日が暮れて、カナが帰ってしまった部屋は、色を失っている。
 時計を見ると、もうそろそろ王が帰ってくる時間だ。昨日のことを思うと、どんな顔をして会え
ばいいのか分からない。
 ガタッと扉の方から音がする。誰か来たのかと思い近寄ると、「咲、開けて」と王の声がする。

「は、はい!」

 慌てて扉を開けると、王は両手一杯に本を抱えていた。それをテーブルの上に置いて、ふぅと
ため息をつく。

「本って意外と重いんだね。知らなかった」
「この本は?」

 急に本を持ち込むなんて、いったいどうしたのだろうか。王は、にこりと微笑むと、「賢者のと
ころから持ってきた」と告げる。

「咲は昨日、私のせいで泣いていると言ったね」

 ズキリと胸が痛む。本当は、王が悪いのではない。つらいこの世界から逃げ出してしまいた
いだけだ。

「あれから私は、ずっと考えたよ。どうしたら、咲がここにいてくれるのか。どうしたら、咲が私の
側で笑ってくれるのか」

 王は黒い表紙に金色の縁が入った分厚い本をめくる。

「政総部から報告が入っている。咲に害をなしたものが目の前で処断されたね? 咲はそれに
傷ついた? 怖かった?」

 宝石のような瞳が、咲を覗き込んでいる。
 脳裏をよぎる赤い光景に、傷ついたし、怖かったが、それより何より、この世界の異常性をは
っきりと認識してしまった。

「おかしいと思ったんです。この国も、この国の法律も」

 何より自分自身の存在が。

「だったら、変える」
「え?」

 王は散歩にでも行こうと言うくらい気楽に言う。

「黒獣法は黒獣のための法律だよ。黒獣が嫌だったら法律を変えればいい。公務に支障はき
たさない。私にはそれが出来るよ」

 だから、そばにいて欲しいと王は無言で訴えかけてくる。

「駄目です! そんなことをしたら、誰かに何か迷惑がかかるかもしれないじゃないですか!」

 この世界では、咲が決めたことで、人に迷惑がかかってしまうかもしれない。誰かが傷つくか
もしれないし、誰かの不利益になってしまうかも。
 王は、逃げようとした咲の腕をつかんだ。

「誰かって誰?」
「それは……」

「何かって、何?」

 優しく掴まれているはずなのに、そこには有無を言わせない意思の強さが現れている。

「私は、王になった瞬間から、自らの行動の全ての責任を取る覚悟をしているよ」
「覚悟?」

「そう。何が起こっても、己が選んだ道だと、誰のせいにもしない覚悟。咲はこの世界で、どうし
たいの?」

 親の言いつけをよく聞き、学校では先生に従い、決められた校則を守る。それは良いこと
だ。決して間違っている訳ではない。
 それでも今まで、自分のしたいこと、出来る事を考えたことがあっただろうか。どの部活に入
ろうか。どの係になろうか。そんな決められた中での選択肢ではない。
 目の前の王のように、自分で考え選び、誰のせいにもしない覚悟。

「そんなの、分からないよ……」

 王は少しためらった後に、そっと咲の額に唇をよせる。

「だったら、一緒に考えよう? 咲が何をしたいのか。どうしたら、笑ってくれるのか、私に教え
て欲しい」

 それはお願いなどという生易しいものではなく、懇願だった。咲に向けられる王の顔は、苦し
そうに歪んでいる。

「こんなに苦しそうなのに、王様は逃げたくならないんですか?」

 王は、困惑したように眉を下げる。

「今、苦しいからと言って逃げたら、大好きな咲がいなくなってしまうよ。咲がいなくなった後のこ
とを考えると、こんなこと、苦しいうちに入らない」

 その言葉にハッとなる。
 今、王と一緒にいると苦しいからといって、元の世界に帰ってしまうと、もう、二度と王に会え
ないかもしれない。王だけじゃない。賢者やカナ、政総部のみんなにも。
 それはとても寂しいことのような気がする。

