人間という生き物は、瞬間的な恐怖には耐えられるが、いつ終わるか分からない恐怖には、
なかなか耐えることができない。肉体より精神の方が先にまいってしまう。どれほど屈強な戦士
でも、心の奥底まで鍛えることは難しい。

 殺気をこめて、刃を首元にあてる。谷口がしたことはただそれだけだ。たったそれだけの行
為で、男の心は恐怖で凍りつく。

「ほら、怖いでしょう?」

 隣に立っている藤井が、壁に追い詰められ、刀を突きつけられている男に語りかけている。

「さっきは峰打ちだったけど、今度はばっさりいきますよ! ほら見て、谷口課長のこの目! 
本気すぎ!!」

 藤井が尋問すると、妙にノリが軽くなるのは気のせいか。

「はいはい、だんまりはやめて! 誰に頼まれた?」
「し、知らねぇ!」

 藤井は、にこりと爽やかに笑う。

「課長、こいつは斬って、別のやつに聞きましょう!」

 場違いな明るい声に、男は今にも泣き出してしまいそうだ。

「うわぁああ!? ほ、本当に詳しいことは知らねぇんだ! く、黒スーツと、黒縁眼鏡をかけた
連中を倒したら、莫大な金をくれるっていう依頼が出回っているんだよ! でも、一緒にいる女
には絶対手を出すなって!」

 一瞬視線を交わすと、藤井は、男の鳩尾を刀の柄で打ち付ける。鈍い音と共に、うめき声を
上げ、男はその場に倒れた。

「課長、これ、ちょっとやばくないですか?」

 今言った男の言うことが本当だった場合、やはり目的は咲のようだ。大金をちらつかせ、ごろ
つきを雇い、政総部の視線をそちらに持っていく。それは、政総部を、黒獣の警備から外そうと
していたのではないか。
 そして、今、咲のそばにいるはずの自分達がここにいる。

「藤井、王城に向かうぞ」

 とても嫌な予感がする。
 裏路地から、大通りへと駆け抜ける。その途中に、見知った顔に出会う。

「カナちゃん!?」

 藤井の声に、カナは驚いたようだ。カナの後ろでは、不審な男たちが、台車を引いている。

「おっちゃん達、慌ててどうしたん?」
「んーうん、話せば長くなるから、今は言えない。それより、カナちゃんはどうしたの? それ
何?」

 藤井の質問に、カナはにこりと笑う。

「ああ、これ? 咲ちゃんのいらん服。商船団で買いとってん」
「咲様は部屋にいるのか?」

 谷口の質問にカナはきょとんとする。

「おるよ? 今、会って来たもん。何か用事あんの?」

 その言葉で、藤井が走り出す。

「行きましょう、課長!」
「いや待て、その箱の中を確認させてもらおう」

 箱の中には衣類以外何もない。二重構造になっているその箱の隠れた板の下に、咲は横た
わっている。

(ばれるはずがない)

 カナの思ったとおり、谷口は何も見つけることが出来ない。現行犯でもないのに、警備課に、
証拠がない人を処断する権利はもちろんのこと、捕まえる権利さえもない。そんな無茶なことを
出来るのは、黒獣警備中だけだ。
 再び、歩き出したカナたち。谷口の横を通った瞬間。谷口は、カナの腕をつかんだ。

「何!?」

 驚くカナに谷口は、淡々と質問をする。

「どうして、腕が震えている?」

 カナの目が大きく見開いた瞬間に、台車を引いていた男が、谷口の腕を目掛けて高く足を振
り上げた。
 谷口は、カナの腕を離し一歩後ろに飛ぶと、素早く刀を抜く。

「藤井!」
「はい!」

 抜刀しながら、かけ戻って来た藤井は、低く構え、男に斬りかかる。

「うおっとぉ!?」

 身体を捻ってかわす男。目がいい。今まで相手にしてきたごろつき連中とは格が違うようだ。
もう一人の仲間の男は、台車を押しながら叫ぶ。

「馬鹿野郎! そんなやつら相手にすんな! 警備課になんて勝てるかよ!」

 男は、素早くカナを台車に放り込むと、思いっきり走り出す。

「逃がすか!」

 台車を追おうとする藤井の背に男の蹴りが舞う。谷口が、その足に斬りつけると、硬い感触と
共に、キィンと金属音がする。

「いてぇ!?」

 そう叫んだが、男の足は斬れていない。斬った男のズボンの下には、鉄の具足が見えてい
る。

「だからやめろって!」

 台車を押しながら男が叫ぶ。具足の男は、こちらに背を向けると、台車に向かって全速力で
走り出す。

「まずい!」

 この大通りは、緩やかな坂になっているのだ。勢いがついた台車に二人の男が飛び乗る。
 ガラガラと音を立てながら、どんどん速度を上げてゆく台車。もう人の足では追いつくことが
出来ない。

