天幕の外に出ると、風が香(かおる)の髪と衣服をふわりとゆらす。
少し乱れた髪を手ぐしで直す。
毎日シャンプーとリンスをすることが当たり前だった髪は、ここ数ヶ月ま
ともに洗うことすらできなかった。
(お風呂がないのよね、この世界……)
この世界にはお湯につかると言う習慣がないらしく、身体が汚れれば水
浴びをする程度のものだ。
初めは身体や髪を洗わないことに抵抗があったものの、逃亡生活に入
ってからは気にする余裕もなくなり、今ではまったく気にならなくなってい
る。
長い間洗っていない髪を一つまみし、まじまじと見る。
(洗いすぎだったのかな?)
パサパサで寝癖がなかなか直ってくれないことが悩みだった髪が、今で
は嘘のようだ。
指で挟んだ香の髪は艶やかで黒々している。もちろん、寝癖もついたこ
とがない。
(この、髪質がもっと早く手に入れば……。
あっいやでも、今、私臭いのかも?)
くんくんと臭いをかいでいると、不思議そうな顔の甘睦(かんぼく)と目が
合う。
「……あ。
最近水浴びすらしてないな……と思って」
何を言われた訳でもないのに、なんとなく恥ずかしくてそんな言い訳をし
てしまう。甘睦は、そのことに関して特に何も言わずにっこり笑う。
(その無言の笑顔が余計気になるんですけど……。え? 私臭いの?)
香の複雑な乙女心など分かるはずも無く、甘睦はもう次の話題へと移っ
ていく。
「これからどうなさいますか?」
赤皇(せきこう)と光領(こうろう)の話し合いが終わるまで、作戦会議は
行われないだろう。予定外にぽっかりと自由な時間ができてしまった。
いつもなら香一人でボーと歩いたりしているのだが、今は少し気になる
ことがある。
「あの怖そうな大きな人ってどんな人かな?
同じ村にいたけど、まともに顔を合わせたこともなかったから……」
香がそう言うと、甘睦は少し驚いた様子だったが、すぐに優しい笑顔を
浮かべる。
「厳巌(げんがん)は、あの村の自衛団のまとめ役です。
私も自衛団の一員ですから、彼のことは“お頭”って呼んでますね。
盗賊みたいでしょ? 隊長と呼ぶと、性に合わないと言って怒るのです
よ。まぁ子どもの頃は“馬のおっちゃん”と呼んでましたけど」
「馬のおっちゃん?」
怪訝な顔をする香に、甘睦は笑いかける。
「お頭の村での仕事は、馬の世話なのです。
ああ見えて、動物と子どもが大好きなんですよ」
会議中に笑いかけてくれたことを思い出し、少し納得する。
外見は怖そうだが、会議中に見せてくれた笑顔はとても温かかったよう
な気がする。
「行って見ますか? 村の連中が天幕を張っている辺りにいるでしょうか
ら」
「う……うん、でも私が行ったら迷惑かもしれないし……」
「では、私が用事があるので一緒に行きませんか?」
それが本当のことなのか、香のための嘘なのかは分からないが、気に
なることは確かなので、ためらいながらも頷く。
なぜか、甘睦はとても嬉しそうに案内してくれる。
この陣営は、赤皇の天幕を中心とし、右側に村人、左側に光一族(こう
いちぞく)の兵士達が陣を張っている。
光一族の方は、いかにも軍隊という雰囲気だが、右に歩いていくと、軍
隊というよりも難民に近い雰囲気があった。
それでも悲壮な空気はなく、女達が昼食のあと片付けをし、その周りを
子どもたちが笑いながら走り回っている。
その穏やかな風景に、ここが戦場だということも忘れて頬が緩む。
さらに奥に進むと、ようやく馬や武器が見え始め、兵士らしき若者が集
まっている。
その中の一人がこちらに気がつき、甘睦に手を振り、そして、その後ろ
の香に気がつくと人懐っこい笑みを浮かべて頭を下げた。
簡素な鎧を着こんで、腰に剣を下げている青年は、確かに村で見たこと
がある。
ただ、見たことがあるだけでどこの誰だがまったく分からない。
少し気まずい思いをしながら、こちらも軽い会釈をかえす。
今さらながらに、何もせず、日長赤皇の家に閉じこもっていた自分を後
悔してしまう。
あの頃は、
悲しくて悲しくて、
帰りたくて帰りたくて。
何もできなかったし、何も考えられなかった。
「なぜ、私がこんなめに合わなければならないの?」と何度も思った。
その気持ちは今でも変わらないが、逃亡中のこの状況では、それがとて
も我がままで贅沢な時間だったことが分かる。
甘睦は青年に手を振り返すと、「お頭は?」といつもと違う砕けた話し方
で話し出す。
「ああ……何があったか知らねぇけど、向こうで酒飲んで村長にくだ巻い
てたぞ」
甘睦は礼を言うと、言われた方に歩き出す。
「酔っているのでは?」と聞くと、
「お頭に酔うという文字はありませんよ。ざるですから。
秋祭りでは、もったいないから水でも飲んでろ!って、村長に怒られてま
したっけ」
そう言う甘睦の横顔は、とても楽しそうだ。
その横顔を見ていると、羨ましいような悲しいような複雑な気持ちが湧き
上がってくる。
(皆、どうしてるのかな……私のこと心配してくれているのかな)
ふいに浮かんだ暖かい家族の顔は、突然辺りに響いた怒声によってか
き消される。
「あぁああ、あいつら気に食わねぇ! すかした面(つら)並べやがって!」
声の主は探し人の厳巌だ。
酒壷を片手に、近くに座っている小柄な老人に咆えている。
その迫力は、少し離れた位置にいる香でも腰が引けてしまうほどなの
に、老人は怯える様子もなく、かといって一緒に怒るわけでもなく、ただ聞
き流していた。
「なぁ聞いているかよ、おい村長!」
「聞いとるよ。ほれ、お客さんだ」
村長と呼ばれるからには、おそらくあの老人が村長なのだろう。
村長が香に目を向けると、ようやく厳巌もこちらに気がついたようだ。
「甘睦に嬢ちゃんじゃねーか。お前らどうした?
