次の日は朝から小雨が降っていた。糸のように細かい雨が、独特な色
彩の町を冷やしていく。

 紬はいつもの時間に雪之丞の屋敷を訪れると、相変わらず鍵が開けっ
放しになっている。

(いやいやいやおかしいでしょ。カギ閉めようよ、鍵!)

 と言いながら、閉められていたら屋敷に勝手に入れないのだが。ちなみ
に家事や清掃は、そういう業者の人を雇ってやって貰っているようだ。出
会ったことがないので、きっと雪之丞の外出中に行っているのだろう。

 畳の広間を横切り、その横にある小さな控え部屋の椅子に腰を下ろ
す。ここが雪之丞の部屋から一番近い上に、程よい狭さで落ち着くのだ。
ここ以外の雪之丞の屋敷の部屋は立派過ぎて広すぎて一人でいるとそわ
そわしてしまう。 

 本来ならここは屋敷の主の世話役の人が控えている場所なのだが、広
い屋敷で一人暮らしという非常識なことをしている雪之丞には関係がな
い。

 昨日読んでいた雑誌は相変わらず机の上にあった。雪之丞が買うとは
思えないので、出版社からの貰い物だろう。
 すでに見たページをパラパラとめくりながら時間を潰す。起きて来るは
ずの時間になっても、やはり雪之丞は起きてこない。

「もう!」

 いつものことながら腹立たしい。紬は立ち上がると、雪之丞の部屋へと
向かう。

「雪之丞様入ります!」

 スパーンと勢い良く扉を開き、足元に気をつけながら薄暗い室内へと入
っていく。

(ふっふっふ、今日は秘策があるのよ)

 小雨が降る町を駆けながら思ったのだが、起きないのなら水をかけたら
いいのではないだろうか。もちろん、布団を濡らさない程度に顔に少しだ
け。

(この方法なら、雪之丞様は遅刻せず、私のストレス発散にもなって一度
で二度おいしいわ)

 口元に怪しい笑みを浮かべながら、雪之丞の寝台へと近づいていく。い
つもなら大声を出している所だが、今日は足音にさえ気を使う。

 気持ち良さそうに寝ている雪之丞。少しはだけた布団からは、素肌が見
えている。

(本当にずっと裸で寝る気なのね……)

 呆れながらも、懐から水を入れた小瓶を取り出す。笑いを堪えながら雪
之丞の顔へと手を伸ばすと、カッと雪之丞の目が開いた。

「殺気!」
「なっ!?」

 鋭い掛け声と共に、腕に手刀を喰らい、小瓶が紬の顔面へと飛んでく
る。
 起き上がった雪之丞は、ぼんやりと壁の方を見つめていたが、しばらく
すると目が覚めたようで、紬の存在に気がついた。

「どうした紬。顔が濡れているぞ」

 雪之丞がそういうのも最もで、寝台の横に立ち尽くす紬の顔からは、ぽ
たぽたと水滴が垂れている。

(私が水に滴っているのは、全て雪之丞様のせいですが、何か?)

 紬の口から漏れ出そうになった恨めしい言葉。しかし、今回ばかりは自
業自得と呟き必死に抑える。

「……雪之丞様、今日は雨が降っています」
「そうか」

 そう言いながら寝台から出ようとしたので、慌てて雪之丞に背を向ける。
すると、昨日はなかったものを見つけた。

 部屋の片隅に、ぞんざいに積み重ねられたものは、色とりどりの皮表紙
がついた薄い冊子だ。かなりの数があり、部屋にちょっとした小山を作っ
ている。

「なんですか、これ?」

 紬が背を向けたまま声をかけると、回答になっていない返事が返ってく
る。

「ああ、それか。適当に一つ選んでくれ」
「はぁ。まぁじゃあ本当に適当に」

 言われるがままに、目を閉じ山の中に手を突っ込む。紬がつかんだそ
れは、朝焼けの雲のように、黄色から赤色へと綺麗なグラデーションがか
かっている。

「これは?」

 返事を期待せず、勝手に冊子を開くと、そこには着飾った綺麗な娘さん
が薄っすらと微笑を浮かべて描かれている。

「これってもしかして……」

 見合い絵と言うものではないだろうか。
 気がつけば、着替え終わった雪之丞が紬の背後から写真を覗き込んで
いる。

「それか」
「それかって、これは……」
「昨晩、兄上から大量に送られて来たのだ」

 すばやい対応に感心してしまう。南里と葵地家は、雪之丞を結婚させる
という事において、見事な連携を組んでいるようだ。

「よし、もうそれで良い。紬、それを南里様に渡しておいてくれ」
「何て選び方を!? あ、でも、とても綺麗な方ですよ」

 適当の選んだにしては、なかなか良い仕事をしたのではないか。これな
ら雪之丞も満足だろう。
 しかし、当事者は不思議そうに首をひねる。

「綺麗なのか? 昨晩流し見したが、どれも一緒に見えて私は区別すらつ
かなかったぞ」
(ごめんなさい娘さん……)

 デリカシーの欠片も無い発言に、お見合い相手が急に哀れになってく
る。しかし、ここで引き下がるわけには行かない。葵地家の繁栄、引いて
は児玉家の栄光時代復活のためにも心を鬼にするしかない。

(ここは一つ、雪之丞様は観賞用としてお家に置いてあげてください!)

