咲を見送った後、カナはギインと共にギインの部屋へと戻った。あらゆるものが詰め込まれ
たこの小さな世界が、カナは大好きだ。

「なぁギイン。咲ちゃん、ちょっと元気なかったな」
 
 机の上に並べられた、丸っこい人形を指で弾くと、ゆらゆらと揺れる。

「ここは特殊な国だからね」

 ギインは散らかったボードゲームの駒を広い、箱に片付けていくが、適当に入れすぎて、ふた
が閉まらなくなっている。

「貸して」

 ギインから箱を受け取ると、代わりに丁寧に片付け始める。

「なぁギイン。黒獣って何? 咲ちゃんは髪が黒いだけの普通の子や。人間やで。カナやった
ら、髪がピンクやからって、獣とか言われて飼われるの、めっちゃ嫌や」

 とても優しい咲。迷子になっているところを助けてくれて、手を繋いでくれた。伝わってくる暖
かい人の温もり。初めて出来た大切な友達。

「咲ちゃん、つらくないんかなぁ……」
「身動きが取れないと、泣いていたね」
「そうなんや……」

 咲を思うと、胸が締め付けられるように痛い。ふいに溢れてきた涙をギインに見られたくなく
て、必死に目を擦る。その手をギインは優しくつかんで屈みこむと、カナと視線を合わせた。

「誘拐してしまおうか」

 ギインの優しい笑顔とは裏腹の危険な言葉に、カナは眉をよせ不審な顔をする。

「咲ちゃんを誘拐する商船団の利益って何?」
「カナの友達だから、じゃ駄目なのかい?」

 その言葉にカナはうっとなる。

「カナはそれでいいけど、ギインは違うやん! 黒獣やで? この国の宝とか言われてんねん
で?」

 若くして、巨大な船を持つ商船団の船長にまで登りつめたギイン。彼は、根っからの商人だ。
その行動には、常に利益と損益が関わってくる。
 ギインは、穏やかに微笑んだ。

「失敗したら、次の国に行けばいいだけだよ」
「そうなん言うから海賊とか言われんねんで」

 商船団は、海賊ではない、商人だ。ただ、ときどき常連客の無茶な要望を聞いてあげること
もある。ただそれだけのこと。




 谷口と藤井にお礼にいい、咲が部屋に戻ると、王様がソファに座っていた。こちらを見ると、
ぱぁと明るい表情を浮かべる。そして、「昨日はごめんね」と。

「私はずっと黒獣のことを待っていたけど、咲は私と知り合ったばかりなのに。そのことを、賢
者にも気をつけろと言われていたのに……」

 そう言いながら、王はしゅんとうな垂れてしまう。大人なのに、その姿は、まるで怒られた子
犬。そんな可愛らしい子犬に「許さない」なんて言えない。

(本当にずるい!)

 王族はずるい生き物だ。咲はため息をつくと、ちょこんと王の隣に座る。

「王様、もうあんなことしないでくださいね?」
「うん、咲がいいって言うまでは絶対しない」

 良いという日は来るのだろうか。来るとしたら、それはこの世界の全てを受け入れた時なの
かも知れない。

「咲、一緒にご飯を食べよう。今日は、何をしていたの?」
「えっと、カナちゃんと遊んでいました。すみません」

 なんとなく謝ってしまうと、王は不思議そうな顔をする。

「どうして謝るの? 楽しかった? 咲が楽しいと私も嬉しい」

 その言葉に、きっと嘘偽りはないのだろう。

「でも、王様は働いているのに、私はフラフラ遊んでいるなんて……」
「ううん、咲はしたいことをして。咲が自由だと、まるで私が自由になったようで嬉しい。話を聞
かせて。咲の楽しかったこと。カナちゃんってどんな子?」

 にこにこ笑顔の幸せそうな王様を見て、きゅうと胸がしめつけられる。

(私のことを好きだったら怒ってくれたらいいのに)

 がんじがらめにして、どこにも行かないように、誰にも会わないように閉じ込めてしまえばい
い。

(そうしたら、この世界も王様のことも大嫌いになれたのに)

 昼間感じた罪悪感の正体が、ふと分かった気がする。

(嫌いになりたいのに、なれないんだ……私)

 どう頑張っても嫌いになれない。それどころか、元の世界に帰ることに罪の意識を感じてしま
うほどに、この王を裏切りたくないと思い始めている自分がいる。
 胸がしめつけられるように痛い。

(恋じゃないよ、こんな気持ち)

 恋などという生易しいものではない。

(じゃあ、同情なの?)

