カーテンから漏れた光で、目が覚めた。咲の隣にいたはずの王は、いなくなっている。

(夢……?)

 全てが夢だと思いたが、相変わらず目の前には豪華な部屋が広がっている。
 フラフラした足取りで、寝室から出ると、テーブルにはすでに朝食が用意されていた。

 テーブルの中心には、折りたたまれた紙が置いてある。そっと手を伸ばし広げると、そこには
びっしりと文字が書き連ねられている。

 おはようから始まり、咲に出会えてどれほど嬉しかったかという感想。そして、君を起こしたく
ないから、声をかけずに仕事に行くことへの謝罪に、一緒にご飯が食べられなくて残念だという
未練。最後には、恥ずかしげもなく愛の言葉が書き綴られている。

 それは、恋人から貰うと感動するようなラブレターなのかもしれない。しかし、昨日知り合った
ばかりの他人から貰うとストーカーじみている。

(こ、こわーい……)

 重すぎる内容の手紙を丁寧にたたむ。心を落ち着かせるために、ハンガーにかかっている
着なれた自分の制服に袖を通す。

 チラリと見たテーブルの上には、例の置き手紙。そのまま置いておく訳にもいかず、悩んだ
末、ポケットにとりあえず入れておく。
 朝食も一人用とは思えないほど豪華で多い。食べきれず残してしまうことをもったいないと思
うが、どうすることもできない。

 食べ終わると、何もすることがない。仕方がないので、咲は賢者の部屋に行くことにした。昨
日、王に連れて行かれたので、一人でもたどり着けそうだ。

(たぶん、こっち)

 左を向くと廊下の端から誰かが走ってくる。段々と近づいてくるその人は、意外にも咲の見知
った顔だった。遠くからでも目立つあの赤い髪には見覚えがある。

「藤井さん?」

 咲が声をかけると、藤井はぴたりと止まる。

「あれ、咲さん! どうしたんですか、こんな所でって、ああ!? ここに住んでいるんでした!」

 ははと笑う藤井は、まるで少年のようだ。

「あ、咲さん! 部長知りませんか、部長!」
「部長って……日浦さん?」

 昨日、市役所のようなところで、質問攻めにあった眼鏡をかけた鋭い視線の男を思い出す。

「あ、違います、違います! その部長じゃなくて、もっとこう、いかつい肉食獣のような!」

 肉食獣のようなという言葉に、狼のような雰囲気を持つ掃除のお兄さんが頭をよぎる。

「えっともしかして、み、み……みず? みずがき?」

 確か珍しい苗字だったような気がする。

「そうそう、瑞垣部長です! この城のどこかで掃除しているはずなんですが、どこにもいなくっ
て! またサボっているのかなぁー」

 その言葉に、ピンと来る。

「もしかして……」

 咲は慌てて部屋に、戻ると、ソファの上のやけに盛り上がった毛布をどける。

「ああ!? 部長!」

 そこには、瑞垣が狭苦しそうに丸まっていた。

「気がつかなかった……」
「部長、部長ー! 起きてください、来ましたよ!」

 藤井に激しく揺さぶられ、瑞垣は不機嫌そうに目を開く。

「あん? なんだ、藤井……」
「何だじゃないですよ! 仕事です! 賊です例の海賊!」
「なにぃ!?」

 とたんに瑞垣は、勢い良く起き上がる。

「わりぃ咲! 世話になった、また来るわ!」

(何の世話もしていませんけど)

 というか、勝手に部屋に侵入しないで欲しい。この部屋に鍵はないのだろうか。そもそもいつ
からそこにいたのか。昨日からいたということはないと思うので、おそらく今朝、王が出ていった
後から、咲が起きるまでの間だろう。
 藤井は瑞垣に代わり、「すみません」と、咲にペコペコ頭を下げている。

「行くぞ、藤井!」
「はい!」

 嵐のように去ってゆく二人。遠ざかってゆく二人の背中を眺めながら、なんとなく、昨日よりこ
の国に慣れ始めていることに気がついて、自らの順応能力の高さに驚いてしまう。
 賢者の部屋に行くと、また本を読んでいる。