「藤井、政総部に連絡しろ!」
「課長は!?」
「後を追う!」

 しだいに小さくなってゆく人影。しかし、見失うことはない。この大通りをまっすぐ行けば、港に
出るのだ。




 まだ、人通りもまばらな港。商船団の大きな船を見上げると、その後ろには透き通った青空
が広がっている。
 爽やかな青空の下、小太りの気の良さそうな中年男性が、いかにも強面のいかつい男にか
らまれていた。

「だーかーらー、どうして急に出航すんだよ!?」
「そ、そう言われましても……」

 頬の肉をプルプルさせながら、恐縮する小太りの男を見て、瑞垣はさらにイライラする。

「ギインを呼べ、ギインを!」

 襟首をつかむと、男は顔を強張らせ、ぎゅっと目をつぶる。

「ですから、せ、船長は今、取り込み中ですぅう!」
「いいから呼べってつってんだろう!?」

 とっとと殴ってしまいたいところだが、相手が手を出してこない以上、こちらから暴力をふるう
訳にはいかない。いくら商船団が怪しいとはいえ、証拠もないのに取り調べる権利など、政総
部は持っていない。
 ガタガタと震える男は、うっすらと目を開けると、瑞垣の後ろを指差す。

「あ!」
「バカヤロウー! そんな古典的な手にひっかかっ」

 ガツッと盛大な音がしたかと思うと、瑞垣の背中に重い衝撃が走り、身体が宙に浮く。

「ぐはっ!」

 急に突撃してきた台車に瑞垣が吹っ飛ばされ、レンガに突っ伏すすぐ横で、するりと逃げた
男が脂汗をかいている。

「あ、危ないじゃないですかぁ!?」

 台車から二人の男が飛び降りた。

「わりぃわりぃ!」
「任務達成したけど、バレて追われているんだ! おっさんも早く船に乗れ!」

 帽子を投げ飛ばした男たちは、まったく同じ顔をしていた。呼吸のあった動きで、船から垂れ
下がったロープに台車をくくりつけて、引っ張りあげてもらう。それを確認すると双子の一人が
カナを背負い、勢い良くはしごを張り始める。その後を追い小太りの男も慌てて乗船する。甲
板に上がるとギインが暢気に砂漠を眺めていた。

「船長、大変だ!」
「バレた! 警備課に追われている!」

 ようやくはしごを上り切った男も、息を荒くしながら報告する。

「船長大変ですよ! こいつら、政総部のお偉いさんを台車で跳ね飛ばしました!」

 報告を聞いても、ギインの表情は相変わらず穏やかだ。穏やかなまま、にっこりと微笑む。

「では、逃げようか」
「「出航ー!!!」」

 双子が同じ声で、同じように叫ぶ。
 そのひと言で船員達が一斉に動き出し、眠っていた船が目を覚ます。白い帆が広がり、風を
受けると全身をきしませ、ゆっくりと動き出す。砂漠の海にさえ出てしまえば、もう誰もこの船に
追いつけない。
 カナは、甲板に佇みうつむいている。

「カナ」

 ギインが優しく呼びかけても顔をあげない。ギインは膝をつき、カナの顔を覗き込む。

「今日は、泣いてないね」
「……うん」

 カナなりに、今回の件を、この小さな身体と、純粋な心で、必死に受け止めようとしているの
だろう。

「咲ちゃんに会ってくる」

 ギインに背を向け走り出す。
 カナはこれからもっと学んでいくだろう。世界のこと、国のこと、周りの人々のこと、そして友達
のこと。その成長を見るのは、ギインの楽しみの一つでもある。

「さてと」

 今回の依頼は、若い頃に少しの間だけ、共に砂漠を航海したことがある男からのものだ。
聡明で、才知溢れる優秀な政治家。ただ、本当に欲しいものだけが手に入らず、冷めた目で
笑う友。

「今回は、君の望む通りになるかな」

 まるで深い闇を覗き込んできたかのような瞳を思い出し、ギインは懐かしい余韻と共に、砂漠
の風に身を任せた。




 気がつけば、咲は見知らぬ場所にいた。どこかの倉庫のようで、天井には裸の電球がぶら
下がっている。

(えっと、何がどうなって……?)

 自分は床に寝転がっているようで、頭がひどく痛く、まだ少し意識が朦朧とする。

(そうだ、カナちゃん……)

 確かカナが部屋に服を取りに来てくれたのだ。起き上がると、ズキリと頭が痛んだが、じっと
していると、それも次第に収まってゆく。
 改めて辺りを見回すと、そばには見覚えのある台車と箱が転がり、咲は大きな袋の上に座っ
ている。

(この台車と箱、確か商船団の人が持ってきたもの?)

