瑞垣が謁見室に駆け込むと、そこには、美しい王座に座る優雅な王の姿があった。その前に
は、どこかで見たことのあるスーツ姿の男が佇んでいる。男は眼鏡の奥からこちらを一瞥する
と、王の足元にひざまずく。

「黒獣を保護いたしました」
「ああ」

 にこりと王が美しく笑う。

「皆、騒がせて悪かったね。日浦もご苦労。咲が見つかって良かった」

 日浦は一礼すると、王に背を向けて歩き出し、瑞垣の隣で立ち止まる。

「瑞垣、お前の代わりに呼び出されたのだぞ。私を殺す気か」

 小声だが、そこには殺気が篭もっている。

「お前がペナルティを課したんだろうが!」
「それはもういい。黒獣が正式に契約を結ぶまで、ペナルティはなしだ。今すぐ政総部に戻れ。
黒獣の警備に当たるんだ」
「何でテメェに命令されなきゃいけねぇんだよ!?」

 怒る瑞垣を無視して、日浦は咲を見ると薄く笑う。

「咲さん、お願いですから逃げないでくださいよ。私達を殺したいなら話は別ですが」
「ころす?」

 意味が理解できずに言葉を繰り返すと、日浦は笑うことをやめる。向けられたのは、こちらを
分析するような目。

「ふむ、今度の黒獣は知能が足りないようだな」
「こいつは、素直で良いやつだ」

 日浦は、瑞垣の反論を鼻で笑う。

「前王の黒獣は、素晴らしい洞察力を持っていたが、やはりあれが例外か」
「あんま、咲をいじめてっと、谷口に刀のサビにされっぞ」

 咲をストンと肩から降ろすと、瑞垣は日浦の方に身体を向ける。

「俺も気分がわりぃしな」

 怒りを押し殺した低い瑞垣の声。獲物を前にした野獣のような殺気で身がすくむ。しかし、日
浦は少しも怯えず鋭くにらみ返した。

「瑞垣、無駄口を叩かず仕事に戻ることだな」
「テメェもな」

 二人の間には険悪な空気が漂っている。

(怖い)

 咲が恐怖で固まっていると、王がおいでおいでと手招きしている。呼ばれるがままに近づく
と、ふわりと抱きしめられ、そのまま膝の上へといざなわれる。

「今日はどこで遊んでいたの? そうだ、一緒にご飯を食べよう」

 手のひらに、唇を落とされる。光の帯のような金髪が、腕にかかりくすぐったい。

(この時の王様はちょっと苦手……)

 この美しい外見も見慣れてしまっているはずなのに、なぜか緊張してしまう。顔が自然と赤く
なっていく。

「王様、勝手にいなくなってごめんなさい」

 王はにこりと優雅に微笑む。

「良い。黒獣は自由だ」

 気がつけば、日浦と瑞垣が直立して、王に向かって頭を下げている。

「ああ、つまらないことで呼び出して悪かったね。飼い始めたばかりで心配だったんだ」

 王が手を軽く手を振ると、二人はそろって退出してゆく。

「さぁ、咲もおいき。私はもう少し公務が残っているからね。終わったら、すぐに行くよ」

 まるで愛おしい飼い猫を、仕事の邪魔だからと自ら遠ざけるような仕草。そこには相変わら
ず完璧な王がいる。飼っている獣ごときでは、見苦しい動揺をみせない王が。
 日浦と瑞垣に続き、謁見の間から出ると、二人はそろって咲を見た。瑞垣は、大きな手でわ
しゃわしゃと頭をなでてくる。

「咲、ペナルティがなくなったから、今度は普通に遊びに行くわー」
「こりてないですね、瑞垣さん……」

 呆れて呟くと、悪ガキのような笑顔が返ってくる。

「この程度の事で懲りていたら、政総部の部長なんてやってられねぇよ」

 カッカッカッと笑いながら去っていく瑞垣。咲も部屋に戻ろうとすると、静かに日浦に道をさえ
ぎられてしまう。

「咲さん、ひとつだけご忠告を。いえ、むしろお願いです」

 口元は笑っているのに、眼鏡の奥の目が全く笑っていない。

(こ、怖い、日浦さんって、本当に怖い!)

