どうにか時間内に辿り着いた文衛省では、まず朱色の鳥居に出迎えら
れる。延々と続く鳥居の隙間から空を見上げると、鳥居の奥に紫色の屋
根瓦が朝日に照らされている様が見える。

 時には淡く、時には濃く、様々な紫で作り上げられた三重の搭は美しく、
近寄りがたい雰囲気をかもし出している。

「紬!」
「はい」
「走るぞ」

 いよいよ遅刻寸前になって来たらしい。全速力で走る雪之丞に紬の足
では着いていけない。すぐさま引き離されて、雪之丞の姿はそのまま鳥居
の奥へと消えていく。

「ちょっと、待って!」

 元はと言えば、寝坊した雪之丞が悪いのだ。それに巻き込まれて朝か
ら全速力で走らされている自分の哀れさに泣けてくる。

 鳥居が終わり、ようやく塔の前に辿り着いた瞬間に、無残に鐘が鳴り響
く。

 ゴーン ゴーン

 心に染みる鐘の音。この瞬間、紬の遅刻は確定した。

「ふっ」

 怒ったらいいのか笑ったらいいのか分からない。とにかく葵地雪之丞が
憎い。ここに刀が無くて良かった。あったら、確実に振り回していただろ
う。

 開け放たれた重厚な扉をくぐると、遅刻を取り締まる文官士に止められ
る。
 ちなみに余り酷いようだと、禄(ろく・給料)が減らされるといった罰が待
っている。

「はいはい、階級と名前を言ってねぇ」

 穏やかな口調でそう話した文官士の顔を見て、全身の力が抜ける。

「父さま」
「あれ? 紬じゃないか。あんなに早く家を出たのに遅刻なのかい? 紬
も困ったちゃんだなぁ」

 はっはっはっと笑い飛ばすこの細身の中年男性は、児玉家の現当主
だ。ちなみに威厳も何もあったものではないが、とても優しく父としては申
し分ない。

「葵地様は、もう先に出仕しているぞ? お前はお側にいなくて良いの
か?」
「うん、たった今まではちゃんと仕えてたんだけどね……」

 置いていかれてしまったのだから仕方がない。父の差し出した書類に、
〈衛官士、児玉紬〉と書き込む。

「紬、あと一回で始末書、三回で減俸だぞ。気をつけなさい」
「……はい」

 全ては雪之丞のせいだが、ここで言っても仕方がない。大人しく返事を
すると、向こうから可愛らしい少年がてこてこと歩いて来た。

 薄紫の着物の上に、温かい印象を与える淡い黄色の直垂を着用してい
る。合うサイズがなかったのか、少し袖が長かったり、上をつめたりしてい
る姿がさらに少年の可愛らしさを引き立たせている。

 少年は、明るい笑顔を浮かべてこちらにぺこりと頭を下げた。

「おはようございます。児玉さん」

 児玉家の二人は揃って礼儀正しく頭を下げる。

「「おはようございます。貴彦(たかひこ)様」」

 貴彦と呼ばれた少年は、水晶のように丸く澄んだ瞳を大きくして、右耳
横で軽く結んだ淡い栗色の髪を左右に揺らす。

「そんな、様だなんて。僕のことは貴彦で結構ですから!」

 思わず突っつきたくなるような頬を赤く染める貴彦。雪之丞が今一番旬
な男だとすれば、貴彦は将来が楽しみで仕方がない少年だと言える。

(卑怯な程、可愛い)

 紬は思わずそう思ってしまったが、父の言葉で我に返る。

「いえいえ、文視を呼び捨てには出来ませんよぉ」

 文視とは、文官士の中でも位が高い階級だ。文視になれるのは、難しい
試験に受かり、かつ現場で実績を上げてきた者だけ。ようは文官士のエ
リートで、その中でも特に優秀な者だけがさらに階級を登りつめていく。

 目の前の貴彦は、後は文視監ではないかと囁かれているほどなので、
まさにエリート中のエリートといえる。

「児玉さん」
「「はい?」」

 二人同時に返事をすると、貴彦は慌てる。

「あ、えっと、その、つ、紬さん」

 子犬のように目を伏せ、おずおずと名を呼ばれる。その様子が可愛す
ぎて、先ほどまでの雪之丞への恨みは吹き飛んでしまった。

(貴彦様を見てたら癒されるわ)