 それも違うような気がしてきた。

(分からない)

 分からないから、もう少しだけ王様のそばにいよう。
 そう、決めた。




 次の日の朝。王が公務に向かい、咲が部屋で一人になった頃、いきなり黒服の男が入って
来た。

「きゃ!?」

 咲が突然の来訪者に驚いて悲鳴をあげると、黒スーツの男は、黒縁メガネをスチャと取る。

「おーう、咲! 邪魔するぜぃ」

 見覚えのある顔に、安堵のため息が出る。

「瑞垣さん、そういうことは、邪魔する前に言ってくださいよ!」

 苦情を言うと、ははっと笑い飛ばされてしまう。相変わらず瑞垣に遠慮というものはなく、ドカ
ッとソファに身を沈める。

「なんかよー、最近元気ないんだって?」

 指先で、くるくると黒縁メガネを器用に回している。

「……どこからそういう情報って回るんですか?」
「んー、まぁいろいろとな!」

 と、一度は誤魔化しておきながら、「珍しく谷口が心配してんだよなー」と、ぶっちゃけてしまう
ところが妙に瑞垣らしい。

「昨日、ギインのところに行ったんだって? まぁ、行くなとは言わねぇが、やつらとは気をつけ
て付き合え、な?」

 ぐりぐりと力強く頭をなでられて、身体が左右に揺れる。

「瑞垣さんとギインさんたちって、何かあったのですか?」
「んー……」

 瑞垣は、何の断りもなしに、黒縁眼鏡を咲の顔にかけてくる。

「前にな、黒獣が消えたことがある」
「え?」

 身体がゾクリとする。昨日のギインの言葉が頭の中で繰り返される。

『咲様、何か欲しいものがありましたら、どうぞ、この私めにご相談ください』 

 何でも手に入れることができるというギイン。それならば、黒獣の自由すら手にできるのだろ
うか。

「ギインさんが連れて行ったんですか?」

 その問いに、瑞垣は首を振る。

「いや、黒獣は、一週間したら、ひょっこり帰って来たんだ」
「え?」

「問い詰めても、黒獣は何も言わなかった。ただ、あいつはその一週間、この国のどこにもいな
かったんだ。それは俺たち国益所の人間が、血眼になって探したから断言できる。それとな、
黒獣が消えた時期と、商船が出て行く時期が重なった」

「それだけの理由で、ギインさんが犯人??」

「まぁ、確かに証拠は何もねぇよ。だが、黒獣が消えたと同時に船が出港して、一週間後に、船
が戻ってきたんだぜ?今までそんなことは一度もなかった。まぁ、ギインは、忘れ物を取りにき
たとか、つまらない言い訳をしていたがな」
 「心配なんだよ」と瑞垣は言う。
「悩みがあったら相談しろよ?」
「はい」

 よろしいとばかりに、瑞垣は眼鏡を指ではじく。

「それにしても、お前、黒縁眼鏡似合わねぇーな」

 カカカッと笑う瑞垣に、「瑞垣さんが勝手にかけたんでしょう!」と怒ってみる。

「まぁ、気にすんな! そうだ、今日は俺んとこ遊びに来い! 政総部は楽しいぞー」

 本当に楽しいかはさておき、他にやることも見当たらない。やることがないと、また悩みこんで
しまいそうなので、それは、とてもありがたいお誘いだ。

「掃除はしませんよ?」
「だから、清掃部じゃねぇって!?」

 瑞垣はハッとなると、「とりあえず、賢者に許可を取ってくるわ」と言いながら、そそくさと出て
行ってしまう。さすがの瑞垣もこの件については、少し学習したようだ。賢者の許可を得た後、
咲は国益所の見学に行くことになった。




 外出するに当たって、いつもの警備がつくと思いきやつかない。
 そのことを瑞垣に尋ねると、「俺がいるじゃねーか!」と豪快に笑い飛ばされてしまう。

「瑞垣さんって、やっぱり強いんですか?」
「んーまぁ、自分で言うのもなんだが強いな。でも、刀で谷口には勝てねぇ。刀の腕だけで見た
ら、俺は藤井と五分五分ってとこかな」

「そうなんですか?」

「ああ。まぁ、そうなると、なんでお前が部長なんだと言いたいと思うが、俺は全般的に何でも獲
物を使いこなせるんだよ。なんつーか器用貧乏ってやつか? 違うか? 全知全能? 違うな
……。まぁ、何でもいいか! だから一つの獲物の扱いに特化しているやつには負けるが、総
合格闘技や集団戦闘になると負けねぇ」

 そんな話をしながら、城門へ向かってと二人で歩いていく。
 咲はこの場所が苦手だった。城門を通る時、いつも兵士が敬礼してくれるので、どうしたらい
いのか分からなくなる。

(確か、瑞垣さんは偉い人なんだよね?)