 藤井があれほど怖がっていた理由が少し分かるような気がする。

「王は貴女が自由だと言う」

 王だけでなく、賢者も確かそう言っていた。

「自由とはいったい何でしょうか? 完全なる自由は、この世に存在するのでしょうか?」
「え?」
「確かに獣である貴女には何の責任もないかもしれません。ならば、その責任をとるのは飼い
主? しかし、貴女の飼い主はこの国の最高権力者。責任など取る必要もありません。なら
ば、その責任はいったい誰が取りますか?」

 今更ながらに様々な言葉がよみがえる。

『早く行かないと、首が飛んでいるかもな』

『俺を殺す気か』

 それは、現実味のない言葉の数々。

(私のせいで、日浦さんや瑞垣さんが責任を取らされて、殺される可能性があるってこと? そ
んな、まさか……)

「良いお顔です。ご理解いただけたようで何より。お忘れなく。貴女の自由とは、そういった類の
自由です」

 日浦は慇懃無礼に頭を下げると、その場から去っていく。
 湧き上がる言いようのない恐怖に、咲の足はしばらく震えが止まらなかった。




 いつの間に、王が部屋に入って来ていたのか。
 そばに来ると、ソファの上で膝を抱えてうつむいている咲を優しく抱きしめる。

「咲、どうしたの?」

 穏やかで柔らかい声が静かな部屋に響く。王は、完全なる王で、とても寂しい人。この世で、
黒獣を誰よりも愛している人。

(嫌いじゃない。今更王様を嫌いになんてなれない)

 でも、おそらくとても怖い人。

「王様……」

 顔を上げると、今にも泣いてしまいそうな王の顔。泣きたいのは、こちらの方なのに。

「咲が悲しいと、私も悲しい」

 その言葉にきっと嘘はない。でも優しいのは黒獣の咲にだけ。

「王様、今日は勝手にいなくなってすみませんでした」
「いいよ、構わない。ああ、ひょっとして日浦に嫌味でも言われた? 瑞垣に怒られてしまった
の?」

 力いっぱい首を振ると、王は微かにほほ笑む。

「ごめんね、そこまで気が回らなかった。駄目だな、私は。咲のことになると、周りが見えなくな
ってしまうよ」

 それがまた嬉しいのだけれど、と王は言う

(危ないよ)

 一国の主が、たった一人に傾倒するということは、なんて危ういことなのだろうか。

「王様、私はもうどこにも行きません」
「え? ああ……」

 本当に嬉しそうに王が微笑む。

(そう、これが正解)

 飼われた獣は獣らしく、小屋にでも入っていればいい。そうすれば、誰にも迷惑をかけない
し、誰も傷つかない。

「だから、王様は私のために、ひどいことをしないでくださいね?」

 王は、少しだけ驚いた顔をする。しかし、すぐに笑顔になる。

「咲、ご飯を食べよう」

 王が声をかけると、部屋の外で待っていたのか、メイドが食事を運んでくる。あまり食欲がなく
手をつけずにいると、王がスプーンを口元にもって来た。

「はい、あーん」

 ためらっていると、王はどんどん悲しい顔になっていく。

「これもダメなの?」
「ダメっていうか……」

 恥ずかしい。いつもはここで引き下がる王だが、今日はそれでも引き下がらない。

「咲、これを食べてくれると、良いことを教えてあげるよ」
「良いこと?」
「うん、咲が知りたいこと」

 なんとなく騙されているような気がするが、思い切って口を開く。王はその様子を見て、嬉しそ
うににこにことしている。

「おいしい?」
「はい。それで良いことって?」

 よしよしと王の手が頭を優しくなでる。

「咲、だまされたね」
「え? だましたんですか!?」
「私はだまさないよ、さっきのひどいことしないで、の話。日浦かな? 日浦のやりそうな意地悪
だ。王個人にね、人を処罰する権限はないよ。いったい何て言われたの?」