(おかしな国だけど、人がおかしい訳じゃない)

 咲を傷つけようとした男を、切った谷口が悪いのではない。谷口は、法の中で最善の行動を
取ったまで。床に落ちた黒い髪を大切そうに拾った藤井がおかしいのではない。
 黒獣がこの国の宝だと、決められているからだ。それがこの国のルール。咲が校則に従うよ
うに、彼らはただ法律に従って生きている。

 いつもにこにこと笑顔を絶やさない、穏やかな王の顔には、今、苦悶の表情が浮かんでい
る。
 咲のせいで、こんなにも苦しそうなのに、それでも、つかんだ腕を離そうとはしない。

(王様はこんなにも私のために頑張ってくれている)

 だったら、自分も頑張ってみたらどうだろうか。何も出来ないかもしれないし、またすぐに帰り
たくなってしまうかもしれない。
 でも、何もせずに苦しいからといって、今帰ってしまうと、きっといつかそのことを後悔してしま
う。その後悔は、一生苦い思い出として付きまとうだろう。

(私のしたいこと)
 王が悲しむから帰れないとか、誰かが傷つくかもしれないから何も出来ないとか、そんなこと
は一切捨てて、一度、考えてみたらどうだろう。
 優しくつかむ王の手に、躊躇いがちに、そっと手を重ねてみる。思えば、自らの意思で、咲か
ら王に触れようと思ったのは、これが初めてかもしれない。

「頑張って……みます」

 王の顔に安堵の表情が浮かび、口元がほころぶ。

「私がこの世界でしたいことを見つけられるように」
「うん!」

 そのときの王の顔に浮かんだ表情は、まるで愛らしい子犬のような笑顔だ。
 子犬は、無邪気な笑顔で、分厚い表紙の本を手渡す。その本には、金色で「黒獣法」と書か
れていた。表紙をめくると、そこには難しい言葉の文字が規則正しく並んでいる。

「黒獣法は咲のための法律だから、一度読んでみて損はないと思うよ」

 言われてみれば、咲は黒獣法の中身がどんなものなのか知らなかった。




 レースのカーテン越しから、淡い光が差し込んでいる。いつの間に眠ってしまったのだろう
か。ベッドの上には、昨晩遅くまで格闘して、惨敗してしまった黒獣法の本が転がっている。

(私には、難しすぎるよ、この本……)

 起きるのが遅かったのか、王の姿はすでにない。
 咲の問題は何も解決していないのだが、昨日よりは清々しい気分になっている。窓から差し
込む優しい光が綺麗だなと思えるくらいに、心が落ち着いている。それは、きっと王の覚悟を
垣間見たからだろう。その姿を眩しいと感じた。

(少しだけカッコよかったかも。私もああいう風になれるかな?)

 まだ何をしたいのか分からないから、この世界を知ることから始めようと思う。そして、いきな
りつまずいてしまった。

(賢者さんに聞いてみようかな)

 前に黒獣の話を聞いた日以来、気まずくて顔を合わせていない。しかし、このままずっと会わ
ないわけにはいかない。
 勇気を出して、賢者の部屋に行くと、賢者は相変わらず定位置にいる。本を積み上げた机に
向かい、書物に埋もれてしまっている。

「賢者さん……」

 遠慮がちに声をかけると、「なんだ?」と、こちらに興味がなさそうな返事が返ってくる。

「あの、この前はすみませんでした。その、取り乱しちゃって」
「お前が謝る必要はない。お前の国では異常な光景だっただろう。受け入れろと言う方が難し
い。どうした? 何か用か?」

 賢者のいつも通りの無愛想な態度に、ホッと安心してしまう。

「私、あれから考えて、今はまだ帰らないことにしました。もっとこの世界のことを知ってからで
もいいんじゃないかって思って。全部、王様の受け売りなんですけど」
「そうか」

