(どうしよう)

 不安にかられて、制服のお腹らへんをぎゅっと握り締める。出来る限り目を合わさない様に、
門をくぐろうとすると、兵士達は一成に敬礼をする。その様子に驚いて立ち止まってしまった
が、賢者は少しも待ってくれない。

「えっと、あの、すみません」

 城門の兵士に勢い良くお辞儀をすると、小走りで賢者の後を追う。賢者のフードが少し揺れ
る。ようやくこちらを振り返ってくれた。

「咲、だったか? 頭は下げなくて良いぞ」
「そういうもの……なんですか?」

 賢者の声は若そうだが、馴れ馴れしい態度はとれない。顔が見えない不気味さもあるし、
賢者の立ち居振る舞いは堂々としていて、相手を威圧するような重々しいものを感じさせる。

(できれば話したくないけど)

 それでも今この場で、咲の疑問に答えてくれるのは、目の前の不審人物しかいない。

「あの、私。違うんです。何かおかしいことに巻き込まれたみたいで。学校に……いえ、家に。
そう、家に帰らないと」
「要領を得んな」

 話しながらも立ち止まってくれない賢者は、大きく開け放たれた鉄の扉をくぐり、城の中へと
入って行く。

 これ以上先に進まなくても分かる。この先は、美しい絵本の世界だ。彫刻を施された白い柱
が立ち並び、天井には巨大なシャンデリア。緩やかに歪曲した階段には真紅の絨毯が敷か
れ、その上をゆっくりと歩く賢者は、とても絵になっている。

「何をしている。早く来い」

 言われるままに、一歩足を踏み入れると、鏡のように磨かれた床に写るのは、制服姿の女
の子。

(おかしいって)

 学校指定の茶色のローファは、どんなにそっと歩いてもカツンと音がなってしまう。鞄を胸に
抱きしめ、恐る恐る歩いていると、向こうからメイド姿の女性達が歩いてくる。

「あ、えっと」

 彼女達は、咲を見ると目を見開き、息をのんだ後、慌てて深く頭を下げる。えんじ色のスカー
トが、優雅な動作で一斉に広がる。

「え? え?」

 勝手に入り込んで怒られるのならまだしも、頭を下げられてしまった。

「咲」

 賢者が階段の上から呼んでいる。メイドさん達に慌てて頭を下げると、咲は階段を駆け上が
った。

「遅いぞ」

 賢者の声は怒っている。

「だって……」

 つい先程まで市役所にいたのに、外に出れば外国の街並みが広がり、今は城の中。いくらこ
れが夢でも、頭が着いていかない。

「変な夢」

 咲の呟きを聞いて、賢者が小馬鹿にするように鼻で笑う。

「そうだ夢だ。不思議な世界に紛れ込む、楽しい夢だろう?」

 その言葉に素直に「はい」と頷けない。咲の不安げな表情を見て、賢者は口端を上げる。

「安心しろ。お前は魔王を倒す勇者でもなければ、失われた国の姫でもない」

 だったら自分は何なんだろう、不安とほんの僅かな期待を込めて賢者を見る。

「お前は勇者でもなければ姫でもないが、この国では特別だ」

 フードで隠され表情は分からないが、その声音はどこか楽しそうだ。

「お前は、ありとあらゆる法律で保護されるが、ありとあらゆる法律はお前を縛らない」

 市役所であった日浦という男も確かそんなことを言っていた。

「どうして……ですか?」
「狩ってはいけない、飼ってはいけない」

 まるで詩を朗読するように、賢者は静かに詠う。城の廊下に賢者の落ち着いた声が反響す
る。

「人でありながら、人でない。それがお前だ。どのような法律にも束縛されない姿は、まさに野
山を駆ける獣」

 賢者の言葉と、市役所で言われた不思議な説明を思い出す。歩き出した賢者の後を慌てて
追いかける。

「ちょっと、待ってください!」

 追いつき、前に回りこむと賢者はようやく止まってくれた。

「私が、何ですって?」
「獣だ。黒い獣と書いて、黒獣」

「こくじゅう?」

 今度はゆっくりと歩き始めた賢者の隣を、咲も並んで歩き出す。

「それって、私が人じゃなくて、動物ってこと? そんな訳……」

 そう言いながらも、思わず手足を確認してしまう。決して動物のように毛がふさふさと生えてい
る訳ではない。賢者は何もかも見透かしたように鼻で笑う。

「お前のその黒髪と黒い目だ。それを持っているものが、この国では黒獣として扱われる。お
前を飼ってもいいのは、この世でただ一人、この城の主である王だけだ」
「飼う? 私を飼う?」