 倉庫の扉に手をかけると、あっさり扉は開いた。どうやら閉じ込める気はないようだ。
恐る恐る外に出ると、ばったりカナと出会う。

「カナちゃん!」

 駆け寄り、身体をさわる。

「大丈夫? どこも怪我してない!?」

 カナは、驚いた様子でこくこくと頷く。

「良かったぁ! ぜんぜん状況が分からないから良くないんだけど、とにかくカナちゃんが無事
で良かった」

 笑いかけると、カナは泣きたいのか笑いたいのか分からない、複雑な表情を浮かべる。

「咲ちゃん、ここ、船の中やねん」
「え? もしかして、ギインさんの船?」
「うん……」

 今まで見たことのない暗い表情のカナ。何か問題があったのだろうか。

「そうなの? えっとちょっと困ったね。私、今、外出が禁止されているから、勝手に出てきたら
賢者さんに怒られちゃうかも」

 そのとたんにカナの顔は青ざめる。

「咲ちゃん、お城に帰るの?」

 どうしてカナはそんなことを聞くのだろう。

「うん、だって、この世界で私の帰るところはあそこしかないから」
「でも、咲ちゃん泣いてたやん! 嫌やって言ってたやん」
「うん、すっごく嫌」

 とても怖い世界なのだ。この前も、ナイフをもった男達に襲われそうになった。

「だったら帰らんくていいやん! ずっとここにおったらいいし」

 今日のカナは何だかおかしい。

「でも、帰らないと……」

 急に、咲の視界に目が覚めるような青色が飛び込んでくる。カナの後ろにギインが優しい微
笑を浮かべて佇んでいる。

「帰れませんよ」
「え?」

 作りこまれた綺麗な微笑み。

「ようこそ、海洋商船団へ」

 状況が飲み込めないまま、ギインの部屋へと案内される。

「……誘拐?」

 ギインの口から出てきた現実味のない言葉を、咲はただ繰り返すことしか出来ない。

「そんな、困ります」

 とたんに、カナの目に涙が溢れる。

「咲ちゃん、ごめん、カナのせいで……」
「え? カナちゃんのせいじゃないよ!? え? カナちゃんのせいなの?」

 下唇をぐっと噛み、それきりカナは黙り込んでしまう。ただ自分を責めるような泣き声だけが
聞こえる。ギインがカナの頭に手を乗せると、カナはぎゅっと抱きつき、ギインの身体に顔を押
し付けた。

「カナのせいではありません。黒獣を誘拐して欲しいという依頼があり、それを私がお受けしま
した」

 首を振り、泣き続けるカナ。

「違う、カナが咲ちゃんを助けたかってん! だって、あの国おかしいもん! 咲ちゃん、泣かす
ねんもん!」

 うわーんと幼い子どものように泣き出した姿を見て、咲まで涙が浮かんでくる。

「カナちゃん……」

 確かにおかしな世界だが、あれから少しずつ分かり始めたこともある。咲が歩み寄ることに
よって、変わってきたこともある。

「私、これからどうなるんですか?」

 先ほどから、ザーザーと音がしているのだ。それは、まるで浜にうち寄る波の音。船はずっと
動き続けている。本当に海賊と称される船に誘拐されてしまったようだ。

「ひ、ひどい目にあう……とか?」
「そんなん絶対ない!」

 カナは泣きながら訴える。しかし、ギインは否定しない。

「貴女次第ですよ」

 まただ。この世界に来てから、誰もこうすればいいよと言ってくれなくなった。咲自身がどうす
るか、どうしたかに全てはかかってくる。

「元の場所には……」
「戻れません。このままあの国に戻ると私どもは全員打ち首です」

 黒獣を誘拐したのだ。それは確実だろう。
 この世界で始めて友達になってくれたカナ。一緒にボードゲームをして遊んだギイン。そんな
人たちが処刑される姿なんて見たくない。

(だったら、このまま……)

 ズキリと激しく胸が痛み、その先を考えられない。頭では、このままカナやギインと一緒に行く
しかないと分かっていても、身体がそれを拒絶する。

「少し一人にしてください……」

 どうしたらいいのか分からない。
 ギインが与えてくれた部屋は、来客用なのか、とても清潔感があった。簡易的なベッドの白い
シーツには糊が効いていて、枕はとても硬い。丸い枠がついた扉の向こうにはトイレがあるよう
だ。硬いベッドに腰を降ろすと、不安でそのまま潰れてしまいそうになる。

(怖い……)

 いったいこれから自分はこれからどうなってしまうのか。考えただけで震えが止まらない。

(怖いよ、誰か助けてよ!)

 もう誰もそばにいない。警備課も、この世界のことを教えてくれる賢者も、愛していると囁いて
くれる王も。
 こんなことになって初めて、自分が今までどれほどの人に守られて生きてきたか理解する。

(どうして私がこんな目に?)

 ギインを、そしてカナを恨んでしまいそうだ。その思いと同時に、泣きじゃくるカナが頭をよぎ
る。

(カナちゃん、泣いてた……)

 とても苦しそうに。

(私が泣きながら、カナちゃんにつらいって言ったから、カナちゃんは、一生懸命助けてくれよう
としたんだ)

 咲より幼いカナですら、自分で悩んで選び、そして覚悟を決めたのだ。

(それなのに、私は何をしているの? 何がしたいの?)

 本当に分からないのだ。ただ決められたルールに従いなんとなく生きてきた咲には、何も決
められない。そんな自分が情けなくて、涙が溢れた。




つづく



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