目が覚めてもそこは異世界で、それが咲の現実だった。もう見慣れてしまった王城の一室。 美しい天蓋ベッドの上に自分がいる。そばには、フードを深くかぶった賢者の姿。 「大丈夫か?」 いつものように淡々としたその声に、今は答える元気はない。 目を閉じていなくても、目の前には先ほどの見慣れぬ赤がチラつくのだ。カラカラになった喉 を手で押さえると、賢者が水を差し出してくる。 「斬られました」 声が自分のものでないように震えている。そして、その言葉を口にしてようやく理解できた気 がする。目の前で人が斬り殺された。 寒くないはずなのに、身体の震えがとまらない。 「私の髪をひっぱったんです」 「なら、処断されるのはこの国では、正当な行為だ」 「ただ、引っ張られただけなんです」 「そういう国だ」 「痛かった……今も痛い」 小刻みに震える手でそっと自分の髪にふれると、ジクジクと何かを蝕んでゆくように頭皮が痛 む。力任せに乱暴につかまれた腕には、青い痣ができてしまっている。 でも、ただそれだけのことだ。たったそれだけのことで、人が死んだ。抜け落ちた髪に、いっ たいどれほどの価値があるというのか。 「おかしいよ……」 ベッドから起き上がると、止めようとする賢者を力任せに突き飛ばす。 「おかしいよ! 夢じゃない!」 「咲! どこに行く!?」 夢じゃないと分かっていたはずなのに、心のどこかでこの世界を楽しんでいた。みんなが優し くしてくれるから、お前は特別だよと可愛がってくれるから。 「咲! 深く考えるな!」 思えば、賢者はいつもそう言っていた。今になって思えば、わざと深く物事を考えさせないよう にしていたのかもしれない。 「だって、おかしいよ! 黒獣って、完璧な王様って? 何をしても許される、人を殺していい私 の存在って!?」 感情にまかせて暴れる咲の両腕を、賢者が掴み、力で押さえつけてくる。 「ああ、おかしいんだ! この国は狂っているんだ! それを受け入れろ! 夢だと思っていれ ばいい!」 「そんなの無理だよ!」 溢れる涙で、間近にいるはずの賢者の姿が良く見えない。 「なら、王を受け入れろ! 王のために生きるんだ!」 とたんに脳裏に浮かぶ無邪気な王の顔。そうすることが出来たら、どれほど楽か。しかし、 「はい」とは頷けない。 「王が嫌いか?」 賢者の問いに、震えながら首を振る。止まらない涙がポタポタと床に落ちてゆく。 「嫌いじゃないです、嫌いになんてなれない。でも、心が……心が痛いんです」 王と一緒にいると心が痛む。キリキリキリと何かが激しく締め付けてくる。 「帰りたい……」 一度、そう呟いてしまうと、もうこんな狂った世界に、一秒たりとも居たくない。 「帰りたいよぉ……」 全部忘れていいよと、全部夢だったんだよと、お願いだから、今すぐ誰か言ってほしい。 泣きじゃくる咲の声だけが、薄暗い室内に解けてたまり今にもあふれ出してしまいそうだ。 (本当なら、俺は、ここで優しい言葉をかけてやるべきなのかもしれない) そう思っていても、賢者の口から出てきた言葉は辛らつだ。 「黒獣は王のそばにいなければならない」 「もう、嫌です……」 「つらいからと言って王のそばを離れると、お前はよりつらくなる」 泣きじゃくる咲。しかし、その姿を決して可哀想とは思わない。 「王のそばを離れると、王は本当に死んでしまうぞ」 咲がいなくなったら、死んでしまうと言った王の言葉は、嘘でも冗談でもない。黒獣は、ないは ずの王の心なのだ。その心をなくした王は、いったいどう生きていくのか。 この国のためにも、賢者自身のためにも、いつでも元の世界に帰れてしまう自由な黒獣を、 大人しく返す訳にはいかない。 「前王は、とても身体が弱かった。