もう、次の話し合いが始まるのかよ?」
厳巌は嫌そうにダルそうに聞いてくる。
「いえ、そういう訳では……」
香がしどろもどろになっていると、甘睦が笑いながら厳巌の側に行く。
「お頭ー! ただでさえ怖い顔が、さらに怖いですよ。
香様が怖がって近づけないじゃないですか」
その言葉に、厳巌はムッとし、村長はうんうんと頷く。
(やめてよ! 失礼なことを言わないでよ、怖いんだから!)
逃げ出したい気分だったが、厳巌がこちらに近づいて来たので、香の身
体は強張り一歩も動くことができない。
「おい」
「は、はい?」
低音の乱暴な口調にびくついてしまう。
思えば今まで生きてきて、こんなに背が高くて柄が悪くて怖そうなおじさ
んと話したことがない。
どこからどうみても組関係の人にしか見えない。
挙動不審になっていると、頭の上から「馬は好きか?」と聞こえてきた。
「へ?」
香が話しについていけず、聞き返すと、厳巌は不機嫌そうにもう一度言
う。
「馬は好きかって聞いているんだよ!」
「え、いえ、まだ乗ったことないです……」
半泣きになりながら答えると、「ちっ」と舌打ちをされてしまう。
(やっぱり怖い人だー)
泣きたい気分になっていると、甘睦が助け舟を出してくれる。
「でも、乗ってみたいですよね?」
確かに馬に乗ってみたいとは思うので、元気なくこくりと頷く。
それをみた厳巌が何か言おうと口を開いたとき、辺りが急に騒がしくな
った。遠くからかすかに悲鳴や子どもの泣き声も聞こえてくる。
一瞬にして、厳巌の怖い顔がさらに険しくなり、騒ぎの方へと走ってゆ
く。
「追いましょう!」
走り出した甘睦に流されるように、香も慌てて後を追う。
そんな三人の後ろ姿を村長は慌てることも無く、ただ静かに見つめてい
た。そして、ふと空に向かって「李准(りじゅん)」と呟く。
「あの“拠(よ)りひと”をしばらく見張っててくれまいか?
もし、赤皇の邪魔になるようなら、皆の情が沸く前に切り捨てなければな
らん」
村長以外誰も見当たらないにも関わらず、ただ一言風に乗って「御意」
と返事が返ってきた。それを聞くと、村長はもうすることはないとでも言う
かのように、ゆっくり目を閉じ、のんきに昼寝を始めるのだった。
「これはいったいどういうことだ!?」
人の輪をかき分け騒ぎの中心にたどり着いた厳巌は怒鳴り散らした。
辺りには焦げ臭い匂いが漂って、荷物が散乱している。その中心に武
器を持った見慣れない兵士が2人佇んでいた。
そのすぐ側では、小さな男の子が大泣きし、その子を庇うように母親らし
き女性が抱きかかえている。
「大丈夫か?」
声をかけると、女性は真っ青な顔でこくこく頷く。厳巌は兵士らをするどく
睨みつける。
「おめぇら、光一族の奴らだな。いったい何をしやがった!