 瑞垣はどうするのだろう。そう思っていると、瑞垣はおもむろに片手をあげた。

「おーう! 警備、お疲れさーん!」

 大きな声に軽いノリ。
 兵士たちは少しも表情を崩さず敬礼する。その様子を見た咲は、嬉しくなる。

(そっか、お疲れ様だ!)

 瑞垣の真似をして、「お疲れ様です」と言って、軽く頭を下げてみる。
 城門の兵士たちからは、相変わらず無表情な敬礼が返ってきたが、なぜか心が清々しい。

(瑞垣さんって、良く分からないけどすごいかも)

 そんなことを考えているうちに、城の前で待っていた藤井と合流する。
 咲が町を歩いているだけで、周囲からは「本物の黒獣」とか「聖なる獣」とかの声が聞こえてく
るし、数多くの好奇な目がこちらを見ている。しかし、今は前ほど気にならない。

(最近、考えることが多すぎて……)

 逆に何を考えたらいいのか分からなくなってきている。何が重要なのか、何が重要でないの
か。何をするべきなのか、何をしてはいけないのか。

 さわさわと静かにざわめく町を、瑞垣達とそぞろ歩く。その中で、前から歩いて来る男をなん
となく見たとたんに、息がつまった。
 細身のスラリとした身体を黒スーツで包み、青白く神経質そうな顔には、縁のない眼鏡がか
かっている。

「あ、日浦部長だ!」

 藤井の声に、咲の身体はびくりと跳ねる。王城で日浦に呼び止められたあの日。笑う口元
に、鋭い眼光。

『貴女の自由とはそういった類の自由です』

 頭から冷水を浴びせられたようだ。日浦の口から出た、重すぎる言葉で、咲は初めて自分の
置かれている状況を自覚した。
 急に蘇った恐怖にカタカタと手が震える。

(どうして忘れていたの!?)

 あんなにも怖いと思ったのに。もう部屋から一歩も出たくないと思うほど、恐怖を感じたのに、
優しい人たちの言葉に甘えて、それ以上考えることをやめてしまった。曖昧にしてしまった。

(どうしよう、ごめんなさい!)

 ぎゅっと目をつぶる。

「お疲れ様です、日浦部長!」
「おう、日浦、相変わらず太陽の下が似合わねーな!」

 明るい藤井の挨拶と、馬鹿にした瑞垣の笑い声が聞こえる。しかし、日浦は一度こちらにチ
ラリと視線を送っただけで、何も言わずに側を通り過ぎてゆく。

「挨拶くらいしろよなー。感じわりぃー」
「今のは、瑞垣部長が余計なことを言ったからでは……?」

 余計なことを言ってしまった藤井は、笑顔の瑞垣に片手でガシッと顔面をつかまれている。

「イタッ! いだだだ!? 部長、痛いです痛い!」

 相当痛いらしい。そんな二人の様子を見て、ようやく身体の緊張がとけ、ホッと安堵のため息
が出る。
 その肩に、ポンと瑞垣の大きな手が乗った。

「咲、お前もようやく日浦の怖さが分かったか。敵の本当の怖さが分かるということは、成長し
た証だぞ!」
「何言ってんですか、部長! 咲さん、顔が真っ青ですよ? 日浦部長に何か意地悪されたん
ですか!? 国の宝の黒獣にも容赦がないなんて……まぁあの人らしいですけど」

「咲! 何を言われたのか知らんが、あいつの言うことは極論だから気にすんな! なんという
か、一種の災害のようなものだ。いくら用心していても避け切れん」

 まるで、被災者を励ますように、優しく肩を叩かれる。

「ま、言い方を変えれば、あいつは誰にでも同じ態度を取るから公平とも言えるがな」

 そういう瑞垣は、人の内面を見ることに長けているような気がする。人の良い面と悪い面、そ
の両面を認めた上で相手と付き合う。
 瑞垣が政総部を統括している立場にいるのは、どうやら強いからだけではなさそうだ。

「大丈夫、お前が一生懸命生きていたら、日浦も何も言ってこねぇよ。それでも何か言ってきた
ら、俺がぶん殴ってやるからよ」

 カッカッカッと豪快な笑い声。

(瑞垣さんなら本当にやりかねない……)

 返事に困った結果、話題を変えてみる。

「そういえば、日浦さんは、前の黒獣さんと仲が良かったんですか?」

 王城で、咲をマジマジと見たときに、日浦は前黒獣をほめていた。
 前の黒獣について、「性格が悪い」や「気難しい」とはよく聞いたが、絶賛したのは王と日浦だ
けだ。
 瑞垣は、「んー」と言いながら腕を組む。