「そうだ、黒獣は王に飼われる。どのような法律にも束縛されず、ただ王にのみ縛られるお前
を人はこう呼ぶだろう。気高き王の獣と」

 何が楽しいのか、賢者はフードの下で笑い続けている。咲が足を止め、一歩下がると、賢者
も止まる。

「逃げるか? 逃げてもいいぞ。だが、どこに行く? 先ほどお前が言っていたではないか、こ
れは夢だと。そうだ、怖がるな。これは全て夢なのだからな」

 背中に流れる汗が冷たい。逃げなければと思うのに、足は床に張り付いたまま動かない。

「ここにいる方が楽だぞ。痛い目にも会わないし、悪いようにもされない」

 賢者のささやきは、まるで甘い誘惑のようだ。

「さっきの藤井の反応を見ただろう? お前は特別なのだ、特別になったのだ。これからは、た
だ髪が黒いというだけで、尊敬されながら生きてゆける」

 憧れを含んだ藤井の視線や、一斉に頭を下げたメイド達。それは確かに悪い気はしない。

(でも、本当について行っていいの?)

 答えが分からない。良いのか悪いのか、どこにも書かれていないし、誰も教えてくれない。数
歩前を行く賢者が、また歩き出す。

「ついて来い」

 言われるままに歩き始めた足は、咲自身のものでないかのようだ。

(でも、他にどうすることも出来ないじゃない)

 誰にでもなく言い訳をすると、咲は、ローブを揺らしながら歩く賢者の後を追った。
 どこをどう歩いて来たのか分からない。広いこの城の中は、咲にとってまるで迷路のようだ。

 振り返りもしない賢者の後ろ姿だけを見失わないように必死に追いかけていく。
 二人が歩く傍らで、すれ違ったメイドがうやうやしく頭を下げたが、賢者は顔を向けることすら
しない。

「賢者様は偉い人なんですか?」

 小声で話しかけると、賢者は「様などいらぬ」と、また鼻で笑う。

「俺が偉いのではなく、俺とお前が偉いのだ」
「私は偉くなんてないです」

「お前は偉い。黒獣だからな」

 そんな説明では少しも納得できない。

「獣じゃないです!」
「お前は獣でいいのだ」

 長いローブの裾を揺らしながら階段を上がっていく賢者を睨みつける。どこか人を小馬鹿に
している言動を好きになることは出来ない。

「考えたことはないか? 猫は気楽でいいなと。犬は楽しそうだなとか、鳥は自由だとか」
「それは……ありますけど」

「気楽に考えろ。選ばれたお前は、これからそのような生活が送れるのだ。悪い話ではあるま
い」

 心の底に湧き出る不安を恐々と口にする。

「首輪を付けられて、檻に閉じ込められてとか?」
「そういうのがお好みか? ならそういう風にしてもらえ」

 賢者の表情は分からないが、声のトーンからからかわれていることが分かる。

「違います! こっちは真剣なんですよ!」

 賢者はピタリと立ち止まる。

「俺も真剣だ。俺は黒獣の世話係のようなものだからな」

 金色のドアノブがついた白い扉を開けると、賢者は室内へと入っていく。

「この城の中は、自由に歩き回っていい。何をしても何をしなくてもいい」
「そんないいかげんな」

 賢者を追うように室内に入り、その広さに目を見張る。
 咲の部屋の何倍の広さがあるのだろうか。学校の教室よりもまだ広い。その空間の中心に
は、ガラスのテーブルが置いてあり、それを囲むように白いソファが置かれている。

「すごい……」

 全体的に白を基調としているが、天井や壁、そして、窓枠にまで、美しい文様が細かく彫り込
まれている。
 どこを見ても絵になる光景に浮かれつつ、なんとなくソファを触ると、その表面には僅かな起
毛があり、とてもさわり心地が良い。
 賢者は、それぞれの扉を指差しながら、淡々と説明を続ける。

「ここが風呂、こっちがトイレ、あっちが寝室」

 咲が、そばにあった壁の取手を触ると、「そこの壁一面は、クローゼットだ」と教えてくれる。
中を覗くと、ハンガーにかかった服が、ずらりと並んでいる。凄すぎて開いた口が塞がらない。

「ここは賢者さんの部屋ですか?」

 だったら、賢者が偉いというのも頷ける。

「お前の部屋だ」
「ええ!?」

「何を驚いている? 狭いか? だったら別の部屋を用意させるが」
 とんでもない誤解を慌てて否定する。
「いえ、というか広すぎです!」

「狭いよりは良いだろう? 広い部屋が嫌だったら、使用人の部屋もあるぞ。好きにすれば良
い」

 何をしても良いと言われると、とたんにどうしていいのか分からなくなる。だからこそ、次の賢
者の言葉はありがたかった。

「俺の部屋はこの隣にある。世話係としては、ここに住んでもらった方がありがたいがな」
「……じゃあ、それで」

 賢者は、こちらをじっと見つめた後、ふいっと顔をそらす。見つめたといっても、フードの下で
その表情は分からないのだが。

「素直だな。もっと暴れるかと思ったが?」
「暴れたら帰れるんですか?」

「そう怒るな。賢明だと褒めているんだ。腹は減っていないか?」

 お腹はすいていない。というより食欲を感じないのだ。そこまで暢気にはなれない。
 賢者は左腕をちらりと確認する。そこには、どこにでもあるような腕時計がはめられていた。