 そう呟いた賢者の口元が緩やかな曲線を描く。

「王のことは愛せそうか?」
「愛!?」

 急に振られた話に、咲の顔が赤くなる。

「あ、愛……かどうかは分かりませんけど、好きにはなっていっています。今は、そばにいたい
なって思えるくらい」
「王と契約をする気はないのか? 契約は、王のそばにいると誓う行為だ。王のそばにいても
いいと思ったのなら、契約をしたらいい」

 賢者は、深くかぶったフードの下から、まっすぐこちらを見つめている。

「でも……」

 契約をすると、賢者はどこかに行ってしまうらしい。確か、隠居暮らしがしたいというようなこと
を言っていた。

「賢者さんがいなくなるのは嫌です」

 また怒られると思いきや、賢者は「そうか」と呟いただけだった。

「用件はなんだ?」

 再度尋ねられて、慌てて、黒獣法のことを話す。

「この本が、難しすぎて分からないんです」

 賢者は、ペラペラと本をめくる。

「ふむ。これより簡単な本など、ここにはないぞ」
「ええ!?」

 それは、この部屋にある本全てが、これより難しいということだろうか。

「国益所に行って来い。あそこには、子供向けの本も置いてある」

 賢者は、おもむろに携帯電話を取り出す。

「警備課を呼ぶぞ」

 とたんに、あのむせ返るような匂いと赤い光景を思い出し吐き気がする。あの光景を作り出
した谷口と藤井に会うと思うと、身体がカタカタと震えだす。
 咲の血の気の引いた顔を見て、賢者は携帯電話を置く。

「やめるか?」
「……いいえ、大丈夫です。私、気がついたんです、この世界でおかしいのは法律であって、人
じゃないって」

 フンと鼻で笑い飛ばされてしまう。賢者にとっては、とてもつまらない発見なのかもしれない。

「聡いな」

 その皮肉な言いよう。賢者にほめられると、まったくほめられた気がしない。もう用は済んだ
とばかりに、シッシッと手で追い払われる。

 賢者に呼ばれ、咲の部屋に現れた黒スーツの男たちは、咲の前で深々と頭を下げた。
 相変わらずの黒縁メガネをかけている谷口。その表情は一見分からないが、藤井は何か覚
悟を決めたように、顔を強張らせている

「昨日の不手際、言い訳する気は毛頭もございません」

 谷口の硬い声を聞いて、身体が震えたが、それを無理やり押さえ込める。

(谷口さんが悪いんじゃない)

 切った谷口が悪いのではない。切って良いという法律がおかしいのだ。
 谷口はもちろん、藤井も黙り込み話そうとはしない。

「不本意ながら、咲様を危険な目にあわせてしまいました。警備課谷口、いかなる罰をも受け
る所存です」
「そんな、罰だなんて……」

「人を斬るからには、斬られる覚悟はしております。それは武器を持つ者としての、当然の責任
かと存じます」

 王の覚悟を知った今なら、谷口の言っていることが理解できるような気がする。この二人は、
黒獣を守るために人を殺す覚悟と、殺される覚悟をしている。
 二人がおかしいのではない。この国の警備課とは、そういう職業なのだ。
 王が王であることを誇りに思っているように、警備課もまたそれを誇りに思っているに違いな
い。だからこそ、昨日黒獣を守れなかったことに、責を負わされても仕方がないと思っている。

(覚悟と責任)

 それが分かれば、少しだけこの世界の異質さの正体が見えてくるような気がする。

「手を出してください」

 咲の脈絡のない要求に、二人は何の動揺も見せず、利き手を差し出す。

(もし私が今、この手を傷つけても、二人はきっと何も言わない)

 刀を持つ聞き手を傷つけられても仕方がないと思っているのだろう。重い覚悟と共に、差し出
された二人の手を、咲はぎゅっと握り締める。
 長く節だった指。大きなてのひらの皮膚は硬く、これが戦う人の手なのかと、なんとなく思う。