「あいつらは、仲が良いんじゃねーんだよな。日浦が認めたんだよ、前黒獣の能力の高さを」

 藤井もうんうんと頷く。

「なんだかんだ言いつつ、瑞垣部長がクビにならないのも、日浦部長が、瑞垣部長の戦闘能力
の高さを認めているからですもんね!」
「じゃないと、とっくにクビですもんね!……的な言い方すんじゃねーよ、藤井ゴラァ!」

 腕を振り上げた瑞垣に、藤井は逃げ腰になりながら「被害妄想はやめてくださいよ!?」と叫
んでいる。
 そんな二人に笑ってしまう。先ほどの緊張が嘘のようだ。

(うん、今はあまり深く考えないで置こう)

 部屋に戻って一人になると、考える時間はたくさんあるのだから。
 大通りをしばらく進むと、一際大きな建物が見えてくる。入り口を支える大きな柱が少し神殿
を彷彿させるが、中に入ってしまえば、やはりそこは市役所にしか見えない。
 入ってすぐのカウンターでは、客と思われる年配男性が少し声を荒げていた。「ですから」と
冷静に対応する職員は、こちらを見ると、少しだけ会釈する。

(あ!)

 どこかで見覚えがあると思ったら、いつも警護をしてくれる谷口だ。黒縁眼鏡をかけていない
せいで、一瞬誰だか分からなかった。
 瑞垣は、カウンターを通り過ぎながら、小声で「やっかいそうな客に捕まってんなー」と他人事
のように呟いている。
 カウンターを越えると、右に総務部。左に政総部が配置されている。慌しく働く総務部に比
べ、政総部はどこかまったりした雰囲気なのは気のせいか。

「咲、この建物が国益所だ。で、ここが政総部で、あっちが総務部だ」

 その言葉に、今度は今まで周囲など気にしていなかった、国益所の人たちが、一斉に机から
顔をあげた。

「あ、黒獣だ」

 誰かが呟いたその一言。
 総務部はというと、目視で存在を確認しただけですぐに各自自分の仕事へと戻っていく。忙し
すぎて、それどころではないという雰囲気だ。しかし、政総部は違った。

「おお!? 黒獣!」
「初めて見た!」
「俺、二回目」

 わらわらと近寄ってくる政総部の強面の皆さん。藤井が慌てて間に入る。

「ちょっと! 咲さんの周りに群れないでください! 谷口課長に斬られますよ!」

 その谷口は、今接客中でそれどころではない。それを知っての上で、守ろうとする藤井を邪
魔そうにして、咲を見てくる。

「わぁ、すげぇ本当に黒髪だ!」
「目も黒いぞ」
「小さいな」

 好奇な目を向けられ緊張して、そっと藤井の後ろに下がってしまう。その行動に、男たちはざ
わめく。

「うわ、逃げた!」
「怖がられた!」
「え? 違います! すみません」

 慌てて咲が謝ると、「おお!?」と歓声が上がる。

「黒獣が謝ったぞ!?」

 感動している政総部の面々に向かって、瑞垣は偉そうに腕を組む。

「おう、お前らが黒獣を見たいって言ったから連れて来てやったんだぞ! ほれ、俺様に感謝し
やがれ!」

 男たちは、咲を取り囲み、やいのやいの言っている。

「わぁ、前の黒獣とえらい違いだな」
「黒獣ってみんな、あんなのかと思っていたぞ」
「俺も俺も」

 瑞垣を無視して、盛り上がる皆さん。

「テメェら……」

 静かな殺気を察したのか、瑞垣の言葉に、いっせいに頭を下げる。

「「「あ、部長、ありがとうございまーす」」」

「なんで、棒読みなんだよ!?」
「気のせいっすよ!」

 へらへらと、手を振る部下らしき人。

「だから、お前達は嫌なんだよ!? 見ろ、この黒獣の素直さを! 可愛いだろーが。お前達も
これくらい可愛くなりやがれ!」
「えー無理ぃ……というか、部長が、少女を捕まえて可愛い可愛いって連呼してたら、犯罪の匂
いしかしねーよな」