 ほのぼのとしながら、貴彦の言葉を待つ。

「葵地さんが、探していましたよ」

 葵地とは、もちろん雪之丞のことで。
 日向ぼっこをしている最中に、冷水をぶっ掛けられたような気分だ。嫌
だが行くしか他にない。

「分かりました。ありがとうございます、貴彦様」

 にっこりと微笑みかけると、顔を赤くしながら花のような笑顔が返ってく
る。

(かーわいーい)

 機嫌良く走り出した紬の背中に、大きな父の声がかかる。

「紬、もう遅刻するなよぉ!」
「え? う、あ、はい!」

 そう言うことは、貴彦の前で言ってほしくなかったのに。

 暢気な紬の父は、武家に生まれたにも関わらずなぜか文官になった変
わり者だ。

(もう父さまったら)

 その無神経さに少し呆れながらも、口元は笑ってしまう。女に生まれた
紬が、侍になることを一番初めに認めてくれたのは父だ。そんな父に説得
されて、母は渋々首を縦に振ってくれた。児玉家の変わり者と呼ばれてい
る父だが、紬にとっては大好きな優しい父だ。

 父と同じ職場で働いている現状は、少し変な気分だが、お仕えする雪之
丞が父が勤務している綵に配属されてしまったのだから仕方がない。

 紬が向かう衛官士の番所は三階の最上階にある。それを始めて知った
時は、体力が有り余っている奴らは、上まで登って来いということだろうか
と思ったが、実際は訓練や調練に明け暮れている衛官士は余り番所内に
いないので、一番不便な場所を引き受けたようだ。

 階段を一段飛ばしで駆け上がり、朱色の格子戸を勢い良く開け放つ。

「児玉紬、遅れました!」
「遅いぞ」

 そう返事をしたのは、遅刻の原因を作った雪之丞本人だ。他の衛官士
は、もう番所を出てしまったようで、姿は見当たらない。

 衛官士の番所は独特の雰囲気で、限りなく黒に近い紫の床板は、極限
まで磨かれ陶磁器のような艶を放っている。両壁には、それぞれの衛官
士が得意とする武器が立てかけられ、その一番奥の上座に、雪之丞が正
座をしていた。
 赤みがかった紫色の障子は開かれ、雪之丞の背後には青空が広がっ
ている。

「さっそく今日の調練に、と言いたい所だが、今日は上から護衛の命を受
けた」
「護衛?」

 春のこの時期に偉い人の護衛をするようなイベントが、この町であった
だろうか。
 紬の疑問を読み取ったように、雪之丞は言葉を付け加える。

「護衛対象は、都より隠密でここにいらっしゃるそうだ」
「都から?」

「南里(みなみざと)と名乗っておられるが、おそらく偽名であろう。素性も
名も伏せられているが、偉い方に相違は無い。各衛官士は、町中でそれ
ぞれ担当する配置につくように命じてある。南里殿をお守りするのは、我
らの役目だ」
「はい」

 南里、確かに聞き覚えの無い名前だ。

「これはあくまで隠密行動だ。武装は最小限。武器は小刀までとする」

 軽度の戦仕度を整え、衛官士の番所で待っていると、声変わりのしてい
ない可愛らしい声が聞こえてくる。

「こちらです」

 とてとてと足音まで愛らしいその人は、もちろん貴彦だ。貴彦に連れられ
て現れた男を見て、紬は呆気に取られた。
 その人物を端的に言葉で表すと、若い、でかい、青白い、だ。

「おう、ここ?」

 男は馴れ馴れしい言葉で貴彦に話しかけている。

「はいそうです。あちらにおられるのが、葵地さん」
「おーう、あんたがあの」

 立ち上がった雪之丞は、男に向かって折り目正しく頭を下げる。

「葵地雪之丞です」
「ちーす、俺が南里だ。よろしくな」

 南里の身長は、長身の雪之丞よりさらに少し高い。毛先があちこちに跳
ねている黒髪は、無造作を装いつつとても洒落ているし、右側に小さく施
された三つ編みが個性的だ。原色の紫の着物の上に、襟元に白いファー
がついた情熱的な赤い羽織がとても良く似合っている。

 その中で、紬の目を引いたのは、南里の首元を飾る黒を金縁で彩った
喉輪(のどわ)だ。
 まるで首飾りのように着用しているが、喉輪は衛官士が身につける鎧の
一部だ。

(この人、もしかして衛官士?)