しかし、それを感じさせないほど才気で溢れた名君だった。 だが、ある日、前王の黒獣がいなくなったのだ。どうなったと思う?」 この話を咲にする気はなかった。こんな話をしなくても、時間が立てば自然に王のことを愛し て、自ら望んでこの世界に残ってもらう予定だった。だが、こうなってしまっては仕方がない。 「王はその日の内に倒れたらしい。一週間後、ふらりと戻ってきた黒獣に、恨み言一つ言わ ず、弱弱しい笑顔で"お帰り"と。馬鹿だろう? 王族は心底馬鹿なのだ。王はその三日後に亡 くなった」 言葉すら発することが出来ず、ただ涙を流す黒獣に畳み掛ける。 「お前は、それでも帰るのか? この国の王を殺してまでも、元の世界に帰りたいか?」 咲は、両手で顔を覆うと、泣きながら首を振る。 それでもう十分だった。これ以上ここにいては、よりひどいことを言ってしまうかもしれない。 泣いている咲は、王が慰めればいい。 「……だから、賢者さんは、黒獣が嫌いなんですか?」 嗚咽と、泣き声が混じった声に、ハッとなる。 (そうか、そうかもしれんな) 咲の問いには答えず、そのまま部屋を後にする。 胸が苦しい。これが、罪悪感というものなのかもしれない。 今日の公務が終わった。 予定より長引いてしまった大臣達との会議。少し疲れた顔をしている彼らに「ご苦労」と微笑 みかけて、広間を後にする。 今まで生きてきて、自分が王であることに何の疑問も抱いたことはないが、最近は王という役 目が終わるとほっとする。 (咲に会える) そう思うだけで、心労は全てなかったかのように吹き飛ぶし、咲の笑顔を見ているだけで温 かくなる。 前王が早くに亡くなってからというもの、もう4年の月日がたっている。前王は就任と共に黒獣 が現れたのに、自分にはいつまでたっても現れない。 早く会いたいという気持ちと、いないならいないでいいかもしれないという諦め。黒獣がいても いなくても、自分が王であることに変わりはない。 でも、一度出会ってしまうと、それまでなぜ一人で生きて来られたのか分からないほど愛おし い。 不思議な少女だった。これまでずっと、他国の重鎮達と会い、相手の心を探り、外交という駆 け引きを繰り返してきたのに、たった一人の少女の前に立つと、どう振舞ったらいいのか分か らない。今まで出会ったことがないほど稀な存在。それは、咲が黒獣だからではない。そんなこ とは関係ない。 王を王として扱わない。その誰も真似できない特殊な言動に、彼女自身は気がついているの だろうか。 近衛兵が一人、こちらに駆けて来る。 少しでも早く咲に会いたいのに、王である身はそれすらままならない。 「陛下、お耳に入れたいことが……」 咲が倒れたと報告する男に、どうして今まで報告しなかったと怒鳴りつけたい衝動に駆られ る。 (違う。重要な会議な最中に、獣のことで惑うのは間違っている) 理解していても、心が揺らぐ。きっとこのことを予想して、賢者辺りが終わるまで報告するなと 言ったのだろう。 「分かった。下がっていいよ」 結い上げた髪も、装飾品がたくさん付いた衣類も、機能性のない靴も全部投げ捨てて、咲の 元に駆けつけられたらどんなにいいか。この瞬間、産まれて初めて王は、王である事がもどか しいと感じた。 ずっと膝を抱えて泣いていた。泣いて泣きつくして、どうして泣いているのか分からなくなって きた頃、寝室の扉が開いた。薄暗闇の中、王が立ちすくんでいる。 「咲」 何を怖がっているのだろうか。王の声が少し震えている。 「倒れたと聞いた、大丈夫?」 咲が顔を上げると、なぜか王が泣きそうな顔をする。 「……ひどい、顔ですよね?」 