「咲さん?」

 沈黙に耐えられなくなったのか、藤井が硬い表情のまま尋ねてくる。藤井に、そんな深刻な顔
は似合わない。

「ありがとうございました」

 二人の手を握り、咲は深々と頭を下げる。

「この世界にも危ないことをする人がいるんですね」

 だからといって、その人を斬っていいはずはない。怖いし、嫌悪感はある。しかし、今のこの
感謝の気持ちにも嘘はない。

「守ってくださって、ありがとうございます」

 谷口の目が少しだけ和らぎ、無言の軽い会釈が返って来る。藤井はというと、左手で目元を
隠すように顔を背けている。

「ちょ、あれ? 自分、マジで今、ちょっと、泣けてきました」

 手の甲でゴシゴシと擦ると、赤くなってしまった目をこちらに向けてくる。

「谷口課長と話していたのです。咲さんは自分たちのこと、嫌いになったかもしれないって。そ
ばにいたのに危険な目に合わせてしまったし、その、目の前で一般人を処断したので。咲さん
は怒ってもいいんですよ? 黒獣法に則って、自分たちを罰してもいいんです。その覚悟はで
きています」

「そんなこと、したくありません。怖くないというと嘘になるけど……でも急に嫌いになんてなれま
せん。だって谷口さんも藤井さんも、私に優しくしてくれたから」

 藤井の瞳にうるっと涙が込み上げる。

「課長ー!」
「なんだ?」
「自分、咲さんの警護が出来て嬉しいです!」

 いつもなら「うるさい」と一蹴されているところだが、今日の谷口は違う。かすかに藤井に頷き
返す。

「貴女のような方の護衛が出来て私も光栄です。私たちが仕えるべき現王の黒獣が貴女で良
かった」

 咲が握り締めている手を、谷口が力強く握り返してくる。

「さぁ、今日はどこへ行きましょうか咲さん!」

 藤井の明るい笑顔を見ると、こちらまで明るい気持ちになってくる。

(あのまま帰らなくて良かった)

 帰ってしまっていたら、こんなに暖かい気持ちを知らないままだっただろう。
 谷口と藤井に、黒獣法の本のことを説明し、国益所に向かう。
 政総部の机はガランとして人気がなく、残った一人が電話の応対に当たっていた。それを見
て、藤井が「お疲れ様です!」と頭を下げる。

「政総部は出払っているみたいですね! 本を取り扱っているのは総務部ですよ。書庫は、日
浦部長の管轄です」

 日浦と聞いて、無意識に構えてしまう。しかし、今思えば、日浦は初めてこの国の異質さを咲
に教えてくれた人でもある。

(ちょっと、話を聞いてみたいかも)

 また怒られてしまうかもしれないが、この国のことや黒獣法に対する日浦の意見を聞いてみ
たい。

「本のことだけじゃなくて、少し日浦さんとお話したいんですけど、無理ですか?」

 総務部では、皆が忙しそうに仕事をしている。日浦もその中の一人だ。
 咲の言葉に、藤井は顔を青くし、谷口は困ったように少し眉をよせる。

「咲様のお気持ちは分かりますが、仕事中に話しかけると、彼はとても不機嫌になりますよ」
「うわ……谷口課長、もしかして、話しかけるつもりじゃ……」

「仕方がないだろう」
「う、そうですけど、機嫌が悪くなるどころの話じゃないですよ? 前に、総務部の連中が、仕事
中の日浦部長に冗談言ったら、コンパスを投げられて、真顔で殺すぞって言われたらしいです
よ! マジで危ないです!」

「尾ひれ背びれだ」
「だったら、いいですけど……」

 うだうだ言っていた藤井は、ふと咲の視線に気がつくと、慌てて笑顔を作る。

「大丈夫ですよ、咲さん! 怒り狂った日浦部長が襲い掛かってきても、この警備課の藤井が
身を呈してお守りしますから!」

 谷口は、部下の暴言に頭を抱えている。

「藤井、お前は、部長を何だと思っているんだ?」
「……すこぶる怖い人」

 あえて否定はしない谷口。ふと時計を確認する。

「もう少し待てば休憩時間になります」
「休憩?」
「そうですよーあの日浦部長ですら休憩するんですよ、びっくりですよね。あの方も人間だった
のです!」
「藤井」
「はいはい、すみません。日浦部長もお腹は減るようです。ちなみに、休憩の邪魔をすると、呪
われるという噂が立っています」
「藤井、うるさい」
「だって、あの総務部長ですよ!? 絶対咲さんにも容赦がないですって!」