返事によっちゃ今ここで叩き切るぞ!」
その余りの威圧感に兵士二人はたじろぎ、2、3歩後退する。しかし、向
こうにも兵士としてのプライドがあったのか、無理やり強気に話し出す。
「我らは何もしていない、これは……」
「何もしていないだぁ!? 何もしていなかったら、なんでここにいるんだよ
てめぇらは!」
何もしていないという言葉が厳巌の勘に触ったのか、兵士らの言葉を最
後まで聞かず、兵士の襟首を乱暴に掴んだ。
片割れの兵士が驚き腰の剣に手をかける。
それを見た厳巌は、獲物を見つけた獣のようににやりと唇が歪める。
「おおっと、いいぜ! 抜きたかったら抜きな。
その代わり、危ないもんを振り回すんだ、お前自身が危ない目にあって
も文句を言うなよ」
襟首を掴んでいた兵士を放り投げると、厳巌も腰の剣に手を伸ばす。
人だかりが出来ているにも関わらず、辺りは静まり返っている。
誰も手出しができないほどこの場の空気は張り詰めていた。
その騒ぎから少し離れた天幕内で、一人の男が手にした書簡を苛立た
しげに投げつけた。
「ええい、騒がしい! 何があったのだ」
近くの兵士に怒鳴りつけると、兵士は畏まる。
「申し訳ありません、光凌(こうりょう)様。どうやら、赤皇の民ともめている
ようです」
光凌と呼ばれた男は神経質そうな顔を歪め、鋭い視線を兵士に返す。
「だから私は反対したのだ。
白皇を裏切り、我ら一族が反逆者に身を落とすなど……。
今回ばかりは父上のお考えにも賛同できん」
兵士が書簡を広いながら、「どうなさいますか?」と躊躇いがちに聞くと、
光凌は書簡を受け取りながらはっきりと侮蔑を込めて言い放った。
「馬鹿馬鹿しい、捨て置け」
そして、何事も無かったように手元の書簡に意識を戻した。
兵士は小さくため息をついて天幕から出て行こうとすると、後ろから冷た
い声がかかる。
「待て」
「はっ」
兵士は“咎められる”と思い平伏したが、光凌は兵士を全く見ていない。
「そうか……これはある意味、この状況を脱する良い機会かもしれん」
そう小さく呟くと兵士を追い抜き天幕内から出て行ってしまう。その足音
が遠く離れたのを確認してから、兵士は顔を上げた。
兵士としては、事情があり仕方なく王都軍に入ってみたものの、主の光凌
の性格にうんざりだ。
そもそも一番下っ端の兵士として入隊したはずなのに、何をどう間違っ
たら光凌直属の部下になってしまうのか。
兵士は首からぶら下げている木札をつまみため息をつく。
おそらく犯人はこれをくれた人物だろう。
「あああもう嫌だ! さっさと軍を抜けよう……」
そう誓ったものの、今はこのまま去ってしまう訳にもいかず、兵士はため
息をつきながら、主の後を追って天幕を出た。
光凌の足が乾いた土を蹴り、風が砂を舞い上げる。
(だから辺境の地は嫌いなのだ)
埃っぽくて、汚らしい。
幼い頃から、全州の中で一番栄え美しいと言われる光州で育ち、15歳
で王都に上がってからは順調に位を高めていた。
その状況に何の不満も疑問ない。
あえて不満を言うなら、現王白皇(はくこう)を擁立した楊州(ようしゅう)
の一族が、今まで以上に王都で幅をきかせていること。
そして、ある日突然現れたどこの誰だか分からない男が、白皇に気に
入られ最高権力を持つ文官、軍師の頂点“至(し)”の位を与えられたこと
くらいだ。
しかし、それなら楊一族も白至(はくし)も全てを踏み越え、再び光一族
が権力を持てばいいだけのこと。
なぜここで、父の光領(こうろう)が全てを捨てて赤皇に肩入れをしたの
か、理解できない。
光凌が、人だかりの方に向かっていくと、その冷たい目つきと、まとって
いる近寄りがたい雰囲気に、自然と人々は道をあける。
そこで、目に入ったのは、鬼気迫って剣を構える自軍の兵士。そして、
その前にいるのは、先ほど話し合いの席にいた厳巌という男だった。
ざっと辺りを見回すと、すぐに状況を理解する。
散乱した荷物、辺りに漂う焦げた匂い、そして何より泣いている子ども
の足が火傷で赤く腫れ上がっている。
おそらく、子どもが火遊びでもして、荷物に燃え移ったのだろう。
荷物が散乱しているのは、兵士たちが火を消したからだ。軽度の火事
なら水をかけるより、燃えているものを壊した方が早い。
(さて……と)
光凌はあごに手を当て、考えをめぐらせ始める。
光一族は代々武勲に優れ、その中でも父の光領は、王都で将軍の位に
まで上り詰めている。
しかし、光凌はそんな父親とは違い、どちらかというと、頭を使うことの
方を好んだ。だからこそ、ぽっと出の白至に苦々しい思いを抱かざるおえ
ない。
いつかそこに収まるのは自分だと思っていたし、現に今でもそう思って
いる。
(赤皇はおそらく本当に先王の血を受け継いでいる。
でなければ父上が、ここまで思い切ったことはしないだろう。
なら、その赤皇の首を手土産に王都に帰るとするか。
開戦していない今ならまだ、“寝返ったのは作戦でした”で十分通じる。
いや無理やりにでも通じさせてみせる)
光凌は薄い唇の端をにやりと持ち上げた。
次へ
「飛翔伝」のTOPへ
|
|