いったいどれくらいの時間が経ったのか、この部屋には窓も時計もないので、時間が分から ない。気がつけば、泣き疲れてベッドで眠ってしまっていた。他人の気配がしない静かな室内 に、波の音だけが聞こえてくる。 (どうなるんだろう、これから) 王城で過ごしていたお姫様のような暮らしが嘘のようだ。それどころか、元の世界のありふれ た生活こそが、今となっては夢だったように感じてしまう。いや、むしろ誘拐された今こそが夢 の中なのか。 ここには、咲が泣いているからといって、慰めてくれる人も、優しく抱きしめてくれる人もいな い。自分自身で、ぎゅっと身体を抱くと、カサリと小さな音がする。 ズボンのポケット中に何かが入っているようだ。指で探ると紙にふれる。 (なんだろう?) 取り出すと、今朝方、賢者に怒られながら渡された手紙。受け取って、無意識にポケットに入 れていたようだ。 それは、王からの手紙。 そこにはびっしりと文字が書かれている。おはようから始まり、黒獣と出会えてどれほど嬉し かったかという感想。そして、君を起こしたくないと言う気遣いから、自分は仕事に行くという報 告。最後には、愛の言葉が綴られている。 それは、他人からもらうと、ストーカーじみている恐怖の手紙。 (王様……) もらったときは、あんなに怖かったのに、今はその言葉のひとつひとつが温かい。嬉しそうな 王の笑顔が頭をよぎり、こんなときなのにかすかに笑顔が浮かぶ。 (王様) いつの間に、この手紙は、感激してしまうようなラブレターへと変わってしまったのだろうか。 今ならはっきりと分かる。 (私、本当に王様が好きなんだ) 王のそばにいてあげたいし、自分も王のそばに居たい。 「帰らなきゃ……」 きっと王は泣いている。 「早く帰らないと」 あの人は、とても寂しがりやだから。 咲が王を思うその頃、王城の大広間には、兵士が慌しく駆け込んできた。 「城内のどこにも黒獣はおりません! 政総部の報告どおり、海洋商船団に拉致された可能性 が高いと思われます!」 玉座を中心とし、左右に座る大臣達は、一様にざわめく。そのざわめきは、王が片手を上げ るとピタリと収まる。 「今は、会議中だよ」 「しかし、陛下! 黒獣誘拐とあっては黙っておれませんぞ!」 「海洋商船団は、この砂漠で一、二位を争う貿易船。関係を失う訳には……」 好き勝手吼える大臣達。王はその瞳を閉じると、ゆっくりと立ち上がる。 「陛下、どちらへ!?」 「休憩するよ」 サラサラと金色の髪と、王がまとう布が後ろへと流れていく。 「こんな時に!?」 「こんな時だからだよ。黒獣誘拐の情報は少ないし、会議は全く進まない。皆、少し頭を冷や せ」 シンと静まり帰った広間を、王は優雅に後にする。 もうこらえることが出来ない。誰も後をついてきていないことを確認し、両手で顔を覆う。 (……咲) 大臣の言うとおり、海洋商船団との貿易を完全に断ち切ることは国にとっての損害だ。今、 求められることは、速やかな交渉と、国の利益を一番に考えた取引。 (そんなこと、分かっている。それでも、私は商船団を許せない) 過去に黒獣と通じた男の首を跳ねた王がいた。その話を知ったときは、そんな愚直な行動が どうして出来るのか、不思議で仕方なかった。しかし、今なら分かる。 苦しい悔しい悲しい、そして狂おしい。 (咲、無事でいて) 涙が止まらない。ここには黒獣がいないのに、溢れ出す感情が止められない。 (私はもう王じゃない) 咲がいないこの国で、完全なる王を演じることなど出来はしない。商船団と国の利益を第一と 考えた取引を出来る気がしない。咲を助けたいと思った時点で、自分はもう王ではない。 (王になど、なれない……) 咲という存在を失った薄暗い部屋の中で、王でなくなった男は一人静かに涙を流した。 その背中に決して優しくない声がかけられる。 「だから、早く契約しろと言ったのだ」 「賢者……」 相変わらずフードを深くかぶり、その表情は分からない。賢者が顔を隠すようになったのは、 いつからだったろうか。 「お前はさっさと契約をすれば良かったのだ」 「でも、咲は嫌がっていた」 王と黒獣の契約は、身体を重ねることだ。そうすれば、黒獣は王から離れなくなると言われて いる。 「咲にはずっとそばにいて欲しいけど、咲の嫌がることなんてしたくない」 「その結果がこれか?」 そう言われてしまうと何も言い返せない。 