 プッと周囲に笑いが巻き起こる。藤井も笑いをこらえすぎて、フルフルと震えている。

「つか、あの顔でそれは、もうすでに犯罪だろ! 確実に捕まるって」

 巻き起こる笑いの渦。総務部からも忍び笑いが漏れてきて、「笑わすな、政総部!」と苦情が
来る。

「えーいいじゃん、今日、日浦さんいねーし」
「そういう問題じゃない!」

 全くもってその通りだと思う。瑞垣は、満面の笑みで拳を握り締めた。

「よーし、お前らそこに並んで歯ぁくいしばれ」

 怒りを含んだ重い声音。

「おおっと、仕事仕事!」
「あ、この書類なんですけど……」
「おーい、昨日の現場検証に行くぞー!」

 咲を取り囲んでいた男たちは、蜘蛛の子を散らすように、各自仕事に戻っていく。

「ったく!」

 不機嫌な瑞垣の横で、未だにフルフルしている藤井。

「……藤井、歯くいしばれ」
「ちょ、なんでですか!? 自分は笑っておりません!」

「笑ってんだろうが!? 誰が犯罪者だって? あームカつく! むしろ、お前のその女受けす
る顔がムカつく、一回殴らせろ!」
「む、むちゃくちゃです、部長!?」

 明るい雰囲気に、飛び交う冗談。見ているこちらまで楽しくなってしまう。

(面白い職場なのね)

 そう思ったとき、控えめな咳払いが聞こえる。振り返ると、谷口が軽く会釈する。

「すみません部長、先ほどからあちらの方と、もめておりまして。できれば少し静かにしていた
だけませんか?」
「ああ、わりぃ谷口! じゃあ、咲はこっちに……」

 瑞垣が咲を案内しようと背を向け、谷口が別の書類を取りに行こうとしたその瞬間。年配の
男がカウンターを飛び越え、手を伸ばした。

「俺を馬鹿にするものいいかげんにしろ!」

 男の手が、乱暴に咲の腕をつかむ。

「何が王だ! 何が黒獣だ!」

 叫び声と共に、咲の頭に激痛が走る。男の手が咲の髪を乱暴に引っ張っている。

「お前達、国益所の連中は誰の金で飯を食っていると思ってんだ! 黒獣なんて、ふざけた存
在は……」

 怒気を撒き散らす男の声がピタリと止む。咲の髪をつかむ力が緩み手は震え、目が大きく見
開かれている。瑞垣が、素早く無言で咲を引き寄せた。
 ゆっくりと崩れていく男。その後ろには、丸く円を描きながら、刀を鞘に戻す谷口の姿がある。
 男が完全に崩れ落ちる瞬間に、背中から鮮やかな血が噴出し、事務的な谷口の声がする。

「憲法第五十六条により、黒獣を害するものはいかなる理由があっても処罰されます。黒獣法
に基づき、非人道的ではありますが、警備課谷口の一存により処断いたしました」

 その言葉の後に冷静な藤井の声が続く。

「部長、処断理由はご覧の通りですが、後ほど書類を提出します」
「ああ」

 瑞垣は今さらながらに大きな手で、咲の視界をふさいでくる。

「わりぃ、嫌な目に合わせたな」

 強制的に与えられた暗闇。その闇に響く優しすぎる声に、急に身体が震えてくる。

(え? ……今、目の前で、人が……え……?)

 今見たことを理解できない。それでも、男につかまれた腕と、引っ張られた髪が痛い。
 痛みがこれは現実だと訴えてくる。

(い、痛い……よ?)

 ガタガタと震えながら、瑞垣の手を払う。すると、そこには、血まみれの男の側に座り込む藤
井の姿。
 男の周囲には、引き抜かれた咲の黒髪が糸くずのように落ちている。それを藤井は大事そう
に拾う。

「咲さんの黒髪が……すみません」

 藤井の謝罪と共に、谷口も硬い表情で深くこちらに頭を下げる。

(そんなの、どうでも、いいよ?)  

 そこにあるのは、ただの髪だ。ただ黒いだけの自分の髪。

(だって、人が倒れているよ? 今、そこで血を流して)

 喉が焼け付くように痛い。渇ききった口からは、言葉が何も出てこない。誰も騒がないし、誰
も倒れている男を助けようとしない。
 国益所の人たちはもちろん、おそらく町の住人であろう人たちですら、カウンターの向こうで、
「怖いわねぇ」といった感じでただ眉をひそめるだけだ。
 それどころか、「ったく誰のお陰で国が成り立っていると思っているんだ」という怒りを含んだ
声が、どこからともなく聞こえてくる。
 谷口は、倒れた男の両腕を持ち、「藤井」と呼びかけた。藤井は頷くと何のためらいもなく、男
の足を持って運び出す。

「咲、大丈夫か?」

 身体の震えが止まらない。

「咲?」

 不思議そうに名を呼ぶ声が誰だか分からない。フッと目の前が白くなると、何も聞こえなくな
った。








つづく



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