咲が城に戻ってきた頃には、太陽は西へ傾き、空は赤みがかった黄色へ変わっている。 谷口は、咲を部屋に送り届けると、頭を深く下げた後去ってゆく。 なんとなく、薄暗い部屋に戻る気にはなれず、賢者の部屋へと足を向けた。 ノックをしてから中をのぞくと、朝見た場所に、朝見たままの状態で、賢者は机に向かい本を 読んでいる。 (まさかずっとここにいるってことはないよね?) 咲が近づくと、賢者は「なんだ?」と言いながら顔をあげる。 「港に行ってきました」 「それで?」 「瑞垣さんとギインさんがケンカになって……」 額を押さえる賢者からは「あの馬鹿どもが」という呟きが聞こえてくる。 「皆さんが口にする、前の黒獣ってどんな人だったんですか?」 「そのままだ。性格が悪くて扱いにくい、嫌な奴だった」 その人に比べると、咲はとても素直で性格が良く見えるらしい。 「その人は、今はどうしているんですか?」 「前王は若くして亡くなった。そうなれば黒獣も不要になる、それこそ自由だ。好きなように暮ら している」 「この街でですか?」 「何が言いたい?」 しつこい質問に、賢者はすこし苛立ったようだ。 「あの、その人に会いたいんですけど……」 「会ってどうする? 帰る方法でも聞くか?」 賢者の声がとてもとげとげしい。教えてくれるときは、普通に教えてくれるのに、今回の質問 は気に入らないようだ。その違いが何かは咲には分からない。 「そういうわけでは……」 ないとは言い切れない。夢だと思っていたいが、夢にしては、この世界はよく出来すぎてい る。 「何が不満なのだ? ここにいれば、自由気ままな生活ができるのだぞ。まぁ王さえいなけれ ば、だがな。現王は嫌いか?」 「いえ、嫌いでは。でも、ちょっと怖いというか」 「あの愛情を受け入れることが出来れば楽なのだがな。ふむ、だが逆に受け入れられなけれ ば拷問か」 賢者の重いため息が聞こえる。 「王のために一つだけ言っておこう。王は、黒獣以外の人がいる場所では、完全なる王だ。ま ぁ分からないだろうが、この国では、そういうシステムになっている」 賢者はチラリと時計を見る。時計まで元の世界と同じような作りで、同じように針を進めてい る。 「王が戻っている時間帯だ。行ってやってくれ。もうそろそろ自害を考えているかもしれん」 「え?」 訳が分からないまま部屋から追い出されてしまう。 (あの王様が戻ってきているのか……) そう考えると、部屋に入るのがためらわれたが、他に行くところもない。 そっと扉を開けると、灯が付いていた。そして、床に王が倒れている。 「きゃ!?」 驚き一歩飛びのいた後、賢者が言っていた"自害"という言葉が頭をよぎり、慌てて王にかけ よる。 「大丈夫ですか!?」 むくりと起き上がった王。どこも怪我はしていないようだが、その瞳からは涙が溢れかえって いる。 「咲、急にいなくなるから心配した」 「すみません、港に行っていて……」 王が瞬きをするたびに、大粒の涙が床に落ちてゆき、小さな黒い染みを作る。 「てっきり私は捨てられてしまったのか思った」 大の大人、しかも超絶美形のお兄さんが、子どものようにポロポロ泣く姿という者は、非日常 的すぎる。 何と言っていいのか分からず、「すみません」を繰り返していると、王は目を赤くしたままにこ りと笑う。 「いい。だって、私の元に帰って来てくれたから」 正確には、自分の部屋に戻って来ただけなのだが、咲に訂正する勇気はない。 「一緒にご飯を食べよう」 「えっと……はい」 「もう今日の公務は終わった。咲に早く会いたくて頑張った。港はどうだった? 楽しかった? 私に聞かせて欲しい」 にこにこと微笑みかけられて、悪い人ではないのだなと改めて思う。たわいもない穏やかな 会話に二人だけの夕食。それを目の前の王は「人生最大の幸せ」と言った。 次の日の朝、咲が起きるとやはり王の姿はすでにない。 一人で黙々と、少し冷めた朝食を食べ終えると、クローゼットの中を開けてみる。そこには、 無駄にキラキラ輝いている服や、大きく背中が開いた服などが並び、どれも咲には似合いそう にない。 仕方がないので、ずっと着ている制服に袖を通す。