気がつけば茶色の硬いソファに座っていた。

 ここはどこかの市役所のようで、広いフロアを仕切るカウンターでは、職員が市民の対応をし
ている。その奥には事務机が並び、書類を持った人達が忙しそうに行き来している。

 電話が鳴った。仕事が忙しいのか、誰も手を伸ばさない。数回コールを聞いてから、ようやく
慌てて誰かが手を伸ばす。

「はい、国益所です」

 そんな光景を、咲はただなんとなく眺めていた。何か違和感があるのに、寝起きのように頭
が働かない。

「お待たせしました」

 分厚く黒いファイルを持った男が、真向かいに座る。
 一見穏やかな表情を浮かべているのに、笑っているように見えないのは、こちらに向けられ
ている鋭い視線のせいだ。男はファイルをめくりながら、フレームのない眼鏡を中指で上に押し
上げる。

(何か、変)

「咲さんですね」

 どこか冷たい響きがする声で、名前を呼ばれて更に違和感が強くなる。

「はい。山田、咲……ですけど」

 フルネームを名乗ると男は頷きながら、「では、咲さん」と話を続ける。

(やっぱり、変)

 市役所でいきなり馴れ馴れしく名前を呼ぶだろうか。それより何より、目の前の男の髪色が
気になって仕方がない。
 どこか冷たい雰囲気を持った男は、仕草や言動、どれを取っても礼儀正しく、落ち着いた黒
のスーツを綺麗に着こなしている。

(なのに、茶髪?)

 茶髪といっても、限りなく色を抜いた茶色で、一見金髪かと思ってしまう。市役所なのに、こん
な髪色が許されるのだろうか。そもそもいつの間に、市役所に来たのだろう。

「あの……」

 こちらの声を遮って、男は話し始める。

「病気は?」
「していませんけど、あの」

 男は、手元のファイルに何かを書き込み始める。

「薬は?」
「飲んでいません」

「現在、妊娠している可能性は?」
「ないです!」

 どうして、こんなことを聞かれているのか分からない。分からないが、男には有無を言わせな
い迫力がある。

「その髪は?」
「はい?」

 男の質問の意味が分からず問い返すと、男はこちらに探るような目を向けてくる。

「貴女は生まれたときから、その髪の色ですか?」
「……はい」

 何を聞かれているのか分からないが、髪は生まれたときから黒色だ。
 少しくらい染めてみたいなと思ったことはあるが、校則で禁止されている。といっても厳しいも
のではく、クラスの大半は染めている。それでも咲は、駄目だと言われていることをわざわざし
たいとは思わない。

「目は?」
「生まれたときからこの色です……けど?」

 いつまでこの質問は続くのだろうか。適当に答えて、早く家に帰りたい。そう思っていると、男
はパタンとファイルを閉じた。

「まぁ、いいでしょう」

 にこりと笑うが、相変わらず目が全く笑っていない。まるで紙に書かれた文章を読み上げるよ
うに、事務的な説明を始める。

「これから貴女は、この国のありとあらゆる法律で保護されます。ただし、貴女が本物だった場
合のみですが」

 また、男が笑顔でない笑顔を顔に貼り付けた。今までとは違い、どこか咲を見下すような皮
肉っぽい表情を浮かべながら、男はカウンターに向かって声をかける。

「警備課か予防課はいるか?」
「はーい、はいはい! 何か御用ですか、日浦部長!」

 元気な足音をさせながら、走り寄って来た青年の髪色は燃え盛るような赤色だ。こんなに綺
麗な赤髪は見たことがない。

(さすがに、これはおかしいよ)

 これは夢なのだとようやく分かる。夢の中の市役所なら、職員が金髪でも赤髪でも問題ない。
 日浦部長と呼ばれた男は、駆け寄ってきた赤髪の青年を見て眉をひそめた。

「お前だけか? お前のところの部長は……そうか、オウジョウに行っているのだったな。まっ
たく、どいつもこいつも……。次はどうなるか分かっているだろうな」

 くわっと目を見開いた日浦に、びくっと肩をすぼめる青年。その様子が、なんとなく飼い主に
怒られた犬を思い出させる。

「すみませんすみません! 部長にはよく言っておきますから」

 日浦からの口から怒りを押さえ込むような深いため息が洩れる。

「もうお前でいい。この女性をオウジョウまでお連れしろ」
「はい!」

 元気良く挨拶した後に、にこりと微笑みかけられる。

「自分は藤井です」

 日浦とは違う明るい笑顔につられて、咲の口元も緩む。

「山田咲です」
「咲さんですね」

 また、名前を呼ばれてしまった。普通なら山田さんと呼ばないだろうか。

(変な夢)

 差し出された藤井の手を、遠慮がちに握り返すと、人懐こそうな満面の笑みを向けられる。
 藤井の灰色がかった綺麗な目がこちらを見ている。珍しく思い、咲が覗き込むと、藤井も何
が珍しいのか、こちらをじっと見つめてくる。