「あの、おはようございます」

 咲が扉の隙間から顔を出し挨拶すると、賢者は「入れ」と言ってくれる。天井まで伸びる本棚
を、見上げながら賢者の側に行くと、「どうした?」と声がかかる。

「いえ、別に用があるわけではないんですが、他に行くところがなくて」
「そうか」

 賢者は、それきり本を読む作業に戻ってしまう。

 賢者の部屋をきょろきょろしながら観察する。咲の部屋と同じように、他にも部屋があるらし
く、本棚がない隙間には扉がある。扉の前にも本が積まれてしまっているので、きっとまたいで
部屋に入るのだろう。その中でも、一切本が置かれていない扉は、トイレか寝室に続いている
のかもしれない。
 全てが真っ白な咲の部屋とは違い、こちらのイメージカラーは茶色だ。落ち着いた言動の賢
者にとても良く合っている。

「賢者さん、ここはどこなんですか? 言葉も文字も同じなのに、日本じゃないですよね?」
「さぁ、どこだろうな。お前はどこだと思う?」

 聞いているのはこちらの方なのに、賢者は質問に質問で返してくる。

「賢者さん、誤魔化さないで真面目に答えてくださいよ!」

 書物から顔をあげた賢者は、とても不快そうだ。フードで隠されて表情は見えないのに、怒っ
ていることが雰囲気で分かる。

「咲、俺はお前の世話係だが教師ではない。ここは学校ではないんだぞ。知りたいことがある
のなら自分で調べろ。幸いなことに、お前が言うとおり、言葉が通じるし、文字も一緒なのだか
らな」

 賢者は、これ以上話しかけるなとでも言いたげだ。

(ちょっとくらい教えてくれてもいいのに)

 本を読む作業に戻ってしまった賢者に、心の中で文句を言う。他にすることもないので、仕方
なく賢者を観察していると、ふと、先ほどの藤井の言葉が頭に浮かぶ。

(そういえば、海賊が来たとかどうとか言っていたよね?)

 話しかけたら怒られるだろうなと思いつつ、賢者に声をかける。

「あの、ここは港町なんですか?」
「どうしてそう思う?」

 怒りはしなかったが、やはり賢者は質問になかなか答えてくれない。

「さっき、藤井さんから海賊が来たって聞いたから。海賊といえば、海かなって」
「いや、町の周りは砂だらけだ。この国は砂漠の真ん中にポツンとある」

「え? でも、暑くないし、ホコリっぽくもないですよ?」

 砂漠といえば、灼熱の太陽に砂嵐のイメージ。しかし、レンガ作りのおしゃれな通りには、砂
ぼこり一つたっていなかった。

「町全体に、フィルターのようなものがかけられている。舐めてかかって、何の準備もせずに外
に出ると、確実に死ぬぞ」

「じゃあ、海賊って、砂漠の盗賊のことですか?」
「いいや、正確には商人だ。ただ、やり方があくどくてな。金さえ積めば何でも手に入れるという
のが、やつらの流儀だ。それこそ、何でも手に入るぞ。欲しがりさえすれば、何でも……な」

 意味ありげな言葉だが、咲が心惹かれることはない。美味しい話には、必ず危険が伴うの
だ。そんなこと、幼稚園児でも知っている。

「どうして、海賊なんでしょう?」

 砂と海が繋がらなくて、どうしてもしっくり来ない。

「お前は夜の砂漠を見たことがあるか?」

 相変わらずフードで表情は分からないが、賢者はどこか遠くを見ているような仕草をする。

「まるで海のようだ」

 そう呟いた賢者の口元は、少し笑っているように見えた。今更ながらに、フードの下に隠され
た顔が気になったが、咲がそれを口にする前に、賢者の限界が来たようだ。
 勢い良く本を閉じると、深いため息をつく。

「お前はずっとこの部屋にいるつもりか? 正直、迷惑なのだが? そんなにこの世界のことが
知りたかったら、自分で見て来るといい。治安は悪くないが、念のために警備課に人を寄越す
ように連絡してやるから、自分の部屋で待っていろ」

 シッシッと犬でも追い払うかのように、追い出されてしまう。あれだけ咲に執着を見せていた
王も、昨日の夜から、全く姿を現さない。

(まぁ、そんなものよね)