この国は、温度調節でもされているの か、汗はかかないし、空気が乾いていることもあり、衣類の汚れは全くと言っていいほど気にな らない。 鏡台の前に座り、髪をとかしていると、昨日の幸せそうな王の笑顔が頭をよぎり、賢者が言っ ていた謎の言葉がどうしても気にかかる。 (王様は、黒獣と一緒にいるとき以外は、完全なる王で、私といることが幸せ?) あの子どものように泣きじゃくる王が、普段はどういう生活をしているのか、全く見当がつかな い。 賢者の部屋に行くと、賢者は相変わらず本を積み上げた机に向かっている。しかし、近づい てみると、本を読まずに、朝食を取っている最中だった。 「本、汚れませんか?」 「他に食べる場所がない」 所狭しと置かれた本を見て納得しながら、賢者の食事が終わるまで待つことにする。他の部 屋にも、こんなにたくさん本を置いているのだろうか。近くのドアノブに手をかけると、「勝手に 触るな!」と怒鳴られてしまう。仕方がないので、深くフードをかぶったまま器用に食事をする 賢者を観察する。 「賢者さん、普段の王様ってどんな感じですか?」 賢者の食事が終わった頃、そう伝えると、賢者はどこか自嘲気味に呟いた。 「聡いな」 机の引き出しを開けると、中から携帯電話を取り出す。 「携帯電話まであるなんて……」 余りにファンタジーらしくなくて呆れてしまう。 「そう言うな。お前がいた世界と違って、ここでは非常に入手困難で高価な物なのだ」 賢者の指示により、ほどなくして老齢なメイドが呼び出された。薄紫色の髪を綺麗に束ね、紺 色のメイド服に身を包んでいる姿はとても上品だ。 「こいつに王の仕事を見せてやれ」 そう命令すると、賢者は咲に関心を失ったようだ。メイドの案内を受け、大きな広間の入り口 に案内される。 広間の中を覗くと、扉から赤い絨毯がまっすぐ伸びて、その先には玉座に座る王と、その足 元で平伏している人が見える。周囲には、白い生地に黒のラインで縁取りされた制服を着た兵 士たちが直立している。 「どうぞ中へ」とメイドが勧めてくるが、言った本人は入ろうとしない。 (入れない……) こんなに厳かな空気の中に、ふらふらと一般人が入っていける訳がない。玉座に座る王は、 美しい金色の髪を綺麗に結い上げ、端整な顔には気品のある微笑を浮かべている。 (綺麗……) 扉の陰から中を覗いていると、王と目が会った。何か反応を見せると思いきや、王は何事も なかったように、目の前の客人に面を上げるように指示を出す。 誰がどう見ても美しく洗練された王の所作に、うっとりと魅入っていると、王ではなく客の方 が、咲に声をかけてきた。 「おや、咲様」 透明な声が、まるで波紋のように静かに広間に広がってゆく。頭にターバンを巻いているが、 左顔から腕にまで流れるように彫られた青い刺青を見間違えるはずはない。昨日会った、商 船団の船長だ。 「ギインさん!」 隠れていた扉から姿を現した咲に、王はやれやれとため息をつく。玉座から、こちらに向か い手招きをして、ためらいながらも近づいて来た咲の頭にふわりと手を乗せる。 「咲、どうしたんだい? ここに来てはいけないよ。遊ぶなら他所に行きなさい」 王は、泣きも笑いもせず、ただ少しだけ困った顔をする。 まるで本当の猫でも相手にしているかのようだ。 「陛下、どうか私めのことはお気になさらず。咲様とは顔見知りでございます。それにしても、黒 き獣とのご契約、おめでとうございます。改めて調度品を贈らせていただきたい次第」 ギインの言葉に、王は見るもの誰もがハッとしてしまうような美しい笑顔を浮かべる。 「いらないよ。君から物を貰うと高くつくから」 目の前で話す人はいったい誰だろうか。王と同じ顔をしているのに、そこにはまったくの別人 がいる。もう咲のことなど視界に入っていないかのようだ。 王とギインに頭を下げると、咲は静かに広間を後にする。 (びっくりした……) 賢者の言っていた"完全なる王"と言う意味が少しだけ分かる気がする。玉座には、まさに理 想的な美しい王が座っていた。 (あれが王様の本当の姿?) だとしたら、あの情けない王は何なのだろうか。