「咲は元からこの国のことを嫌がっていた。もう戻っては来ないぞ」 「そうかも、しれない……」 それでも、少しずつこの国を、そして王自身のことを好きになってもらおうと思い、その努力は してきた。 「でも、そうじゃないかもしれない」 賢者は軽くため息をつく。 「まったく、王族のその自信はいったいどこから来るのだ」 「自信じゃない」 何の確信もない。 「ただ、そう信じたいだけ」 賢者の唇が、微かに震える。 「……王族は馬鹿ばかりだ」 「うん」 馬鹿でいい。馬鹿でないと愛した人すら信じられないというのなら、自分は馬鹿のままでい い。 「前王もそう思っていただろうか?」 前王が亡くなってから、賢者がその話題を口にしたのはこれが始めてだ。 「うん」 前王は、いなくなってしまった黒獣が、自分の元に帰ってくることをずっと信じていた。 「信じていたよ」 王族は本当に馬鹿な生き物だ。 その部屋は、巨大な船を動かしている動力室なのか、たくさんの機材が並び、壁に天井にと パイプが網の目のように巡っている。ゴゥンゴゥンと一定の間隔で辺りに響く機械音。 そんな商船団の船の一室に、二人の男が紛れ込んでいた。 「あーちくしょう、マジでいてぇ」 瑞垣が左腕を振ると、ポタポタと赤い液体が床を汚してゆく。 「部長、余り無茶しないでください」 前からすごい人だとは思っていたが、谷口は今日ほど瑞垣の行動に呆気に取られたことは ない。 谷口が港にたどり着いたときには、碇をあげ、帆を張った船は、すでに動き出していた。谷口 が僅かに行動をためらったその時、むくりと人が起き上がる。 「部長!?」 なぜかひどく痛そうに腰辺りを押さえている。 「谷口か、話は後だ。乗り込むぞ」 そう言ったが最後、瑞垣はゆっくりと動く船へとまっすぐ走っていく。 (どうする気なんだ?) 不思議に思いながらも追随すると、瑞垣は、船の後ろの方にある、小さな取手に右手をかけ た。そして、取っ手を手にしたまま、船の側面を蹴り上げ、その反動を利用して、船体を殴りつ ける。 ゴォン 木製の船だが、その扉の向こうは金属のようだ。鈍い音がしただけで、穴は開かないし、もち ろん船を止めることは出来ない。それでも瑞垣は、同じ行動を繰り返す。 「無理です、部長!」 谷口が言うとおり、無謀の行動だった。しかし、その無茶な行動の結果、パカリと船の一部が 外へと開く。 「おおっ!?」 開いたことを瑞垣自身も驚いている。しかし、それでも、扉の取手を手放さず、砂に引きずら れながら叫んだ。 「乗り込め、谷口」 「は!」 谷口は船と並走すると、申し訳ないと思いつつ、瑞垣の背を踏み台にして跳躍する。 「だぁ!? 誰が踏んでいいっつったぁ!?」 引きづられながらも文句を言う瑞垣に手を伸ばし、船内へと引き上げる。黒いスーツが前半 分だけ砂で真っ白に汚れている。背中には、くっきりと谷口がつけた足跡が着いていたので、 さりげなく手で払っておく。 見れば、船の扉の鍵がひしゃげて壊れていた。 (この人、無茶苦茶だ) ただ、瑞垣の指揮下に入ると、何でも出来そうな気がしてくるのも事実。瑞垣は、なるべくし て、政総部の部長になっている。 「さーてと、海賊退治と行きますかぁ!」 たった二人しか味方はいないが、負ける気がしない。 一方その頃、咲は、どこにも味方はいないが、少しも引き下がる気がなかった。 穏やかに微笑むギインの瞳の奥に冷たい光がよぎる。 「では、何があってもあの国に戻るということですか?」 「はい」 傷ついた顔をするカナを見て、ぎゅっと胸が痛くなる。 「カナちゃんごめんね。私が泣いてばかりで、何もしなかったから……」 カナは少しも悪くない。悪いのは、嘆くばかりで何もしなかったあの頃の自分。 「何か勘違いしていませんか?」 ギインはにこにこ笑っている。 「カナは関係ないと言ったはずですよ。貴女を誘拐することは、正当な取引です。帰りたいと言 って、帰れるはずがないでしょう?」 「そんな……」 他国でも珍しいその黒髪にギインの指がふれる。 「黒獣は、いったいいくらで取引されるのでしょうか?」 ギインの言葉に、咲の顔からサァと血の気が引いていく。青い刺青が舞う顔が近づき、にっこ りと笑顔を作る。 「興味ありませんか?」 海賊。その二文字が咲の頭をよぎった瞬間。 「アホか!」 カナに力いっぱい突き飛ばされ、ギインは笑いながらよろめいた。 「絶対嘘や! 自分、そんなん、めっちゃ嫌いやん! 