こうして、元の静けさを取り戻したかのように見えるこの国で、今、とある噂が流れていた。街
の大通りを歩けば、人々は眉を潜めて囁きあう。

「今度の黒獣、とてもわがままなんだって?」
「勝手に商船に乗り込んだとか」
「何回も行方をくらましているそうだよ」

 数々の言葉に含まれるのは、悪意に満ちた響き。それから、耳を塞ぐように、咲は帽子を引
っ張った。
 護衛をしてくれている、谷口と藤井は、困ったように互いに視線を交わす。

「咲さん、あの……」
「いいんです」

 藤井の言葉を遮り、無理に笑顔を作る。

(これは私が望んだことなんだから)

 黒獣を悪者にすることで、咲は王の元に帰ることが出来た。海洋商船団は誰一人捕らえられ
ることもなく、賢者は今も賢者のままだ。

(私は間違っていない。私はしたいことをしたんだもん。全ての望みが叶ったんだから、これくら
い我慢しなきゃ)

 それでも、人々の侮蔑を含んだ視線は耐え難く、帽子を深く被り眼鏡をかけて、黒獣であるこ
とを隠さないと、外に出られなくなったしまった。

「あ、咲さん! あそこのケーキ、おいしいんですよ。少し寄り道して行きましょう」

 藤井が、無理に明るく話し出す。
 大通りから少し外れた、小さなカフェの扉を開くと、カランカランと音がする。
 「いらっしゃい」とカウンター越しに、老齢な女性が迎える。大きな窓からは、光が差し込み、
店内を優しく包んでいる。
 ソファ席に座ると、藤井がお勧めのケーキを教えてくれた。注文が終わり待っている間、後ろ
の席から幼い少女の心配そうな声が聞こえてくる。

「おばあちゃん、今のお仕事大変なの? おばあちゃんは大丈夫?」

 可愛い孫の言葉に、薄紫色の髪の老女は上品に首をかしげる。

「どうしてだい?」
「だって、おばあちゃんはお城で働いているでしょ? 今の黒獣ってすっごくわがままだって、お
ばあちゃんは大変ねって、ママが言ってた」

 見知らぬ少女の言葉が、咲の胸に突き刺さる。無意識に帽子を引っ張ると、泣かないように
目を閉じる。

「大丈夫よ」

 老女は優しく少女の頭をなでる。

「咲様はとってもお優しいお方なの」
「でも、ママが……」

「咲様はね、私達メイドにも優しく声をかけてくださるし、お城の兵士にもお疲れ様って言ってく
れるの。だから、今の悪い噂はきっと何か事情があったんだわ。お城で働く人はみんなちゃん
と分かっているわ。だって、咲様はただの一度も私達にわがままなんて言ったことがないのだ
から」
「ふーん、おばあちゃんは咲様が好き?」

「そう、大好きよ。もちろんあなたのこともね」
「うん、わたしもおばあちゃん大好き」

 楽しげな笑い声が、静かな店内に響き渡る。咲は帽子を引っ張ったまま、顔を上げない。テ
ーブルに、ポタポタと熱い雫が落ちていく。
 藤井がそんな咲に、ハンカチを差し出した。

「人の噂も七十五日と言いますけど、この噂は、もっと早くなくなりそうですね」
「そうだな」

 答えた谷口は、珍しく微笑んでいる。運ばれて来たケーキを口にすると、優しい甘みが広が
り、紅茶は涙の味がする。

「おいしいね」

 目を真っ赤にしながら、咲が微笑む。
 小さなカフェを後にすると、大通りでばったりと顔見知りに会った。

「カナちゃんにギインさん?」
「あ、咲ちゃん!」

 カナが手を振り駆けて来る。

「あれ? 今日の夜、出航なんだよね? 今からそっちに行こうと思っていたんだけど」
「そうやねん。もう、しばらく咲ちゃんに会われへん」

 がっくりと肩を落とし、涙目になるカナの頭を、ギインが優しくなでる。

「カナ、残りたかったら、残ってもいいんだよ」

 しばらく黙っていたカナだが、涙を拭いて顔を上げる。

「ううん。カナは船に残って立派な商人になる。そんで、またこの国に来て、友達の手助けをす
るねん。ギインみたいに」
「海賊って呼ばれてもいいのかい?」
「ええよ! ギインとおそろいやから」

 花のような笑顔に、ギインも微笑む。

「咲様、私どもは、これから王城に向かいます。陛下へのご挨拶と、少しやり残したことがあり
まして。ご一緒していただけますか?」

 断る理由なんてない。みんなで王城に向かうと、謁見室に通される。そこには王と賢者がい
た。
 王座の隣に佇む賢者は、あの日以来、顔を隠すことをやめている。ギインは恭しく頭を下
げ、カナは優雅にスカートのすそを摘まむ。