二重人格かと疑ってしまう。 部屋の前まで戻ってくると、送ってくれたメイドにお礼を言う。ソファに座り込むと、緊張してい たせいか、どっと疲れが押し寄せてくる。その後は、何もせず一日中ソファの上でゴロゴロしな がら過ごした。 何もしないことを誰にも注意されないということは、少しおかしな気分だ。 (これが家だったら、勉強しなさいって怒られてるよね) 注意をする人がいない世界では、のびのびと羽を伸ばすことができる。 時計の針が、午後四時を指して、咲のお腹が空腹を訴えてきた頃、ガターンと勢い良く自室 の扉が開いた。咲が驚き慌てて起き上がると、そこには美しい王がいた。しかし、部屋に一歩 足を踏み入れると、わーいといった感じで嬉しそうに両手をあげる。 「咲、どうしたの? どうしたの?」 「えええ?」 それは咲の台詞だ。王は、嬉しそうに咲の隣に座ると、にこにこと笑う。 「咲が急に広間に来たから、私は心臓が止まるかと思った」 興奮気味に話すと、ぎゅうと抱きしめてくる。 「咲が私に会いに来てくれるなんて、嬉しすぎて倒れそうだったよ」 「そうは見えませんでしたけど」 広間での王は、こんなに表情をくるくると変えなかった。 「そう? ギインの前だったからかな? ギインに隙を見せると、いいように扱われてしまうから ね」 「仕事中と全然違いますね」 「そうかな?」 自分ではその違いに気がついていないのか、心底不思議そうな王。 「うーん、感情を余り出さないように育てられているから、そうなのかもしれない。ここでだけは、 許されているんだ」 「え?」 王の言葉にどきりとする。 「私は黒き獣の前でだけ、自分の感情のままに動くことを許されているんだ。そういう契約だか ら」 「……契約?」 何か聞いていけないようなことを聞いてしまったような気分だ。 「こんな話はつまらないよ。咲の話を聞かせて? そうだ、一緒にご飯を食べよう」 にこにこと微笑む王は、昼間とはまったくの別人だ。 「どっちが本当の王様ですか?」 「私自身分からないけど、私は咲といる時間が一番幸せだよ。とても楽しくて温かい。ということ は、こっちが本当かな」 (苦しい……) 何故だかよく分からないが、急に胸が締め付けられる。咲へ向けられる偏愛。その愛の正体 を垣間見た気がする。 (完全なる王に自由なんてない) その王が唯一ありのままで過ごせる時間が今で、過ごせる部屋がここで、過ごせる相手が咲 だ。 「大好きだよ」 それは当たり前の感情ではないか。 (この世界で、唯一私が王様の友達なんだ……) 胸につかえていた違和感が、溶けてなくなってゆく。 「咲、この世で一番大好きだよ」 満面の笑みで抱きついてくる王に、もう少しの恐怖も感じない。 (なんだろうこの気持ち) それはただの同情なのかもしれない。それでも、咲は昨日よりも王のことが好きになってい る。 (でも、王様がこんなにも好きって言ってくれるのは、私が黒獣だからだよね) そのことを忘れてはいけないような気がする。 (前の王様と前の黒獣さんはいったいどういう関係だったんだろう? 私と同じ黒獣なんだか ら、たぶん私と同じ世界から来た人だよね?) 前の王も、目の前の王と同じような人だったのだろうか。聞いたところによると、獣の方はか いても、前の獣について詳しく話してくれない。もしかすると、あまり仲が良くなかったのかもし れない。 「王様は、前の黒獣さんのことを知っていますか? どんな人でした?」 王が首をかしげると、肩からサラサラと美しい髪が流れ落ちてゆく。 「とても良くできた人だよ。自分にも他人にも厳しいけど、その厳しさは、相手のことを思っての ことだね。良いことは良い、悪いことは悪いと胸を張って言える人。前王は、そんな獣を愛して いたし、誇りに思っていたよ。私は、自慢のようなのろけ話をよく聞かされたっけ」 こぼれ落ちる微笑。その笑顔に安堵する。 (王様と、前の黒獣さんは仲が良かったみたい) 王の心の支えが自分だけではないことに、少し安心してしまう。 「どうしてそんなことを聞くの?」 「前の黒獣さんのことを知りたくて……」 王は「咲が知りたいのなら、何でも教えるよ」と言いながら、ぎゅうと抱きしめてくる。 