 フフフと笑う王様。

「私がいい加減なことをしていると、周りが迷惑するって」
「日浦だね。そんなことを言うのは、日浦しかいないよ。私の黒獣を苛めるなんて、ひどい人
だ。だから日浦は、解雇……なんてこと、できないよ。できない法律になっているからね。それ
では、労働基準法に違反しすぎだよ」
「そう、なんですか?」

 全身の力が抜けてしまう。 

(首が飛ぶって、殺されるって、全部冗談だったの?)

 安心すると、代わりに怒りが湧き起こる。

「もう! 日浦さんも賢者さんもひどいです」
「咲は素直すぎるよ、でもそこが良いのだけれど……」

 と王の手のひらが耳にふれたかと思うと、そのまま流れるように唇が合わさる。

(え?)

 あまりに自然な動きのため、理解するのに数秒かかった。

(今、私、キスされてる?)

 ゆっくりと名残惜しそうに顔を離す王。その陶磁器のような美しい肌は、真っ赤に染まってい
る。

「ごめん咲。咲が余りに可愛いから、我慢できなかったよ」

 子どものように無邪気にほほ笑む王。しかし、王は大の大人なのだ。

「え?」
「怒ってる?」

 そう聞いて来るということは、怒られるようなことをしたということだ。

「えぇええええええ!!?」
「お、怒ってるの? ごめん、咲ごめん!」
「ち、違う! あれ? え? ど、どうして、何で??」

 咲はこの世界で獣だ。だったら、今の行為は、ペットにキスをするのと同じようなもの
なのだろうか。
 こちらの動揺に動揺したのか、王はアワアワしている。

「ごめんよ、咲が嫌ならもうしない、我慢するよ。でも、私は咲が大好きだから、咲のちかんだ
から」

 その言葉に、ふと賢者の言葉が頭をよぎる。

『ちかんとは、愚かな男、馬鹿者、痴れ者。女にみだらな悪戯をする男』

 女 に み だ ら な 悪 戯 を す る 男

 王の顔は赤い、それでも真っ直ぐこちらを見つめてくる。

「ねぇ、咲」

 今まで気がつかなかった。いや、気がつこうともしなかった。王が咲を見る目がやけに熱っぽ
いことに。

(もしかして、これは友達じゃない? まさか、そんなわけ……)

「ねぇ、咲」

 いつものように抱きしめられる。それは獣を可愛がる行為のはずだ。だからこそ、次の言葉
の意味が理解できない。

「いつかは、咲を抱いてもいいですか?」
「え? もう、抱きしめられてますけど?」
「えっと、そうじゃなくて……」

 王の顔はさらに赤くなる。咲の頬に当たる胸がドクドクと早鐘をうっている。

「ああ、その、咲を私のものにしていい?」
「元から私、王様の獣ですけど?」

 王は赤い顔をしたまま、うつむいてしまう。

「が、我慢するよ」
「え?」
「咲がそういうことをしたくなるまで、私は我慢する」

 もしかして。ひょっとすると、ひょっとして。

(王様は、私のことが女の子として好きなの?)

 そう思ったとたん、目の前の王を、異性として意識してしまう。
 程よく鍛えられた腕に、堅く厚い胸板。長く綺麗な指に、大きな手。自分とは全く違う身体。顔
が急に赤くなり、肩や腰に回されていた腕を慌てて払いのける。

「咲?」

 王はきょとんとしている。

「王様は、私のこと、女の子だと思った上で、一緒に寝たいとか、お風呂に入りたいとか言って
たの!?」
「え? うん、だって咲は可愛いから」

 無邪気な笑顔。しかし、それに騙されてはいけない。

「この、変態ぃい!」
「ええ!?」

 ソファの上にあった、クッションで王をバンバン叩く。驚きながらもどこか嬉しそうな変態王に、
咲は寒気がするのだった。







つづく



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