「今は二時すぎだ。食事は朝晩の二回だ。慣れるまで腹がすくかもな。その代わりに、この国
では、おやつタイムみたいなものがある。まぁ、この部屋にいる限り、飢えることはないだろう。
外に出るときは、一応、俺に声をかけろ。とにかく、慣れるまでは何かあったら、俺に言うがい
い」
「私はここで何をすればいいんですか?」

「何をしてもいいし、何もしなくてもいい」
「そんな……」

 不安なのだ。どうしたらいいのか分からない。

「お前は従順な獣だな。前の獣のようなヤツだったら、殴ってやろうかと思っていたが」
「前の獣? 私以外にも同じ人がいるんですか?」

「そうだ。獣はただ一人の王に仕える。だから、前の王には前の獣。今の王にはお前」

 その人に会いたい。会って、これからどうしたらいいのか教えて欲しい。

「会わせてください!」

「別にかまわんが、今は無理だ」
「どうして?」

「向こうに会う気がないからだ。会いたくなったら勝手に来るだろう。向こうもお前と同じ黒獣
だ。この国のあらゆる法で保護され、あらゆる法に束縛されない者を、こちらの思い通りに動
かすことは難しい」

 うつむいてしまった咲を見て、賢者は呆れたようにため息をつく。

「おかしなヤツだ」

 もう話は終わったとばかりに一度背を向けたが、何か思い出したように振り返る。

「ああ、何をしてもいいと言ったが、これだけは駄目だぞ」

 それは賢者から出された、たった一つの条件。

「勝手に死ぬな」

 もう返事をする気力もない。ソファに倒れるように座り込むと、そのまま深く深く、どこまでも沈
みこんでいってしまいそうだ。

(何が起こっているの? これからどうなるの?)

 それを考えると、体が小刻みに震えてくる。
 賢者が、こちらに背を向け、出て行こうとしている。呼び止めようか、咲がそう思った瞬間に、
勢い良く扉が開かれ、ガツッと痛そうな音がする。

「あーマジで疲れたぁ」

 突然部屋に入ってきた人は、右手にほうきをもち、左手にバケツを持っている。それらの掃
除道具をぽいぽいっと投げ捨てると、ゴム手袋をしたまま、エプロンを着用した腰に手を当て
身体をひねる。

「あー、もうマジ帰りてぇ」

 三角巾にピンクのエプロン。その姿はどう見ても掃除のおばさんなのだか、見上げるほどの
身長と服の上からでも分かるほど、鍛えられた身体がただものとは思わせない。
 とてもいかつい掃除のお兄さんは、咲が座っていることも気にせず、足を投げ出し向かいの
ソファに座る。
 そして、まるで今初めて気がついたように、咲を見てニヤリと笑った。

「なんだぁ? 先客がいたのかよ。いいよなぁこの部屋、誰も来ねぇし豪華だし! 特にこのソ
ファの座り心地は、最高だ! サボるにはうってつけ」

 ケケケと悪そうな笑い方をし、驚きすぎて、声も出ない咲のことはおかまいなしで、親しげに
話しかけてくる。

「俺は、瑞垣っつーんだけど、お前は?」

 瑞垣と名乗った男は、灰色の逆立った髪が腰辺りまで伸ばしている。向けられる金色の鋭い
目は、まるで狼のようだ。質問に答えないと、食べられてしまうような気がする。

「山田……咲です」
「ふーん、山田さんね。王城の新人さんかね? 新人の頃から、ここに見つけるたぁなかなか
見る目があるな! もしサボリが見つかっちまって、王城をクビになったら、俺のとこに来い、
な! 仕事は腐るほどあるからよ!」

 ばんっばんっと背中を叩かれ、少しむせてしまう。

「は、はぁ……掃除をするんですか?」

 この広大なお城を掃除するのは、確かに大変そうだ。しかし、瑞垣は「ちげーよ!」と豪快に
笑い飛ばす。笑うととたんに人懐こくなり鋭さが緩和される。どうやら見た目ほど、怖い人では
なさそうだ。