「あ、あの」 困って声をかけると、優しい眼差しを向けられる。 「でも、ものを聞くなら賢者だね。彼は何でも知っているから。さぁ、一緒に夕食をとろう。仕方 がないから、賢者も混ぜてあげる」 王は、少し残念そうに身体を離すと、一度だけ頭をなでてくる。王に対しての恐怖感はだいぶ 薄れたが、この猫かわいがりは恥ずかしすぎて、慣れる日が来るとは思えない。 二人そろって賢者の部屋に行くと、賢者は嫌そうな顔をする。正確には、フードで隠れて表情 が見えないので、ひどく嫌そうな態度を見せた。 「何なのだ、お前らは……食事など二人で取れ。私を巻き込もうとするな」 賢者の刺々しい言葉に、王は頬を膨らませる。 「私だって、別に賢者となんて食べたくないよ。でも、咲が知りたいことがあるから、賢者のとこ ろに来ただけ」 賢者は、やれやれとため息をつくと、引き出しから携帯電話を取り出し、部屋に三人分の食 事を運ぶように指示する。 程なくして、三人のメイドが静かに食事を運んできた。 賢者は、食事中もフードを外そうとしない。フードを汚さないように、器用にスープを口に運ん でいる。 咲がいつ、前の黒獣のことを聞こうかと悩んでいると、先に賢者が口を開いた。 「王よ、咲とはうまくいっているのか?」 「もちろん。私は大好きだよ」 王様は、ポテトサラダをスプーンでぐちゃぐちゃとかき混ぜている。 「お前だけが好きでも仕方ないのだが……」 なんとなく賢者がこちらを見ているような気がする。 「私も、王様のこと嫌いじゃないです」 口にして改めて思う。 この感情は決して恋ではなさそうだが、王の言動の理由を知ってしまったし、触れられても不 快ではない。それは、人として王のことが嫌いではないということだろう。 フッと賢者が笑う。 「良い獣だな」 「うん、私の獣だからね」 「もうそろそろ契約をしてもいいのではないか? 咲は優秀だ。私がいなくても大丈夫だろう」 「まだ三日しかたっていないよ」 二人の会話が何を指しているのか分からないが、急に不安になってくる。 「あの、賢者さんはどこかに行ってしまうのですか?」 「何か問題があるか?」 どこまでもクールな賢者の声。対照的にのんびりとした優しい王の声。 「咲は、賢者にずっといて欲しい?」 この不可思議な世界で、様々なことを教えてくれる賢者。数少ない顔見知りだし、唯一頼れる 人でもある。 王の言葉に賢者は眉を潜める。 「やめろ、答えるな咲。お前が言うと洒落にならんぞ」 「で、でも……」 「俺はこの城に永久に監禁されるつもりはない」 賢者の物騒な言葉に驚いてしまう。 「そんなことはしないよ」 「近いことはするだろうが」 王は、否定せずにフフと穏やかに笑う。 「それがこの国の永続に必要なら、ね」 「嫌なやつだ」 「国を思う良き王さ。それに私は咲以外に嫌われても痛くも痒くもないからね」 なぜだろう。微笑を浮かべ、のんびりと話す王の言葉に、寒気がするのは。 「そのための獣か」 「まぁそういうことも含まれているのだろうね」 賢者はやれやれとため息をつく 「咲、覚えておけ。獣は王の心の支えだ。いや、心を持たない王の唯一の感情と言ったところ か。お前が愚かだと、時として王も腐る」 「そんな……」 王は、ポテトサラダを横に置き、ぎゅうと咲を抱きしめる。 「賢者は意地が悪い。大丈夫だよ、大丈夫。咲は好きなことをしていたらいいよ、ただ私のそ ばを離れないで。必ず私の元へ帰ってきて、それだけでいいから」 その言葉に、また胸が痛くなる。 (ずるいよ) 「ずるいな、お前たち王族は。そうして、獣の心を縛る」 自嘲するような笑みが、フードの下から見えている。 「可哀想な職業だろう?」 賢者の言葉に、思わず頷いてしまう。 「この国は、王を対国外としての外交官の位置に据えている。王の役目についた者は、この国 で一番美しい外見に、非の打ち所のない所作が求められる。驚いたことに、世襲制ではない。 そもそも余り人として扱われない。名前もない。やつは王だ。その代わり、一生最高の衣食住 を与えられ、死ぬまで金に困ることはないがな」 賢者は、言葉を区切ると、うつむいてしまう。 