 初対面で好きだの愛しているだの、胡散臭くて仕方がない。
賢者に追い払われて、言われるままに大人しく部屋で待っていると程なくしてノックが響いた。

「失礼します」

 現れた男は、まさしくボディガードといった様子で、黒いスーツをきっちりと着こなしている。ひ
どく姿勢がいい。
 長身で短髪の男の髪色は深い緑だ。その髪色を見て、改めてここは異世界なのだと思う。
男は黒縁眼鏡をかけているが、眼鏡よりサングラスの方が似合いそうだ。
 咲が固まっていると、男が一歩前に出た。

「政総部警備課の谷口です。護衛に当たらせていただきます」

 硬く低い声の挨拶に、咲が恐々と頭を下げると、谷口は部屋の扉の前に直立する。腰から黒
く長い棒のようなものがぶら下がっているのは、護身用の武器なのかもしれない。
黙り込み、それきり身じろぎもしない谷口。

(どうしたらいいんだろう?)

 辺りを見回しても、助けてくれる人はいない。こんなに怖そうな人が部屋にいるだけで緊張し
てしまう。

「えっと、その、外に出たいんですけど……」

 しどろもどろになりながら訴えると、谷口は片手で扉を開けて、「どうぞ」と。

(えっと、えっと?)

 うながされるままに、廊下に出たものの、出口すら分からない。谷口は、後ろに控えたまま何
も言ってくれない。
 今まで生きてきて、護衛をされたことなんてない。いったい何をどうしていいのか、分からず涙
目になってしまう。

「すみません、出口ってどこですか?」

 結局、谷口の後ろを咲が歩くことになる。城門まで行くと、門にいた兵士たちが、こちらに向
かって一斉に敬礼をする。

(変な感じ)

 咲自身は、何も変わっていないのに、ある日突然、周りだけが変わってしまった。普通の女
の子が、お城に住み、警護され、敬礼されるおかしな光景。
 妙に感じながらも、少しだけわくわくしてしまうのは、きっとこの生活が、女の子なら誰もが一
度は夢を見る、絵本の中のお姫様のようだからに違いない。

 城門を出ると、レンガ作りの町が広がっている。来たときには気がつかなかったが、お城は
少し高い位置にあり、町全体が緩やかな坂道になっているようだ。

「どちらに行かれますか?」

 谷口に声をかけられ、慌てて返事をする。

「あ、えっと海賊が見たいです!」
「今日来た商船ですね」

 幾何学模様の大通りをまっすぐ行くと、あの市役所にたどり着き、それを追い越してさらに歩
いてゆく。

 見慣れない町を咲がきょろきょろしながら歩いて行くと、その先々で、うわぁと小さな歓声が起
こり、住人達はひそひそ話をする。「王様の獣」とか「黒獣」という声が聞こえてくるが、それほど
嫌な気分ではない。それは、町の人たちが、皆、笑顔で好意的に感じられるからかもしれな
い。
 そんな人たちのカラフルな髪色を見て、ここでは、本当に黒髪が珍しいのだと納得する。
 咲が黒髪というだけで、非常に目立ってしまっている。

 遠巻きに噂話をされ、誰も近づいてこない中、一人の少女が近づいて来た。白いフリルとリボ
ンが、たくさん付いたブラウスとスカート。それらは、淡いピンク色の髪を持つ少女によく似合っ
ている。まるでふわふわの綿菓子のようだ。
 谷口が片手を挙げ、押しとどめると、少女は可愛らしいしぐさできょとんとする。

「なぁ、おねぇちゃんは道案内してもらってるん?」

(え? 関西弁?)

 少女は大きな桃色の瞳を目いっぱい広げて、咲を興味深そうに見ている。

「なぁなぁ、このおっちゃん、道に詳しいん?」
「え? どうだろう?」

 谷口は、問題ないと判断したのか、我かんせずといった様子で話に入ってこない。

「港ってどっち?」
「え…分からない」

 助けを求めるように谷口を見ると、「これから向かう所です」と教えてくれる。

「一緒に行っていい?」

 どこか不安げな少女。

「もしかして、迷子?」

 少女がこくんと頷く、頭の上の大きなリボンも一緒に揺れる。きっと今まで心細い思いをして
いたのだろう。谷口に案内される咲を見て、自分も案内してもらおうと思ったのかもしれない。