止まらない涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。目は熱を持って腫れているし、喉もおかしく、声も 濁って聞き苦しい。 「王様のせいですよ、王様が、私がいないと生きていけないなんて……そんなこと言うから… …」 涙はいったいどれほど流すことができるのか。流し尽くしたと思った涙が、またぽろぽろと零 れ落ちる。 王がひどく苦しそうな顔をしている。それでも、決して視線をそらさない。 「私は、謝らないよ。だって、咲がいないともう生きていけない」 「どうして? どうして私なんですか? 髪が黒くて、目が黒い人なんて、私の世界にはたくさん います。私の代わりなんて、たくさんいるんです」 どうして自分だけがこんな思いをしなくてはいけないのか。 (この国に、黒獣の制度がなかったらいいのに。そうしたら、王様は、私のことなんてきっと見 向きもしなった) 無邪気な笑顔で笑いかけられることも、ぎゅうと抱きしめられることも、好きだよと囁かれるこ とも。 胸が痛い。キリキリキリキリと胸が締め付けられる。王のことを知れば知るほど、一緒に過ご せば過ごすほど、胸の痛みはひどくなっていく。 (私が黒獣でなくても、王様は私のことが好きですか?) そんなこと決して聞けない。王の答えを聞くのが怖い。 どうして思いは伝わらないのだろう。 咲が泣いている。どうして咲が泣いているのか分からない。分からないが、咲は「王のせい」 だという。 「咲の変わりなんてどこにもいないよ」 この国の王は、誰もが魅了される稀な容姿に、出会う人全てに敬愛の念を抱かせる才知を 持つといわれている。 そのせいか、今まで生きてきて、ただの一度も、他人に拒絶されたことがない。完全なる王を 演じるということは、そういうことだ。 それなのに、咲の前ではうまく行かない。嫌そうな顔をされたり、怒られたり。頑張って好きに なってもらおうとすればするほど、引かれてしまう。 もうどうしていいのか分からない。負の感情から始まった人間関係など、咲が始めてだ。 だからなのだろうか。咲が笑ってくれると、嬉しくて仕方がない。咲は好きなことをして、好きな ように生きればいい。そんな咲を見ているだけで、自分は幸せになれるのだから。 (こんなに大好きなのに、どうしたら咲は笑ってくれるの?) もし、咲が黒獣じゃなかったら、きっととっくの昔に、自分は捨てられてしまっていただろう。 (私が王で良かった。咲が黒獣で良かった) ずるいと言われようが、卑怯と罵られようが知ったことではない。黒獣は王の獣なのだ。 (だったら、私のそばにいて欲しいと望むことくらい、許されるでしょう?) それ以上のことは、何も望まない。怖くて望めない。どうすればこの思いを伝えることが出来 るのだろうか。 そっと泣きじゃくる咲を抱きしめる。じわりと伝わってくる体温と、嗚咽を含んだ呼吸。 胸がどうしようもなく熱くなった。 「咲ちゃん大丈夫?」 可愛らしい声で我に返った。気がつくと、カナが心配そうな顔で咲を覗き込んでいる。 「ごめん、ちょっとぼーっとしていて……」 昨日の夜、声が枯れるほど泣いても、咲を取り囲む世界は少しも変わらない。 黒い髪と黒い瞳を持つものを、獣と称する世界。ありとあらゆる法律は咲を守り、ありとあら ゆる法律は咲を束縛しない。何でも出来るけど、元の世界に帰ることだけは選べない世界。 (これからいったいどうしたら……) カナの悲しそうな顔を見て、咲は慌てて首を振る。 今日は、カナが王城に遊びに来てくれたのだ。悩んでいても何も始まらない。無理やり笑い かけると、カナはうつむいてしまう。 「カナちゃん? ごめんね、私は大丈夫……」 「無理せんでいいと思うねん」 下を向いたままのカナの表情は分からないが、声が微かに震えている。 