いつの間に眠ってしまっていたのだろうか。気がつけば、咲はソファの上で丸くなっていた。 日は暮れてしまったようで、部屋の中が薄暗い。目が覚めても変わらない光景に、落胆しつつ も心のどこかでは納得し始めている。 お腹がすいているのだ。これが夢だったら、どこまで現実的な夢なのか。 ソファから身を起こすと、すとんと何かがずり落ちる。 (毛布?) 眠っているうちに、誰かが掛けてくれたようだ。そんなことをするような人には見えなかった が、賢者だろうか。 「ご飯……ううん、その前に明かり、明かり」 この薄暗闇の中、照明のスイッチを探さなければならない。 (あれ? そういえば、ここって電気? もしかして、ろうそくなんて言わないよね?) 分からないので、スイッチを探すことは諦めて、隣に住んでいるという賢者の部屋に行くこと にする。 咲がソファから立ちあがると、薄暗闇の中から、急に黒い影が覆いかぶさってきた。 「ひぃ!?」 「起きたね」 そう囁く人影は、何の遠慮もなく咲の身体に腕を巻きつかせてくる。 「は? はい? ええ!?」 予想外の出来事にどう対応していいのか分からない。咲が固まっているのを言いことに、ス ルスルと髪を撫で、愛おしそうに額や唇にもふれてくる。その生温かく柔らかい感触に、咲の中 で何かが切れた。 「ぎゃー! チカン!!」 力の限りつき飛ばすと、相手はソファから落ちて、こてんと床に尻餅をつく。 薄暗闇の中、驚きこちらを見上げる犯罪者は、とても美しい。腰まで届く長い髪が、床に広が り波打ち、おそらく陶磁器のように滑らかで白いであろう肌が、薄暗闇の中で、ぼんやりと浮か び上がっている。 「ちかん? ちかんとは何?」 大天使のような容姿に相応しく澄みきった美しい声。立ち上がると、背が高く、天使と咲とで は、見上げるほどの身長差がある。 「何故だろう、君の言葉が分からない。仕方がない、賢者に聞きに行こう。君もおいで」 優しく手を繋がれる。しかし、そこには有無を言わせない強引さがある。 (な、何、この人!?) ゆったりと、まるで雲の上を歩くかのような足取り。この謎の人物に、咲は一人だけ心当たり がある。 (賢者さんは、私のことを王の獣だと) そして、その獣を飼えるのはこの国でたった一人。 (もしかして、この人が王様!?) 廊下に出ると王らしき人は迷いなく左へ曲がる。薄ぼんやりとしたオレンジ色の灯に照らされ た廊下。その廊下の窓から空を見上げると、綺麗な三日月が見える。 そこだけ見れば、何の違和感もない、今までどおりの普通の世界。しかし、咲の目の前に は、光り輝くような大天使が地に足をつけて歩いている。彼が歩くたびに、金色の髪が、さらさ らと心地よい音を立てている。それは幻想的で、非現実的な光景。 隣の部屋といっても、一つ一つの部屋が恐ろしく広いせいか、学校の廊下の端から端くらい までの距離がある。ようやく現れた扉の前に立つと、王らしき人は、ノックもせずに静かに入っ ていく。その間も、咲の手はしっかりと握られたままだ。 「賢者、いるかい?」 賢者の部屋に入ったとたん、咲はその明るさに、思わず目をつぶる。慣れてきた頃に、ゆっく りと開くと、大量の書物が視界に飛び込んでくる。賢者の部屋の壁は、本棚で埋め尽くされてい る。 まるで図書館のような部屋の中心には机があり、その机の上にも大量の本が積み重なって いる。まさしく本に埋もれる格好で、賢者は分厚い書物をめくっていた。 王らしき人が近づいても、顔すらあげようとしない。 「なんだ? 就業時間はとっくに過ぎているぞ。つまらない用事だったら、即刻帰れ」 「ねぇ、賢者。咲のことだけど」 帰らない客に、賢者は心底嫌そうに顔をあげたが、咲の姿を確認すると、少し驚いて態度を 改める。 「何故お前が咲と一緒にいるのだ? 明日紹介すると言っただろうが」 「待てなかった」 怒られても大天使はどこまでも穏やかだ。賢者の疲れたようなため息が聞こえてくる。 「で? 挨拶はもうすませたのか?」 ぽんっと手を打つ大天使。 「忘れていた。私は王。君は咲だね。知っているよ」 翡翠色の瞳が揺れ、唇が綺麗な半円を作り出す。まるで精密な計算を繰り返し、細部まで作 りこまれたかのような隙のない微笑。 「会いたかった」 美しい笑顔に見とれながらも、その言葉に困惑する。見ず知らずの人に、そんなことを言わ れる意味が分からないし、何か裏があるのではないかと疑ってしまう。 「ずっと会いたかった」 王の熱い言葉とは裏腹に、どんどん咲の心は冷えていく。 (怖い……) 目の前の人が怖くて仕方がない。お城に入る前に逃げてしまえば良かったと、今更ながらに 後悔する。 血の気が失せ、少し震えながらうつむく咲を見て、賢者はまたため息をつく。 「二人とも落ち着け。咲、怖がらなくていい。こいつは限りなく怪しいが、危ないヤツではない。 王も少しは言葉を選ぶんだな。お前たち王族は、この日を待ち焦がれていたかもしれんが、そ の発言はストーカーだぞ」 「ストーカー?」 王が首を少し傾けると、綺麗な髪がさらりと流れる。賢者は、積んでいた本の中から、くすん だ赤色の表紙の本を取り出すと、ぱらぱらとめくり始める。 「ストーカーとは、特定の個人に異常なほど関心を持ち、その人の意思に反してまで跡を追い 続ける者だそうだ」 その本は、どうやら国語辞典らしい。説明を聞き終えた王は、満足げに頷く。 「そう。なら私は咲のすとーかーだ。そういえば、さっき、ちかんと言われた。ちかんとは何?」 「チカンは分かるだろう? 痴れ者の男と書いて、痴漢だぞ。まぁいい。この本によると、ちかん とは、愚かな男、馬鹿者、痴れ者。女にみだらな悪戯をする男、だとさ」 「うん、当たっているね」 「言っておくが、どちらも良い意味ではないぞ」 「え? そうなの?」 賢者は、辞書を閉じると積み重ねた本の上に置き戻す。 「まぁ、お前がいいなら何でもいいが……しばらくは我慢しておけよ。困るのはお前ではなく、黒 獣なのだからな」 「うん、分かっている」 にこりと天使の笑顔。 「大丈夫、ようやく私の獣が来てくれたんだもの。それだけで嬉しいよ、ずっとずっと欲しかった のだから」 王の手が、咲の黒髪を何度も何度もなでてくる。そこから伝わってくる好意に戸惑いしか感じ られない。 「王よ、咲が怖がっているぞ。やめておけ。いくら王族が稀に見る美しい外見を持っていたとし ても、初対面の者から向けられる深すぎる愛情は引くぞ。むしろ恐怖だ」 「うん、賢者の言うことはちゃんと聞くよ」 それでも、王は繋いだ手を離さない。 「でも賢者、咲と一緒に寝るくらいならいいよね?」 「……お前は本当に俺の話を聞いていたのか?」 「え? それも駄目なの?」 「知らん。自分で聞け」 王は、心配そうな顔をこちらに向ける。その様子は、母親の顔色をうかがう小さな子どものよ うだ。 「ねぇ咲、一緒に寝てもいいですか?」 「え……」 戸惑って賢者を見ると「嫌なら断れ」とアドバイスをくれる。 「い、嫌です」 ガーンという効果音が聞こえてきそうだ。王は、ぶわっと涙ぐむ。 「断られたよ、賢者!?」 「嫌われているんじゃないのか?」 「ええー!? そうなの、いつの間に? ごめん、私が悪かったよ。一緒に寝ないから、咲の部 屋にいてもいいですか?」 「えっと……」 答えに戸惑うと、王はさらに衝撃を受ける。 「それも駄目なの!? じゃあ、咲が起きるまで部屋の外で待っていていいですか?」 「お前は、廊下で寝る気か?」 「うん」 頷く王様。城の主が廊下で寝ている姿を想像すると、かなりおかしいのだが、少しも笑えな い。 「お前らの言動は、本当に引くぞ」 賢者は頭を抱えている。 「咲、悪いが一緒に寝てやってくれ。そいつは、本当に朝まで廊下で待っているぞ。よく言えば 純真、悪く言えば大バカヤロウ、そういう人種なのだ、王族は……」 (無理……) そんな事を言われても、見知らぬ人と一緒に寝るなんてできるはずがない。そもそも相手 は、いくら綺麗だといっても男の人なのだ。 そんな思いが顔に出てしまっていたのか、賢者は更にフォローする。 「大丈夫だ。そいつは、お前の嫌がることは何もしない。その男がこの世で一番恐れていること は、お前に嫌われることだからな」 「うん、そう。私は咲に嫌われたくない」 にこりと微笑みかけられると、何だか犬にでも懐かれたような気分になる。 (断れるの、これ?) この場にいる三人の内二人が、咲と王が一緒に寝ることを望んでいるのだ。その時点で、す でに数で負けている。 「じゃ、じゃあ……」 そういうわけで、咲は初対面の見知らぬ人と一緒に寝ることになった。 咲が与えられた部屋に戻ると、いつの間にか灯が付けられ、食欲を刺激されるような香りが 漂っている。机の上には、数十種類のお皿が並び、美味しそうな匂いと共に湯気を立ててい る。 「これ、私も食べていいんですか?」 その食事量から、二人分かと思いきや、「咲のだよ。私はもう食べたから」と言われてしまう。 