「王の幸せは、ほぼ黒獣の存在で決まってしまう。だから、王の獣が愚かだと、王は……王の 幸せは……」 堅く唇をかみ締める。何かを後悔するように。短いため息が聞こえた。顔をあげた賢者はい つもの賢者に戻っている。 「で? 何が聞きたいのだ」 尋ねられて口ごもる。なぜだか、賢者は過去の黒獣を憎んでいる。そういう気がする。 「えっと、あの、先ほど言っていた"契約"って?」 慌てて質問を変えたが、賢者は気にした様子はない。元から、余り他人のことを気にしない 性格なのだろう。 「ああ、そういえば言っていなかったな。お前は王の獣だが、まだ正式ではないのだ。私の管轄 下にいるうちは、仮なのだ。王と契約を結んだのち、正式にこの国の王の獣となる。といって も、何かが劇的に変わるわけではないがな」 「その契約って何をするんですか?」 賢者にしては、珍しく答えるまでに少しだけ間があった。 「それは、王が教えてくれるだろう」 「え? 難しいことなのですか?」 賢者は意味もなく斜め右上に視線を向ける。 「いや、そうではない」 「じゃあ、怖いこと?」 「まぁ、人によるかもしれん」 「え? 気になります、教えてください!」 歯切れが悪い賢者なんて、始めて見た。 「俺の口からは言えん。言ったら、混乱を招くので禁止されている」 「そう言われると、余計怖いんですけど……」 「大丈夫だ。お前が嫌がることを王は決してしない。嫌なら嫌だと言えばいい。ただ、お前らが 契約しないことには、俺はいつまでたっても隠居できんからな。俺としては、できるだけ早く契約 を結んでもらいたいものだ」 「じゃあ、契約をしたら、賢者さんはいなくなってしまうんですね」 心細くなっていると、ふわりと頭をなでられた。この世界に来てから、皆に頭ばかりなでられて いるような気がする。 (それは私が獣だから?) 「お前は素直で良いやつだ。大丈夫、俺がいなくても皆がお前を助けてくれるだろう」 なんとなく、獣ではなく人間扱いされているような気がして、思わず顔が赤くなる。 「何はともあれ、お前はお前のままでいい。王も言っていただろう? お前は好きなことをしてい たらいいと」 咲の頭をなでる賢者を、王が恨めしそうに眺めている。 (王の幸せは黒獣? でも、私は好きなことをしていたらいい……。本当にそれでいいのか な? 契約って? 契約したら、もしかして、元の世界には帰れなくなるのかな?) ぐるぐると疑問が頭をめぐるが、混乱するばかりで、考えはまとまらない。 「賢者さん、私、元の世界に帰れるんですか?」 「どうしてそんなことを聞く?」 「だって、帰れないと困るじゃないですか! 向こうには、家族だって友達だっているんですよ。 きっと皆心配しています。この世界は嫌じゃないけど、ずっとここにいる訳には……」 そっと背中から抱きしめられる。見ると王が静かに涙を流している。 「咲は私を置いて、元の世界に帰ってしまうの?」 捨てられた子犬のように濡れた瞳。 「咲が帰ってしまうと、私はどうしたらいい?」 「え? どうしたらって……」 「死んでしまう」 王の言葉に心臓が跳ね上がる。それは、冗談でも嘘でもなく、真実を述べているようにしか 聞こえない。 「咲がいなくなったら、私は死ぬ」 「そんな……」 いつの間にか、とんでもないことに巻き込まれてしまったのではないだろうか。カタカタと震え る王の身体からその恐怖が伝わってくる。自分の存在一つで、人が死ぬかもしれないという事 の重大さに、咲の足まで震えてくる。 「まったく王族はずるい生き物だ」 賢者にとって、それは他人事だ。 「咲、帰れるから安心しろ」 「え?」 「この世界から、元の世界には帰れる。本当に帰りたくなったら帰り方を教えてやる。まぁその 時は、王が死ぬかもしれんがな」 皮肉な笑みを浮かべて、どこか楽しそうな賢者。 「今すぐ帰るか?」 泣きながらすがりつく王の前で、帰るなんて言えない。咲は小さく左右に首を振る。 「そうだな、出来る限り居てやればいい」 泣きながら喜ぶ王と、満足そうに頷く賢者を見て、騙された気分になるのはどうしてだろう。 つづく 次へ 「王の獣」TOPへ |