 見合い絵に祈りを込めて、紬は文衛省へと向かった。

 今日は遅刻することも無く、むしろ時間に余裕があるくらいだ。それは、
長く連なる朱色の鳥居の隙間から見える景色を楽しながらみ歩けるくらい
の余裕。毎朝これだと言うことはない。重々しい扉の前には、まだ遅刻を
チェックする人すら立っていない。

「紬、先に行っているぞ」

 そう言い残し、雪之丞は颯爽と薄紫色の階段を上がっていく。

(えっと、南里様はっと)

 貴彦に指示を出していたから、文官士の番所にでもいるのだろうか。こ
の三重の搭は、一階は受付と客間、二階に文官士の番所、三階に衛官
士の番所という配置になっている。

(うーん、客間の可能性もあるわね)

 悩みながら廊下を歩いていると、ばったり父と出会う。

「良い所に!」

 声をかけると考え事でもしていたのか、父はひどく驚く。

「父様、何かあったの?」
「いや、ちょっとぼんやりしててね。紬こそどうしたんだい?」

「私は南里様を探してて……」 
「南里様? ああ、都から来た貴彦様のお客さんだね。それなら、そこの
竹の間にいるよ。紬、今日は早めに帰って来れるかい?」

 紬がうなづくと、「良かった」と微笑み父は手を振り去っていく。

 父に教えてもらった竹の間は高官来客用の部屋だ。竹を編み込んで作
られた扉は精巧を極めている。黒く塗られ原色の黄色で縁取られている
ためか、扉の向こう側はどこか異世界にでも続いていそうだ。

 扉を開く前に、念のため声をかけておく。

「児玉です。南里様、入ってよろしいでしょうか?」

 返事は無いが、しばらくするとガラリと扉が左右に開く。

「おっはよー。児玉ちゃん」

 へらりと笑ってはいるが、声にやる気がない。衛官士なら即効で殴られ
てしまいそうな気だるそうな態度も、南里なら妙に様になってしまう。

「おはようございます。雪之丞様よりこれを預かって来ました」

 見合い絵の冊子を差し出すと、南里は「よしよし」と満足そうに受け取
る。

「時間と場所は後から連絡するって言っといて」
「はい。日にちはいつごろになりそうですか?」

 訓練ばかりしていると思われがちな衛官士にも予定と言うものがある。
見合いの日にちが決まっているのなら聞いておいた方が良いだろう。

「んー? 今日だけど?」

 あっけらかんとそんなことを言ってくる。

「え? 今日ですか?」
「うん、今日。善は急げってね」

 夢も希望もあったものではない。

(お見合いだから仕方ないのかな?)

 そう思いつつ、ふと雪之丞の部屋にあった大量の見合い絵を思い出
す。

「あれ? 誰が選ばれるか分からなかったのに、相手の娘さんのご準備
は?」
「んーそんなの、名門中の名門葵地家の次男、超絶美男子雪之丞君との
見合いだぜ? 娘さんたちは呼ばなくても勝手にこの町に来ているよ」
「え?」

 もうすでに日課になってて気がつけなかったが、言われてみればここ最
近、雪之丞への黄色い声援が多くなっていたかもしれない。この町に住む
人ならまだしも、他の町の令嬢ならお見合い相手の顔くらいは見ておきた
いところだろう。

(周囲の変化に気がつけないなんて、不覚)

 護衛も職務に含まれる衛官士としてどうなんだろうと、反省していると、
南里が紬を見ながらにやにやと笑っている。

「紬ちゃん、もしかして……へこんでる?」

 心を見透かされて少し動揺してしまう。その動きで南里はさらに笑う。

「ははっやっぱり? 雪之丞君ってば良い男だもんねぇ。分かる、分かる
ぜその気持ち」

 何を誤解しているのか、励ますように肩を叩いてくる。

「そこで一つ俺から提案が。俺としては、名家の葵地と元名家の児玉が縁
組をするのも有りかなぁって」

 南里の白く整った顔が、目の前にある。一見穏やかに笑っているその
目の奥に、切れてしまいそう程の鋭利な光を見つけて瞬時に背筋が寒く
なる。

「どう? 紬ちゃん」

 優しい声音に軟派な言動。南里のつかみどころのない猫のような皮を
一枚はぐと、その下には鋭い牙を持つ何かが潜んでいるのかもしれな
い。

 一度、唾を飲み込み、覚悟を決めてから南里の目を見つめる。

「それはご命令ですか?」
「命令の方が嬉しい?」

 どうも南里は、紬が雪之丞に惚れていると勘違いしているようだ。

「まったく嬉しくありません。私は児玉家以外の姓を名乗る気はありませ
ん」
「あれ?」

 南里は本気で驚いたようで、目をパチパチと瞬きさせている。

「紬ちゃんは、雪之丞君のことが好き……」
「な訳ありません。上司としては尊敬してますが、恋愛感情は一切ありま
せん」
「俺としたことが、珍しく読み間違えた」

 そう言いながらへらりと嬉しそうに笑う南里からはあの鋭い光が消えて
いる。

「じゃあさ、やっぱり俺の嫁になんない?」

 肩に回してきた白い腕を手の甲で払い、そのままくるりと回転させて、元
の位置に戻してあげる。

「お断りします」
「いいねぇ、紬ちゃん」

南里は、軽く笑い飛ばすとその言葉で場を締めた。




つづく



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