咲ちゃんをいじめんといて!」 咲を守るように両手を広げるカナ。 ギインは楽しそうに笑っている。 「ごめんごめん、カナがいじめられて悲しそうだったから、つい仕返しをしてしまったよ」 「カナはいじめられてない! カナ自身がしたことを後悔してただけや!」 くるりと咲を振り返ると、カナは深く頭を下げる。 「咲ちゃんごめん! カナは咲ちゃんにずっと笑っていて欲しかってん。あのお城から出たら、 笑ってくれるかなって思ってん……」 しかし、咲は笑ってくれない。今もとても悲しそうな顔をしている。 「勝手に咲ちゃんの幸せを決めてごめん」 相手の意見も聞かずに、こうしたら喜んでくれると決め付けるなんて、咲を自分たちの都合で 黒獣と呼ぶ人たちといったい何が違うのか。 咲は、困ったように微笑むと、ぎゅっと抱きしめてくれる。 「カナちゃん、ごめんね」 「ごめん……咲ちゃんごめん……」 二人で抱きしめあった後、にっこりと微笑む。 「仲直り、しよっか」 「うん!」 その光景を見たギインは、穏やかな笑顔で拍手をしている。 「仲直りをしたということで、咲様には、カナの友情得点でヒントを差し上げましょう」 「ヒント?」 ギインは、人差し指を顔の前に立てる。 「私どもは商人です」 「咲ちゃん、商人は損得勘定で動くねん! 咲ちゃんがしたいことがあったら、ギインに得にな ることをしたらええ! 商人を動かすのは取引や!」 咲の手を取り、嬉しそうなカナ。 「こらこら、カナ。それじゃあ、ヒントにならないよ」 ギインのことを知れば知るほど、良い人なのか、悪い人なのか分からなくなってくる。 (取引と言われても、お金なんてもってないし……) 少しの雑音と共に、カチリと船の音信機能のスイッチが入る。 『船長! 船内に敵が!』 その声はブツンッとそこで切れてしまう。 『あーあー。なるほどな、うちでいう所の館内放送というやつか』 その声には、聞き覚えがあった。 「え? 瑞垣さん!?」 ギインとカナが顔を見合わせている。 『勝手に邪魔させてもらってるぜ。咲いるか? いるんだろう? 俺たちが助けてやるから、まぁ 安心しな』 瑞垣の言葉にほっとしたのもつかの間。 『ちなみに海賊どもには、今後一切ふざけたマネができないように、首に縄付けて全員ひっ捕 らえてやるから覚悟しろ!』 噛み付くような宣言に、咲の顔は青くなる。 (どうしよう、助けて欲しいけど、このままだったら、カナちゃんもギインさんも捕まっちゃう!) ギインは焦る様子も見せず、ゆっくりと立ち上がる。 「どこに行くんですか?」 咲の問いににこりと笑う。 「ああ、甲板にですよ。このまま部屋にいても仕方ないでしょう? 部屋の中で暴れられると、 私が困りますから」 「そんな見つかってしまいますよ!」 「良いですよ、見つかって」 ギインは、カナにおいでおいでと手招きをする。 「私たちも伊達や酔狂で商人をしておりません。ましてや海賊と呼ばれるような行為には、必ず 報いがあるでしょう」 「だったらどうして!」 「私は私のしたいことをしますよ。例え周りにどう思われようとかまわない。したいことをしない 人生なんて、楽しくないでしょう?」 「行ったら捕まっちゃうんですよ! カナちゃんを巻き込んでいいの!?」 ギインの青い刺青は、こんな時にまでとても美しい。 「捕まりませんよ。まぁ、貴女次第ですが」 そう言い残し、二人は本当に部屋から出て行ってしまう。 「わ、私次第?」 何の力も持たない、こんな無力な子どもにいったい何が出来るのか。 いつか聞いた王の言葉が頭をよぎる。 『咲はどうしたいの?』 (王様の元に帰りたい! カナちゃんを助けたい!) 矛盾した二つの願い。何がしたいかは分かったが、とても出来るとは思えない。 『私は覚悟をしているよ。何が起こっても己が選んだ道だと、誰のせいにもしない覚悟』 そんな王をカッコイイと思った。 (覚悟……) いつか、自分もそんな風になれればいいなと思った。 (それが、今?) 今、覚悟を決めないと、きっと一生後悔してしまう。 それは、出来ないと分かっていることを、やろうとする強い意志。 「王様、私、頑張ってみる」 この世界に、帰りたい場所が出来た。守りたい友達が出来たのだ。これを話すときっと王は 喜んでくれる。 『大丈夫、黒獣は自由だから』 「……うん」 自由なのだ。何でも出来る。全ては自分次第。 つづく 次へ 「王の獣」TOPへ |