「さっさといけ、藤井!」
「すみません!」

 背後から聞こえた日浦の怒声に、素早く謝る藤井。身体が反射的に動いたようだ。

「こちらです!」

 その場から逃げるように、藤井は走り出す。腕をつかまれた咲も、引っ張られて、強制的に
後に続くことになる。

 年季の入った木製の扉をくぐりぬけ外に出ると、その眩しさに咲は思わず目をつぶった。

 空を見上げると、雲一つない青空が広がっていて、降り注ぐ光がいつもより強く感じる。肌を
焦がしそうな強烈な真夏の太陽のようなのに、なぜか暑いと感じない。湿気のない乾いた風に
乗って、見知らぬ香りが鼻をかすめてゆく。

 これが夢であることを忘れそうなくらい、妙に五感が刺激される。

「ああもう、日浦部長は短気なんだから……」

 ブツブツと文句を言っている藤井は、途中で咲の手をつかんだままのことを思い出したよう
で、慌てて「すみません!」と手を離す。

 離された手を自らつかんでみる。体温まで感じる奇妙な夢。

 周りに目を向けると、足元には綺麗にレンガが敷き詰められ、不思議な幾何学模様を作って
いる。ここは大通りなのか、広くまっすぐ続いていく複雑な模様は、まるで一枚の絵画のよう
だ。その両脇には、年代を感じさせる緑色の街灯と、その道に相応しいレンガ作りの家々が規
則正しく立ち並び、幾何学模様の縁を飾っている。

「ここは、どこ?」

 見たこともない景色。目の前に広がる美しい光景に、冷たい汗が浮かんでくる。嫌な予感が
して、背後を振り返ると、今さっきまでいた市役所は、入り口に白く太い柱が並びレンガ作りの
家々とは趣の異なる建物が立っている。

 咲が一歩よろめくと、藤井と目があった。藤井は、両手を合わせて、目を輝かせている。

「うわー今までにない反応! もしかしてもしかすると、本物ですか?」
「本物って?」

 咲が戸惑いながら尋ねると、藤井は興奮ぎみに顔を赤らめる。

「うわーうわー! それっぽい、それっぽいですよ、咲さん! どうしよう! 自分、今更ながら
に緊張してきました!」

 こっちです、こっちですよと、強引にひっぱられてゆく。
 大通りの突き当たり、それほど遠くない場所に、お城が見えている。それは、絵本で見るよう
な真っ白なお城ではない。茶色く四角い建物の四隅に、三角屋根の塔が立っていて、その周
囲をぐるりと城壁が囲んでいる。

(まさかあそこに連れて行かれるんじゃないよね?)

 城というより要塞に近い建物を見て、不安が込み上がってくる。城が近づくに連れて、城壁に
見張りの兵士が立っていることに気がつく。実用的な城を見て、ますます咲を取り巻く景色が
現実味を帯びてくる。

(どうしよう。あそこに行きたくない)

 走って逃げてしまいたい。そんな気持ちがよぎっても、どこに逃げればいいのか分からない。
立ち止まってしまった咲の腕を、藤井が笑顔で引っ張る。

「もうすぐですよ」

 人の良さそうな藤井に、このまま着いて行って良いのだろうか。躊躇いながらも、藤井の軽快
な足音に誤魔化され、引っ張られる腕の力に流されて、行きたくもない場所に自らの足で歩い
て行く。

 大げさな城門がどんどんと近づいてくる。
 門の前に佇んでいる人影に向かって、藤井は大きく手を振った。

「あ、賢者様だ! 賢者様ぁ!」

 人影が藤井の声に反応する。全身を包む長い灰色のローブが、動きに合わせて微かに揺れ
る。気がつくと咲は、賢者と呼ばれる人の前に連れ出されていた。

「三十七人目の候補、咲さんです!」

 元気一杯の声に、賢者は無言で頷くと、咲の正面に立った。フードを目深に被り、目鼻を隠し
口元しか相手に見せない。

「住所は?」

 男性の声だった。その声は、予想以上に若い。
 質問に答えようとしない咲に、焦る様子も怒った素振りも見せず、賢者はもう一度、「住所
は?」と尋ねた。咲が戸惑いながら答えると、賢者はゆっくりと頷く。

「本物だ」
「うわぁ!? 自分は今、すごい瞬間に立ち会ってしまいました!」

 大げさに驚いた藤井は、咲に熱い視線を送ってくる。そこには、憧れのようなものが含まれて
いて、まるで目の前にアイドルでもいるみたいだ。

「あの咲さん、髪の毛一本いただけませんか?」

 緊張気味に話す姿に、嘘や冗談のかけらも見当たらない。今まで向けられた事のない感情
に戸惑っていると、賢者の落ち着いた声が割って入る。

「藤井、法律に反するぞ」
「あれ? そうでしたっけ?」

「用が済んだらさっさと帰れ」
「はい! すみません!」

 元気良く謝り、走り去る藤井は、途中で振り返るとこちらに向かって大きく手を振る。

「咲さん、頑張ってくださいね!」

 その笑顔にどう答えればいいのか分からない。ぎこちない笑みを浮かべて、手を振り返す。
それを見ていた賢者が一言。

「流されやすい」

 淡々と言い放ち、咲に背を向けて歩き出す。

「あ、待って! 私はどうしたら?」

 わずかに躊躇ったものの賢者の後を追う。
 城の門には、焦げ茶色の軍服を着た兵士が整列していて、腰には剣が見える。直立する兵
士達は無表情で監視するような厳しい視線を向けてくる。

 咲が躊躇っている間にも、賢者はどんどん先に行ってしまう。





つづく



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