 谷口は、何か言いたそうな視線を咲に向けてくる。日浦に話しかけてひどいことを言われる
心配をしてくれているのかもしれない。

「行きます。怒られてもいいです」

 容赦がない日浦だからこそ、聞いてみたいことがあるのだ。申し訳ないと思いながらも、咲は
総務部の日浦の机へと近づいていく。

「日浦さん」
「カウンターはあちらですが?」

 視線は、書類に向けられたままだ。言葉は丁寧だが、トゲが含まれている。

「あの、私、日浦さんの意見が聞きたくて」
「なぜ私なんですか? 貴女の周りには王や賢者がいるでしょう? かれらの頭脳はこの国の
最高峰ですよ」

 日浦の顔には笑顔が張り付いているのだが、その目は全く笑っていない。

(怖い……)

 しかし、そんなことは覚悟の上だ。

「それではダメなんです。えっと、公平じゃない……から?」

 日浦の顔から、不自然な笑みが消えて、観察するような視線に変わる。

「王様は私に甘いし、賢者さんも厳しく見えて実は優しくて。でも、私に優しい人の意見だけだと
駄目だと思うんです。日浦さんは、厳しいことも言ってくれるから、日浦さんの意見が聞きたくっ
て」

「それでは、私がまるで血も涙もない人間のように聞こえますが?」
「いえ、そう言うわけでは……すみません……」

 総務部の人が、遠慮がちにパイプ椅子を持ってきてくれた。日浦は顔をしかめたまま、咲に
席に座るように勧める。そこから少し離れた場所で、谷口と藤井が直立している。
 日浦の鋭い目が、まっすぐと咲を見ている。

「黒獣法って変えることが出来ますか?」

 それは、昨晩王が言った事だ。誰にも迷惑をかけず、そう出来たらいいなと思う。

「あの法律、おかしいです」

 日浦は、手元のファイルをめくりながら話す。

「王に近すぎるものが、政治に介入することは好ましくありません」
「でも、この法律は黒獣のためだけにあるんですよね? だったら、黒獣の私の意見が反映さ
れても良いと思うんです。例えば、黒獣に害をなした人への罰とかだけでも!」

 日浦はもう、あの口元だけの怖い笑顔を浮かべていない。

「黒獣法についてですが、過激に見えて、実は全てそれなりに理由があります。例えば、黒獣
に危害を加える者は再犯率が非常に高いことをご存知ですか? その場で殺らないと、殺られ
ますよ?」

 非現実な言葉だが、黒獣というだけで恨まれることは、もうすでに体験済みだ。

「黒獣は嫌われているんですか?」
「いいえ、何にでも反対する者はおります。王にしろ、国益所にしろ、恨む者は恨んでいます
よ。ただ、黒獣は王より無防備で、国益所員より利用価値がある。反乱分子にも、他国にも非
常に狙われやすいのです。それらの外敵から守るための黒獣法です」
「そう、なんですか……」

 外出のたびに、警備が付くのは、危ないことがあるかもしれないということ。

(そう簡単には変えられないよね)

 日浦は、ファイルを閉じ、書類を手に持つと立ち上がる。

「休憩時間です。お引取りください」
「あ! 日浦さん、国益所で、一番簡単な黒獣法の本を貸してくれませんか?」

 日浦は立ち止まる。

「お詫びしますよ。以前お会いしたときに、貴女の知能が足りないと言った事です。やはり、前
黒獣とは比べ物になりませんが、何かをしようと考え、それを実行するために学ぼうとする者に
は好感が持てます。本は、後ほど王城に届けさせましょう」