「じゃあ、一緒に行こっか」

 微笑みかけながら、手を差し出すと、少女はきょとんとする。

「あれ? 手を繋ぐの嫌?」

 咲の言葉に、ブンブンと激しく首をふると、恐る恐る手を差し出す少女。その小さな手をふわ
りと握ると、少女は顔を赤くし、へへっと笑う。
 その笑顔を見ていると、なぜかこちらまで嬉しくなってしまう。

「おねぇちゃんは、何て名前なん?」
「咲だよ、貴女は?」

「カナ」
「カナちゃんかぁ」

 カナはにこにこ笑っている。時々、嬉しそうに、繋いでいる手を前後に揺らす。

「なぁ、このおっちゃん、もしかしてボディガード? 咲ちゃんは偉い人なん?」
「ううん、全然、偉くないよ」

 その言葉に、谷口がピクリと反応したが、咲とカナは気がつかない。

「じゃあ、カナと友達になってくれる?」
「うん、いいよ」

「本当に!?」
「うん」

 カナは嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねている。そんなカナが「あ、船や」と指を指した方角に、
船のマストの先端が見えた。
 さらに大通りを進んでいくと、建物に隠れて見えなかった船の全体像がだんだんを見えてく
る。それは予想を遥かに超えた巨大な船だった。

「本当の本当に船なんだ」

 船の後ろには、広大な砂漠が広がっている。おかしな光景のはずなのに、違和感がない。風
に吹かれてできた砂のアーチが、遠めに見るとまるで波のように見えるからかもしれない。港
には、咲達以外にも大勢の見物客が集まっていて、荷を降ろしている船を遠巻きに眺めてい
る。

「カナちゃんは、ここに何の用事が……」

 ざわりと後方が騒がしくなった。まるで、波が引いていくかのように、人垣が左右に綺麗に分
かれてゆく。その先には、黒スーツを着込んだ集団が並んでいる。いかつい男たちは、肩で風
を切りながら堂々と歩く。

(うわ、怖……)

 外見はもとより、雰囲気が怖いのだ。まともな集団とは思えない。

(こういうのには、関わらないほうがいいわ)

 咲も道の端に下がろうとすると、その横を小さな影がすり抜ける。

「カナちゃん!?」

 とっさに後を追いかけると、カナは黒服集団に立ちはだかり、睨みつけている。

「なんやねん! また、いちゃもんつけに来たんか!」

 先頭に立っていた大柄な男が、「ああーん?」と言いながら、黒縁眼鏡を指で押し上げる。

(黒縁?)

 良く見ると、黒服集団は、全員黒縁眼鏡をかけていて、その強面の外見の中で、眼鏡だけが
妙に浮いている。

「この無能暴力集団が! 清掃係なら、大人しく掃除だけしとけや!」

 男は、スチャっとメガネを外すと、丁寧なしぐさで隣にいる部下に渡す。

「壊すなよ」

 その声は真剣だ。そして、カナの前に座り込む。

「いーか、よく聞けこのクソガキが! 俺たちは清掃係じゃねぇ! 警予防政策総合対策部、略
して政総部だ、このやろー!」

(あれ?)