「これはよぉ、ペナルティよ、ペナルティ! 罰ってーの? 山田さんは本当に何も知らねぇんだ
な。大丈夫かぁ?」

 かっかっかっと楽しげに笑う瑞垣の背後に、気がつけば賢者が立っていた。無言でフードの
上から抑えている額部分が、やけに痛そうだ。

「瑞垣」

 怒りを押さえ込んだ冷たい声音に、瑞垣の笑顔が固まる。ギギギと機械のように首を回し賢
者を確認すると、サァと顔が青ざめてゆく。

「うげ、賢者! いつの間に」

 瑞垣は、本当に今まで賢者が居たことに気がつかなかったらしい。扉を開けたときに豪快な
打撃音がしたが、全く気にならなかったようだ。

「またペナルティの上、よりによって黒獣の部屋でサボリか。お前の首元が妙に寒そうに見える
のは俺だけか?」

 瑞垣は自分の首をおさえながら、引きつった笑みを浮かべる。

「ま、まぁ、なんだ、その、これには深い訳が……」
「聞いてやろう、言ってみろ」

 気まずい沈黙の後に、瑞垣は顔前で両手を合わせる。

「わりぃ! すまん、お願いだから、日浦には言うな、な?」

 賢者は必死な瑞垣を無視して、咲に話しかけてくる。

「この馴れ馴れしいやつは、残念ながら国の関係者だ」
「残念ってなんだ、残念って」

 しかし、本当に残念ながら国に携わるような偉い人には見えない。

「こいつは、こう見えても、国益所のセイソウ部の部長だ」

 聞きなれない賢者の言葉に、咲は首をひねる。

「国益? せいそう、清掃……そうじ?」

 その言葉に瑞垣は勢い良く立ち上がる。

「そうじじゃねぇ! 警予防政策総合対策部、略して政総部だ!」
「はいはい」

 いいかげんな賢者の対応に、納得がいかない様子の瑞垣。恨めしそうな視線を向けながら、
何かブツブツ言っているが賢者は全く相手にしない。

「先ほど、ここまでお前を案内した藤井はコイツの部下だ」

 その説明に、なんとなく納得してしまう。

「国益所とは、この国の行政機関だ」
「はい?」

 首をひねる咲を見て、賢者はこれ以上の説明は無駄だと判断したようだ。

「瑞垣、こいつが新しい王の獣だ」
「おお!? 本当だ、髪も目も黒いじゃねぇか!?」

「なぜ言われるまで気がつかないんだ……」

 呆れる賢者を無視して、瑞垣は咲の観察を始める。

「ちっけぇなーこんなんで大丈夫か? なんか困ったことがあったら、俺に言うんだぞ」
「えっと、はい、よろしくお願いします」

 咲が素直に頭を下げると、瑞垣は「おお!?」大げさに驚く。

「なんだ、今度の獣はえらい素直だな!? 山田さんじゃねぇ、咲か。うん、咲だな」

 改めて名前で呼ばれて戸惑ってしまう。

「獣に苗字があったらおかしいもんなぁ」

 無邪気に笑う瑞垣の言葉に、笑顔を返せない。そういえば、この世界に来てから、ずっと名
前で呼ばれ続けている。

(獣に、苗字は必要ない、そういうこと?)

 複雑な思いが湧き上がり、少しも笑うことが出来ない。

「瑞垣、首を切られたくなかったら、仕事に戻れ」
「へいへーい」

 立ち上がった瑞垣は咲に身体を寄せると、耳元でこそりと囁く。

「またサボリに来るわ」

 咲にだけ、ニッと悪戯っぽい笑顔を見せた後、来たときに放り投げた、ほうきとバケツを拾い
部屋から出て行く。

「まったく……」

 深いため息をついた賢者に、少し不思議に思っていたことを聞いてみる。

「瑞垣さんって偉い人なんですよね? どうして掃除しているんですか?」
「それはまぁ、おいおい分かるだろう」

 説明するのも馬鹿らしいといった様子で、賢者は今度こそ部屋から出て行ってしまう。
 広い空間に一人取り残されてしまい、咲はもう一度確認する。

「これって、やっぱり夢……だよね?」

 夢であって欲しいと思う。

(夢だったら、とても素敵な夢なのに)

 見渡す限り女の子なら誰でも嬉しくなってしまうような、お姫様だけが味わえる光景が広がっ
ている。

 しかし、頭の片隅で夢じゃないんじゃないの?という不安そうな声がする。
 もし本当にここが異世界だとすれば、元居た世界はいったいどうなっているのか。自分は急
に消えたことにでもなっているのだろうか。家族や友人達の顔が次々と頭をよぎる。

(大丈夫だよね……夢、だよね?)

 寒くもないのに、身体が震える。そんな自分自身を抱きかかえるように、咲はそっと腕に力を
込めた。




つづく





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