「咲ちゃんは、今、すごくつらそうな顔をしてる」 「ごめん!」 慌てて謝ると、カナは「違う」と首を振る。 「カナと咲ちゃんは友達やろ? 友達の前で無理なんてせんでええ。楽しいときだけ一緒の友 達なんて、友達やない。つらいときにも一緒にいられるのが、本当の友達や」 顔を上げたカナの大きな瞳には、涙が溢れている。 「咲ちゃんと、そういう関係になりたいって思ったら、迷惑?」 視界が滲んでカナの姿がぼやけてしまう。それでも、その言葉はまっすぐに心に響く。 「迷惑じゃないよ、迷惑じゃ……」 昨日流した涙とは違い、今日流す涙はなぜか暖かい。 「カナちゃん、ありがとう。聞いてくれる? あのね……」 砂の海に、夜の帳が訪れようとしている。 全てを焦がしてしまうかのような太陽を覆い隠し、大地にしばしの安らぎと休息を与えてくれ る。 この無音の海原に帆を張ると、船体と砂がふれあい、音を奏でる。その音を「まるで浜辺に 打ち寄せる波のようだ」と言った人がいた。 室内に小さな電子音が響く。ギインは、机の引き出しの鍵を開け、小型化された通信機器を 取り出す。 仕事の依頼だった。ただし、商人ではなく限りなく犯罪に近い行為を求められている。 「お受けいたしますよ」 成功する自信はある。だが、失敗しても、捕まる気はない。その行動を海賊と罵られることも あるが気にしたことはない。 弱々しいノックと共に、部屋の扉が開かれた。そこには、カナがいる。 昼ごろに、満面の笑みを浮かべて、「咲ちゃんのところに、遊びに行くねん!」と、あれほど嬉 しそうに出かけていったのに、戻ってきたカナの表情は暗い。 「どうかしたのかい?」 椅子から立ち上がり、ギインがカナのそばによると、無言で抱きついてくる。 「何かあったの?」 肩を小刻みに揺らすカナは、声を上げずに泣いている。 顔を押し付け、いやいやと首を振るカナの頬に優しく両手を添える。 「カナ、言ってくれないと分からないよ」 そのとたん、こらえきれなくなったのか、カナは声を上げて泣き出した。 「咲ちゃんが、咲ちゃんが」 年の割にしっかりしているカナが、まるで小さな子どものように泣き叫ぶ。 「嫌やぁ! 咲ちゃん、めっちゃ目が赤くなってた。ずっと泣いてたって。なんで? なんで、咲ち ゃんが黒獣しなあかんの? カナは、カナはどうしたらいいん?」 小さな手が、ぎゅっと服を掴む。 「助けて」 聞き分けの良いカナが、こんなことを言うのは初めてだ。 「ギイン、咲ちゃんを助けてあげて!」 実のところ、聞き分けの良すぎることを少し心配していた。背伸びをして、少しでも早く大人に なりたいと願うカナ。 そんなカナにとって咲は、一緒にいると、素直に子どもになることが出来る大切な存在なのか もしれない。 「カナ、良い友達をもったね」 カナが頷くと、ぽたりと涙が床に落ちる。 「助けてあげるよ」 お願いを聞いてもらえるとは思っていなかったのだろう。驚くカナの濡れた頬を、親指で拭っ てあげる。 「カナのためなら……と言いたいところだけど、仕事が入ったんだ。黒獣を誘拐して欲しいって」 「本当に?」 「うん、本当だよ」 まだ流した涙が乾いてもいないのに、カナは嬉しそうに笑う。 「カナも手伝う! 成功したら、咲ちゃんを他の国に案内してあげるねん!」 「カナ、成功したらの話だよ?」 「うんうん、でな、一緒においしいもの食べて、一緒に綺麗な景色をいっぱい見るねん!」 無邪気なカナの頭をなでる。 「そうなったらいいね」 そこから先は約束できない。嫌な大人になったものだと、ギインは心の中でため息をついた。 つづく 次へ 「王の獣」TOPへ |