 その台詞をどこかで聞いた気がするのは気のせいか。
 柄の悪い男の顔を見ると、雰囲気は違うが確かにどこかで見た顔だ。

「あの、瑞垣さん?」

 咲が声をかけると、瑞垣は「ああん?」とキレながら振り向き、声の主を確認したとたんに、強
面が破綻する。

「お? 咲じゃねーか? どうした、こんなところで?」

 バンバンと肩を叩かれて、少し痛い。

「あの、えっと、海賊を見に……」
「海賊なら、ここにいるじゃねーか!」

 瑞垣は、カナをほれと指差す。

「え?」

 カナは、瑞垣の指を叩き落すと、こちらに悲しそうな顔を向ける。

「カナは海賊やない! 海洋商船団! 砂漠の海で商売している、商売人やで?」

 そういえば、賢者も商人がどうとか言っていたような気がする。

「そうなの? ごめんね、カナちゃん。私、この国のこと全然分からなくて」
「いいよ、咲ちゃんやったら許してあげる」

 カナはにこりと笑ってくれる。

「かー!? 何だそれ、仲良しこよしってか? 海賊に餌付けされてんじゃねーぞ!」

 瑞垣の言葉に、カナはくわっと目を見開く。

「はぁん!? おっさん、また眼鏡かち割られたいんか、ボケェ!」

 カナの一言で、いかつい黒服集団が一瞬ビクッとする。

一歩下がった瑞垣は、「く……眼鏡を狙うとは、卑怯な」と舌打ちをしている。

「カナ」

 それは、とても穏やかで透き通るような声。
 声の方を振り返ると、鮮やかな青い髪を持つ男が佇んでいた。その髪から、まるで花びらで
も舞うかのように、真っ青な刺青が、顔反面を彩り、左腕にまで舞い散っている。

「船長!」

 カナは、嬉しそうに飛び跳ねると、男の腕に抱きつく。

「カナ、休憩時間は過ぎているよ」
「ごめん、すぐに戻るわ! 咲ちゃん、またな」

 元気いっぱいに手を振ると、カナは船の方に走ってゆく。それを見送った青い髪の男は「咲ち
ゃん?」と不思議そうに呟き、咲を見た。藍色の瞳は、まるで凪いだ海のようだ。

「ああ、新しい黒獣が現れたのですね」

 穏やかな微笑み。しかし、それは完璧すぎて、どこか作られたような雰囲気がある。
瑞垣は、男の前に立ちふさがった。先ほどまで咲に笑いかけていた人と同じ人物とは思えな
い。鋭い雰囲気に、観客達も飲まれて物音ひとつ出そうとしない。

「ギイン、テメェ何しに来た?」
「商売に」

 ギインと呼ばれた男は、少しも怖がった様子を見せない。その余裕の態度が、よりいっそう瑞
垣を熱くさせる。

「お前達が来ると、何かがなくなるんだよ」

 殺気を含む声に、周囲の観客たちは身をすくめる。しかし、ギイン船長はにこりと笑う。

「おや、おかしいですね。物を売っているのだから、増えているはずなのに?」
「っのやろう!」

 殴りかかろうとする瑞垣を、部下達が必死に抑えている。

「はは、怖いですね」

 そう言いながらもギインは、少しも怖がっていない。

「余りに怖いから、つい手が滑って貴方の眼鏡を握りつぶしてしまいそうだ」

 ハッとなった瑞垣は、眼鏡を預けていた部下を見ると、部下の手から眼鏡がなくなっている。

「お前、俺の眼鏡はどうした!?」
「あれ!?」

 驚きの声と共に、容赦なくパキッと甲高い音がする。
 ゆっくりと開いたギインの手の中には、真二つに割れた黒縁眼鏡。

「うわぁあ!? 部長の眼鏡がやられたぁああ!!」
「ぎゃー!? 新調したばっかりなのにぃいい!」

 たかが眼鏡。しかし、部下たちは叫び、眼鏡を潰された瑞垣は真っ青になっている。

「ま、まだ前回のペナルティも消化できてねぇのに……」

 わなわなと怒りで震えている拳。ギインは、とどめとばかりに、「売られた喧嘩は買います
よ?」と微笑を浮かべる。

「売ったのはテメェだぁあ!!」

 ギインの襟首をつかみ殴りかかろうとした瑞垣。

「きゃ!?」

 二人の近くにいた咲が、喧嘩に巻き込まれそうになったとたん、背後から影が飛び出し、瑞
垣とギインの間に鞘に収められたままの刀が割って入る。

「瑞垣部長、おやめください」
「谷口!」

 護衛の谷口は、ギインにも静かに声をかける。

「ギイン殿もここはお引取りを」
「なるほど、警備課ですか。となると、そこの黒獣は今度こそ本物ということですね」

 刀を持った相手に鋭く睨みつけられてもギインは穏やかなままだ。下がらない両者を見て、
谷口が何かを読み上げるように淡々と言葉を発する。

「憲法第五十六条により、黒獣を害するものはいかなる理由があっても処罰されます。決行す
るのは警備課です。個人による刑の執行は非人道的ですが、黒獣法に基づけば、その場での
殺害も認められております」