 そう言うと、日浦は今度こそ立ち去ってしまう。その後ろ姿を、藤井と総務部の人達が呆然と
見送る。

「え? あの日浦部長が他人を褒めた?」

 藤井の言葉にざわりと総務部が騒がしくなる。

「うーん、褒められているのかなぁ?」

 あの態度を見る限りそうとは思えない。
 無事に日浦から本を借りる約束を取り付け、のんびりと寄り道しながら歩く帰り道。咲が何気
なくふらりと入った細い通路でそれは起こった。
 急に藤井が刀を抜き放ち、谷口が咲の腕を引く。

「咲様お下がりください!」

 藤井の視線の先には、数人の男たちの姿があった。男たちは、一様に布を顔に巻きつけ、
手に持つナイフの刃が怪しい光を放っている。谷口は咲を背に隠すように刀を構える。
 一人の男がナイフを突き出し藤井に飛び掛った。藤井は、僅かな動きでそれを交わすと、男
の懐に深く入る。

「は!」

 研ぎ澄まされた掛け声と共に、下段の構えから、上へと刀が舞う。男の腕が切られ、ナイフが
地に落ちる。

「ぎゃあ!?」

 叫んだ男の背後から切りかかってきた別の男を、藤井は流れる動きで上段から袈裟切りに
する。仰向けに倒れてゆく男。

「ひぃ!」

 小さい悲鳴を残して、残りの二人は逃げてゆく。

「追います!」
「深追いはするな」
「はい!」

 走り去る藤井。谷口は、腕を押さえうずくまる男と、倒れた男の両腕と両足をロープで硬く結
び覆面をとった。
 その光景を咲は恐怖から少しも見ることが出来ない。耳を塞ぎ、目をつぶり、その場に座り
込んでいる。

「咲様、もう大丈夫です」

 谷口に声をかけられても、震えは止まらない。しばらくすると、藤井が駆け戻ってくる。

「逃がしました。他にも仲間がいたようで、追撃の邪魔をされました。申し訳ありません。えっと
……」

 未だ土気色の顔をしてガタガタと震えている咲。

「咲さん、大丈夫ですよ?」

 いやいやと首を振りこちらを見ようとしない咲に、二人は困ったように顔を見合わせる。

「あの、大丈夫です。斬っていませんから」

 藤井の言葉に、咲はようやく恐る恐る顔をあげる。言われてみれば、あのむせ返るような血
の匂いがしない。

「斬っていないんです。峰打ちって分かりますか? 刀の刃でない部分を使って、斬ったように
見せかけたり、気を失わせたりするんです」

 確認すると、確かに藤井に斬られたと思った男の腕は、ちゃんと身体についている。男たち
はぐったりしているが、血は出ていない。

「ど、どうして?」
「だって、咲さん、嫌でしょう?」

 藤井の言葉に谷口が僅かに頷く。

「私どもは、常に咲様と行動を共にさせていただいています。先ほど、日浦部長に黒獣法の処
断方法を改定したいと言っていましたね。それを聞き、警護対象に心的苦痛を与えるのは、避
けるべきかと考え、出来る限り殺さず相手を傷つけない方法を取りました」

「今回は、相手が弱かったから出来たことですけど。それにしても、咲さんを狙うなんて、不届
き千万! 本当は今すぐにでも斬り捨ててやりたいところです!」

 藤井はそう言い捨て、政総部に連絡するべく、公衆電話を探しにゆく。

(今、私が狙われたんだよね?)

 ナイフを持った複数の男たち。谷口と藤井がいなかったら、いったいどうなっていたのか。今
さらながらに足が震え、その場にぺたんと座り込んでしまう。

「咲様?」
「すみません、腰が、抜けて……」

 震えが収まるまでここに座っていよう。咲がそう思っていると、谷口はおもむろに背中を向け
る。

「どうぞ」
「どうぞって?」

 どうやら、背中に乗れと言っているらしい。

「王城までお送りします」

 咲の脳内で瞬時に、早くこの場から離れて帰りたい気持ちと、谷口に背負われる恥ずかしさ
が天秤にかけられる。その結果、多少の恥ずかしさは、この際我慢することにした。











つづく



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