 一瞬そう思ったが、両腕にジャラジャラと付けられた装飾品を見て考え
直す。武器を振るための大切な腕に装飾品をつける衛官士など今まで見
たことが無い。
 それにこの肌の白さ。野外で活動することが多い衛官士には有り得な
い。 

 雪之丞の後ろで静かに分析していると、バチッと目が合う。

「で? この後ろのかわいこちゃんは誰?」
(かわいこちゃん!?)

 そのかわいこちゃんとやらを探して辺りを見回すと、南里は楽しそうに笑
う。

「君だよ君!」

 急に目の前に現れた白い顔に、紬は一歩後ずさる。

(近いっ!)
「何? 君が俺の世話でもしてくれんの?」

 南里が口元を緩めたとたんに、ざわりと胸が騒ぐ。

(な、なんだろう)

 説明の出来ない警戒心が沸き起こる。今まで向けられたことのない色を
含んだ視線に困惑してしまう。
 そんな南里の言葉に慌てたのは貴彦だ。

「えっと、その方は衛官士の児玉さんです。葵地衛官司令の補佐役でし
て」
「ふーん、いいねぇ児玉ちゃん! このちょっと野暮ったい所が逆に良
い!」

 褒めているのか貶されているのか。

「侍にも可愛い子がいたんだな」

 世の乙女といい、目の前の失礼な男といい、いったい侍を何だと思って
いるのか。南里は、紬を上から下まで眺めた後に、自然な仕草で太ももを
触る。

「……え? え!?」

 南里が、触ることが当然のような顔をしていたせいで、触られた紬自
身、一瞬何をされたのか分からなかった。
 紬の反応に満足げに頷きながら、南里は力説する。

「この初々しい戸惑い、そして、僅かにチラつく太ももの絶対領域がまたい
い! エロすぎず、狙い過ぎないこの空間はまさに芸術。こういうチラ見せ
に俺はドキッとする」

 南里の真剣な表情を見て、紬は遠い目をしながら僅かに口端を上げ
る。

(ああ、これが世に聞くセクハラか……)

 雪之丞が無意識変態だとすれば、南里は確信犯だ。こういう輩が現れ
るのも、きっと最近の温かい気候のせいだろう。

「児玉ちゃんは、なんでそこだけ出してんの? 俺へのサービス?」

 無遠慮な物言いに貴彦だけが慌てている。

「み、南里さん、お止めください」
「え? なんで? 貴彦はこういうのにドキッと来ねぇ?」
「うえぇ? ぼ、僕には分かりませーん」

 顔を真っ赤にしつつ、半泣きになっている貴彦をかばうように紬は前に
出た。

「これは、鎧着用時に蒸れないために一部肌を出しています」
「ふーん、そう。何でもいいけど、児玉ちゃんの絶対領域は保護区域とし
て今後も皆で守っていこうぜ」

 バチコンとウインクを飛ばされ、無意識に壁に立てかけられている愛用
の刀に視線が行く。

(いやいや、これから護衛する人を切ってどうするのよ)

 例えふざけたセクハラ変態でも、相手は護衛対象だ。
 雪之丞はというと、穏やかに微笑みながら「南里殿は楽しい方だ」などと
言っている。

「お、雪之丞君は分かってるねぇ。君とは仲良くなれそうだ」
「有り難きお言葉」

 二人の間でガッチリと熱い握手が交わされる。

(これがのちに語られる変態同盟が結ばれた瞬間である)

 そんなナレーションを勝手につけつつ、紬は冷めた目で種類の違う二人
の変態を眺めるのだった。




つづく



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