お腹がとても空いている。ソファに座り、豪華すぎる食事に一度手をつけると、そのままお腹が 一杯になるまで遠慮なく食べ続けてしまう。 咲が食べている間中、何か楽しいのか、王はにこにこしながらその様子を観察していた。そ して、時々「おいしいですか?」と聞いてくる。 口の中でもごもごさせながら、「はい」と答えると、王の顔にぱぁと一際明るい笑顔が浮かぶ。 「あ、お風呂に入るよね? 私が準備しておくよ」 「え?」 風呂を焚く王様。 (何なの、この人) よく分からない。冗談かと思いきや、立ち上がりお風呂場に向かった王は、しばらくすると、ず ぶ濡れになり、爽やかな笑顔を浮かべながら風呂場から出てくる。 「できたよ! いつでも入ってね」 そして、少しだけためらう。 「あ、えっと、一緒に入ったら駄目だよね?」 「……だ、駄目です」 やっぱりと肩を落とす王様。 「いつかは一緒に入っていい?」 いいわけない。 「王様、濡れていますよ。先に入ってください」 風邪を引かれては困ると思い勧めると、王は首を振る。 「いいよ。私は咲が入った後のお風呂に入りたいから」 咲の長い沈黙を見て、王は「あれ? 私、何かおかしなことを言ったかな?」と首をかしげる。 その無駄に美しい姿を、直視できない。 (こ、この人、本気で怖いんですけど……) 外見が良すぎるからこそ、中身の歪みが際立っているような気がする。ここに来て、ようやく 咲の怯えに気がついたのか、王はオロオロしながら、顔を覗き込んでくる。 「怒っているの?」 「い、いえ」 その後は、無言で食事を終えると、そそくさと風呂場に向かう。そこには、タオルから着替え から何から何まで揃っている。当たり前のように後をついてきた王様。 「ねぇ、咲はパジャマ派? ネグリジェ派?」 両手に、パジャマとネグリジェをそれぞれ持っている。 「Tシャツもしくはジャージ派です」 色気もそっけもない返事なのに、何か嬉しいのか、王は満面の笑みを浮かべる。 「分かった。よく分からないけど、今から賢者に聞いてくるよ」 先ほどの賢者の嫌がり方を見ると、その行為は、確実に怒られると予想できる。 「いえ、もうパジャマでいいです……」 「そう?」 パジャマを受け取り、脱衣所に入ると、全身の力が抜ける。 (は、はぁ……) 王に、一挙一動を見張られているようで緊張する。そして、咲に向けられる愛情に恐怖しか 感じられない。 これが賢者の言う、特別なら、特別になんてなりたくない。 それにしても、王の発言は、ペットを愛するように咲を可愛がっているだけなのだろうか。咲 が王の目の前で吐いたとしても、「わぁ可愛い」と言ってきそうなほどの愛情は、異常としか思 えない。 先ほどの賢者の言葉が頭をよぎる。 『初対面の者から向けられる深すぎる愛情は引くぞ』 (本当に) おかしな震えと、言いようのない気持ちの沈みを感じながら服を脱ぐ。じっくりお湯につかり、 あがった頃には、王がいなくなっていた。 「あれ?」 不思議に思ったものの、帰ったのかな?と安堵する。 (もう寝よう。昼寝したけど、眠れるかな、私……) そんなことを考えながら、寝室はどこだっけ?と、いくつか部屋の扉を開けていると、目当て の部屋には先客がいた。 「あ、咲!」 嬉しそうな王の声。 「さぁ寝よう」と両手を広げてくる。 「……王様、お風呂は?」 「よく考えたら、私はもう入っていたよ。それより何より、咲と寝たい」 咲が部屋に入ることをためらっていると、王はポンと手を叩く。 「ああ、濡れた服は着替えてきたよ。髪も乾かしてもらってきた」 「は、はぁ……」 そういう問題ではないのだ。この言いようのない違和感をどうやって王に伝えればいいのだろ う。両手を広げ、にこにこしながら待っている王。数分間ためらった後、「ええい、もうどうにでも なれ」と思い、恐る恐るベッドに近づくと、ガバッと飛びつかれる。 「ぎゃあ!?」 ぎゅうと抱きしめると、王は「嬉しい」と優しく息をつく。 「王になった時から、ずっと夢見ていたよ。初めまして、そして、これからよろしくね、私の黒き 獣」 そう言うと、王は咲を抱きしめたままコテリと寝てしまう。 (う、うう) 間近に、見たこともないような美しい人が眠っている。程よく筋肉がついた腕が腰に巻きつ き、硬い胸板を顔に押し付けられている。 (う、うう、眠れるわけないよ) その晩、咲は、強制的に添い寝をさせられるぬいぐるみの苦労と、一生分の緊張を味わうこ とになった。 つづく 次へ 「王の獣」TOPへ |