってきているので、もしかすると熱があるかもしれな い。 「大丈夫ですか？　香様」 　甘睦の心配そうな声が聞こえる。 （でも、ここで立ち止まるわけには行かない） 　迷惑になりたくないというただ一心で足を前に出していたが、石に躓き バランスを崩すと、そのまま起き上がれなくなった。身体は鉛のように重く 動くことを拒絶する。 「香様！？」 「ごめん……なさい」 　視界の定まらないまま誰にでもなく謝罪すると、香の視界は白くなった。 （頑張るねぇ） 　さっきからふらふらして危なっかしい歩き方をしていた香がついに倒れ た。 この場にいる皆が僅かに怯んだ瞬間を見逃すわけにはいかない。 何より香の意識がないということが重要だった。荷厳は、縄を持っている 親衛隊に思いっきり体当たりを食らわすと、そのまま山中へ走り出す。 「逃げたぞ！　追え！」 　そう声が聞こえたが、追っては来ない。移動中は生活範囲が極端に狭 くなるせいか、少し距離を置くだけで彼らは荷厳を忘れてしまう。 （こういう時は便利だなぁ） 　腰の剣を引っ張り出し、座り込み足で支えると器用に両手を拘束する 縄を切る。縄の後が赤く残る腕をさすりながら、荷厳は今来た道を戻り始 めた。 （李清に追いつかないと……） 　食料も水も僅かしか持ち歩いていない。このまま独りで王都まで戻るこ とはできない。 （できれば香ちゃんも連れて行ってあげたかったけど） 　少なくとも一緒にくれば、衣食住には困らず、戦にも巻き込まれない生 活ができたが、本人にあそこまで拒否されてしまってはどうしようもない。 （もうすでに、この世界に巻き込まれ始めていたってことか） 　これから先、香に起こうるであろう困難を思うと、自然に表情が険しくな る。行き着く最悪の結末は、白至との前面対決。 　どうして争いは起こるのだろう。 　どうして、自分たちはここにいるのだろう。 　なぜ、同じ世界から来た者同士が仲良く出来ないのだろうか。 　それを知りたい。そして、それを調べることができるのは、この世界に 干渉されない自分だけだと荷厳は思っている。 （すべての謎が解けたら、まとめて本にしよう） 　おそらく名前を残すことはできない。それでも、真実が分かったら何か をこの世界に残そうと思う。 　荷厳は、この世界にとってたった一人の傍観者であり、たった一人の探 求者でもあった。 次へ 「飛翔伝」のＴＯＰへ