 瑞垣は舌打ちをすると、両手を上げる。

「ちっ、偉そうに……俺の配下じゃねーかよ、お前」
「すみません、部長。警備課は、黒獣警備中のみ政総部を離れ、独自勢力となります故」

 礼儀正しく頭を下げる谷口。ギインは、品定めをするかのように、咲の観察を始めている。

「ふむ、今までの黒獣とは違って、性格が良さそうですね。ふふ、高く売れそうだ」

 そのとたんに、ギインの首に音もなく抜き身の刃があてられる。

「ギイン殿、その発言は侮辱罪にあたります。もしくは、誘拐未遂罪で連行いたしましょうか?」
「冗談ですよ。咲様、何かお困りのことがありましたら、ぜひこの海洋商船団をご利用ください」

 ギインは商人らしいうやうやしい態度で頭を下げた。そして、割れた瑞垣の眼鏡を、咲の手の
ひらにそっと乗せる。
 瑞垣が激しく舌打ちをしたが気にする様子もなく、ギインは船の方へと歩きだす。

「ああ、ちくしょう!」

 荒れている瑞垣に、咲がこわごわと眼鏡を差し出すと、急にガクゥと肩を落とす。

「うう、またやっちまった……」

 少し離れていた黒スーツの集団も、わらわらと近寄ってくる。

「部長、これでもう三十九個目ですよ」
「日浦部長、怒るだろうな……」

 部下達の声に、瑞垣はわぁと頭を抱える。

「だいたいどうして俺達が眼鏡をかけないといけねぇんだよ!?」
「まぁ、だってねぇ?」

「俺達、見た目が怖いから」
「子どもが見たら確実に泣きますぜ?」

 いかつい男たちに不釣合いの黒縁眼鏡は、どうやら外見の怖さを緩和させるためにつけさせ
られているらしい。
 そういえば、この場にはいないが、人の良さそうな藤井は、眼鏡をかけていなかった。
 瑞垣は、あきらめたように咲の肩をポンと叩く。

「ペナルティが加算されたから、また咲のとこに邪魔するわ」
「はい?」

 落ち込む瑞垣の変わりに、周囲の部下達が教えてくれる。

「俺達みたいに、国益所で働くやつらは、支給品を壊した場合、大小のペナルティが課せられ
るんだよ」
「あ、それでお城の掃除を?」

 初めて会った時、瑞垣は城の掃除をしていた。

「まぁ、それは俺達専用のペナルティみたいなところがあるけど。一番過酷で、一番顔見知りに
会うから、一番情けない思いを味わうという、日浦さん特有の嫌がらせでもある」

 一同がうんうんと腕を組みながら頷いている。

「ちなみに日浦さんとは、国益所の総務部長だ。総務部は、総合事務部の略で、総務課と人事
課と経理課をかねている。要は、物と人と金を掌握している最強の部署だ」

 一度にいろんなことを説明されても、すぐには理解できない。

(日浦さんって確か、私がこの世界に来て一番初めに会って、いっぱい質問してきた人だよ
ね? 偉い人だったんだ)

 うんうんと頷きながら、咲が教えてもらったお礼を言うと、黒服集団はなぜか少し照れる。

「いやぁ、俺達が、人に説明するのってめったになくね? いっつも説教される側だし」
「うーん、今までにない新感覚だな!!」
「つか、黒獣が頭下げたぞ! 今度の黒獣は性格がいいな!」

 気がつけば、咲は服黒集団に囲まれてしまっている。困っていると、護衛の谷口が割り込ん
でくる。

「群がるな、片っ端から斬るぞ」
「ええー!? 谷口課長そりゃないっすよ!」
「横暴だ!」

 やいのやいの野次が飛んだが、谷口がにこりとも笑わないので、次第に静かになっていく。

「てめぇら、くだねぇこと言ってないで帰るぞ!」

 瑞垣の号令で、黒服集団は、完全に静かになった。
 瑞垣は咲を振り返ると、まだ荷下ろしを続けている船を指す。その表情は、真剣そのもの
だ。

「咲、あんまあいつら信用すんな。あいつらの信用は金で買えるし、金で消えるぜ」

 そうは見えなかったが、咲は大人しく「はい」と返事をする。

「今度の黒獣は素直だ」

 ニカッと爽やかな笑みを浮かべる瑞垣。

(前の黒獣ってどんな人だったんだろう?)

 ふと気になった。






つづく



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