「本日、出航いたします。しばしの滞在でしたが、刺激に溢れ、楽しい日々でございました」

 ギインの言葉に、王は優雅に微笑み、賢者は眉を潜める。

「しかし、一つだけ、この国でやり残したことがあります」

 ギインは懐から紙を出すと、王に見えるように両手で広げる。

「それは?」
「契約書でございます」
「ギイン!」

 賢者の咎める声を聞いて、ギインは微笑む。

「ここには、はっきりと、黒獣を誘拐して欲しいと書いてあります。私は報酬を頂きましたが、ま
だこの依頼を達成しておりません」

 谷口と藤井が、咲を守るように取り囲む。

「何が言いたい」

 王の冷たい声で、ギインは王座へと近づく。近衛兵が数人駆けて来たが、まったく気にせず、
王の隣の賢者に微笑みかけた。

「圭吾」

 前王が亡くなってから、誰も口にすることがなくなった懐かしい名前で呼ばれ、賢者は大きく
目を見開く。

「失恋には、旅が一番いいらしいよ」

 驚く賢者の肩を、ギインは軽く叩く。

「また、砂漠の月を見上げながら、酒でも飲もうよ。」
「お前……」

 器用にウインクするギインに、カナがブーイングをする。

「ええ!? 嫌やぁ! 一緒に行くなら、咲ちゃんがいい」

「どうでしょうか、王様。咲様と圭吾様、どちらの黒獣を誘拐させていただけますか?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべるギインに、王は冷たい視線を向ける。

「どちらも駄目だよ。咲はもちろんのこと、賢者は私が即位した時から、ずっと見守っていてくれ
た、大切な人だからね」
「では、この契約書はどうしましょうか? 王様ともあろうお方が、正式な契約を無視すると?」
「正式な契約は、正規の商売だけにしか通用しないよ。なんなら今ここで、君を捕えてもかまわ
ないんだよ?」

 一歩も引かない両者に、賢者は深いため息をつく。

「分かった分かった。もういい。俺が行く」
「賢者はそれでいいの?」

 王の言葉を、賢者は鼻で笑う。

「俺は、それが、いいのだ」
「「ええ!?」」

 今度は、カナと咲が同時に声を上げる。

「賢者さん……」

 不安げな咲の黒髪をそっとなでる。

「心配するな。気が済んだら、また帰ってくるさ。どうせ、ここしか、俺の帰る場所はないからな」

 その言葉には、黒獣にだけしか分からない意味も含められている。賢者の部屋にある扉から
しか、元の世界には帰れない。その扉が開くのは、次の黒獣が次の王と契約を交わした後だ。

「お前らを見ていたらイライラする。もう後は勝手にしろ。ほら、さっさと船に行くぞ!」
「嫌やぁ!」

 カナの叫び声に、ギインの笑い声が重なる。

「そう言うことでして、黒獣を誘拐させていただきます。毎度、ありがとうございました。今後と
も、ご贔屓の程、よろしくお願い致します」

 王は軽く首をふる。呆れながらも、その口元には笑顔が浮かぶ。

「賢者をよろしくね」

 こうして、黒獣を誘拐した船は、月明かりに照らされて港を出た。

「行っちゃったね」

 咲の部屋で、王が呟く。

「行っちゃいましたね」

 王の横顔がとても寂しげだ。

「王族は、黒獣の前でしか、感情を出したらいけないって、前に言ったよね。咲が来てくれるま
で、私はずっと賢者の前でだけ感情を出していたんだ気がつけば、賢者のことを家族みたいに
思っていた」

 肩を落とす王の髪をなでてあげる。翡翠色の瞳が、咲を真っ直ぐ見つめている。

「咲」

 腕を取られ、顔が近づいてくる。鼓動が早くなり、咲が目を瞑った瞬間。
 ピリリリリリッと、電子音が鳴り響いた。

「え? あれ? 携帯電話が鳴ってる」

 賢者が出て行く前に、餞別にと咲に携帯をくれた。この世界では、とても高価で、なかなか手
に入らないらしい。慌てて出ると、電話の向こうから、賢者の声がする。

『咲、どうだ? 契約は出来そうか?』

 賢者は酔っているようで、少し呂律が怪しい。その後ろからは、たくさんの笑い声が聞こえ
る。

『え? 咲ちゃんと電話してんの? カナに変わって』
『やめんか。今、俺が話しているのだ』

『ケチ! 圭吾のアホ!』
『あっはっは、どうでもいいけど、それ私の携帯電話ですよ。あっはっは』

 笑い続けているのはギインだろうか、酔っているせいでだいぶキャラが変わっている。

『まぁ、こんな感じで、俺は楽しくやっているから』
『代わってぇ、咲ちゃんと話したい』
『分かったから、ちょっと待て。そう言う訳で、お前はお前のペースで頑張れ』
「はい」

 賢者は気がついているだろうか。城にいる時より、声が明るくなっていることに。

『咲ちゃん、カナな、自分の携帯電話を持てるように頑張るわ。そしたら、いっぱいお話ししよう
な』
「うん」

 友達と離れるのは寂しいけど、こうしてずっと繋がっていられる。散々話をして、電話を切る
と、王がソファの上で三角座りをしていた。

「あ、えっと……王様?」
「せっかくいい雰囲気だったのに、賢者の馬鹿」

 ブツブツと何か言っている。

「王様、王様ってば」

 声をかけて、ふと気がついた。

「そういえば、王様って名前がないんですよね」
「名前がないというか、王になる時に捨てたというか」
「じゃあ、王様じゃなくなったら、どうするんですか?」

 驚く王の顔は、次第に赤くなり、何かを覚悟したように両手を握る。

「じゃあ、私が王じゃなくなったら、咲がつけて?」

 その言葉には、王で無くなった後も、ずっと側にいて欲しいという意味が込められている。そ
れを分かった上で、咲は頷く。

「いいですよ」
「え? 本当に? でも、それって……」

 説明しようとする王の唇に、一指し指を当てる。

「いいんです。どんな名前にするか、ゆっくり考えておきますね」

 満面の笑みの王を見て、とても心が温かくなる。咲はだいぶ躊躇った後、顔を赤くしながら、
そっと王の額に唇を落とすのだった。









END




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